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第五章 どうしようもなく、好きな人。

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 通路ですれ違う人が皆驚いたように振り返るから、たぶん今日の視察はお忍びなんだろう。
 従業員通路から出たところにはロビーが広がっていて、茶色の壁紙にオレンジ色で暖か味のあるシャンデリアが行きかう人々を優しく照らしている。今時というよりは昔ながらの雰囲気のある作りで、私の心がキラキラとときめく。こんな素敵なところを匠くんが作り上げているんだ。

「「・・・」」

 匠くんと天野さんが口を噤んで一点を見つめている。それを辿って見れば、フロントのあたりで声を荒げている男性がいた。二人は目配せすることなく同時に動き出し、私は慌ててその後ろをついて行く。するりとフロントカウンターに入り込んだ匠くんに気付いたスタッフが、予約リストを手に駆け寄ってくる。むこうでは、今だ男性は掴みかかる程の勢いで「どういうことだ!」と怒りを露わにしている。

「社長」

「ええ。状況は?」

 フロントカウンターを少し離れて、壁際に移動しながら二人は会話を交わしている。表情は笑顔のままなのは、他のお客様を不安にさせないための配慮だろう。

「あちらのお客様のチェックイン時に確認したところ予約がなくて、それは我々の手違いだろとお怒りで」

 匠くんは受け取った予約リストをぱらりと捲り、視線を男性に向けた。男性の数メートル後ろには家族と見られる女性と子どもが一人心配そうに様子を見ている。

「お名前は?」

「橋本智之様です」

「___これですね」

 磨き上げられた匠くんの指先が予約リストを指差す。確かに”橋本智之”の名前が記載されていた。しかし、それは明日の予約リストに、だ。

「僕が対応します」

 先程までどこかに行っていた天野さんがインカムを手に戻って来た。それを素早く装着した匠くんが、修羅場と化したフロントカウンターの中へと入って行く。

「お客様大変申し訳ありません。こちらの手違いでご予約頂きましたお部屋の準備が出来ておりませんでした」

 匠くんは何も悪くないのに、男性に向かって頭を下げた。男性は突然出てきた若造に訝しげな表情を浮かべる。

「謝ってもすまないだろう! 俺たちは遠くから来ているんだ。泊まれないですか、わかりましたで済む話じゃないんだよ!」

「ええ、お客様。ごもっともでございます」

 男性の怒りが私に向いているわけではないのに、震えが走るくらいに怖い。大人の私でも恐ろしいのに、匠くんはしゃんと対応していた。周りのスタッフは匠くんの登場に安堵したようで、少し後ろに下がっている。自分たちよりも年下の青年に全て任せるつもりなのだろうか。そんなこと大人のすることでは・・・。

「亜子さん」

 怒りで握り締めていた私の手に誰かの手が触れる。振り返ったところに立っていたのは、沙也加さんだった。

「天野さん。私にマイクを貸していただけますか?」

「ええ、もちろんです」

 沙也加さんは私の手を握ったまま、天野さんが装着しているインカムのマイクのスイッチを押した。

「社長。スイートに空きが出ました」

 インカムを付けているスタッフが一斉に視線だけでこちらを見た。

「橋本様の予約よりも上の階です。2210室にご案内出来ます」

 カチリとマイクがオフになると、傍にいたスタッフが駆け寄ってくる。

「奥様! あそこは奥様が本日「いいんです。お客様の大切な思い出にこのホテルを残すほうが何倍も大切です」

 心配そうな表情のスタッフを余所に、沙也加さんは真っ直ぐに匠くんを見た。その横顔を追って、私も視線を匠くんに戻す。

「橋本様には大変申し訳ないのですが、ご予約のお部屋のご準備が出来ません。手違いで上のお部屋をご準備してしまいました」

「う、え?」

「左様でございます。大変申し訳ありません」

「上の部屋だと? と、泊まれるのか?」

「もちろんでございます。他の部屋に空きが無い為、そちらにご案内させていただいてもよろしいでしょうか?」

「お、おい。美奈! 部屋に行くぞ」

 匠くんの言葉に驚いてから、あからさまに嬉しそうにした男性が後ろにいた妻を呼んでいる。匠くんがにっこりと頭を下げてから他のスタッフに目配せをすると、鍵を持ったスタッフが橋本家族を部屋へと誘導して行った。

「亜子さん。匠くんは十八歳の青年である前に、ここの社長です。誰よりも重い責任を背負いながら、グループに人生を預けてくれている社員たちを守っているんです。・・・素敵ですよね」

 今だ沙也加さんに握られている手は温かい。
 匠くんの姿を目に焼き付けながら、沙也加さんの代わりになどなれないのだと心に深く刻んだ。
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