上 下
7 / 59
第一章 ハロー、旦那様。

1-7

しおりを挟む


 人生でこれまでにない程のスピードで振り向いた、と思う。くすくすと片手で口元を抑えながらドアの前に立っているのは、もう二度と会う事は無い・・・はずだった匠くん。

「えっ、なんっ・・・え?」

「なあに?」

「いや、だって」

「だって?」

 慌てているのは私だけで、匠くんはにこにこと無邪気に笑いながら歩み寄ってくる。

「だって・・・」

「だめだよ」

 後退った場所にはソファがあって、膝カックンの要領で勢いよく尻もちをつく。年上の私には落ち着きも主導権も無い。二日酔いでボロボロな私の横に、見下ろす様に片膝を付いて匠くんが覆いかぶさってくる。

「僕じゃない人だったらどうするの。___これ」

 静かにそう言って匠くんが引っ張ったのは、私のブラジャーの紐。

「・・・」

「いろんなもの、丸見えだよ」

 ぱちんと定位置に戻ったブラ紐を見て、声にならない叫びを喉に詰まらせたまま慌ててバスローブを手繰り寄せる。
 恥ずかしい、恥ずかし過ぎる、終わった。弛み切った身体に処理してないムダ毛、ちぐはぐで年季の入った下着。青年たちはグラビアアイドルを見て、それが女性の普通だと夢見ている年頃のはず。まだ現実も知らぬ青年に、この枯れ具合は毒でしかない。

「___忘れて、ください」

「それはお願い?」

「おね? あ、はい。お願いします」

 視線を上げるのは怖いけれど、匠くんが今どんな表情をしているのか気になる。ちらっと、バレないように盗み見ると、匠くんは心底楽しそうに口角を上げた。だからといって返事はなく、ぼさぼさの私の髪をパスタのように指に巻き付けて遊んでいる。それは、一体どういう意味ですか?

「うん、わかった。可愛い奥さ「ありがとう! 綺麗さっぱり忘れてね! 何なら記憶無くなるように、そこの花瓶で殴ろうか?」

 了承が聞こえた瞬間、喜びで匠くんを押しやりサイドテーブルに乗った花瓶を指差して見せる。割と本気だったけれど、冷静に断られてしまった。せっかく忘れて貰えるんだから再び見せてはいけないと、立ち上がってからきつくバスローブの紐を結ぶ。

 さあ、帰ろうと思った。思った時、ふと。

「どうしてここにいるの?」

 ぽろりと本音が口から転げ落ちた。本当に無意識で、自分で自分の言葉を聞いて「確かに」と思ったくらい。

「亜子ちゃん、僕の話聞いてくれないから」

「あっ、ごめん。なんだか緊張しているというか、落ち着きがなくなっちゃって。普段はこんなんじゃ「もう、振り回されっぱなし」___なぃ」

 後ろから回された腕は、私の腰を締め付けている。背中には筋肉質な男の身体の感触があって、耳元には息が掛かるくらいに寄せられた綺麗な顔。私は匠くんに、後ろから抱き締められている。


「さっきのは忘れる。でも、昨夜のことは忘れないよ?」
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

ずぶ濡れで帰ったら彼氏が浮気してました

宵闇 月
恋愛
突然の雨にずぶ濡れになって帰ったら彼氏が知らない女の子とお風呂に入ってました。 ーーそれではお幸せに。 以前書いていたお話です。 投稿するか悩んでそのままにしていたお話ですが、折角書いたのでやはり投稿しようかと… 十話完結で既に書き終えてます。

竜人のつがいへの執着は次元の壁を越える

たま
恋愛
次元を超えつがいに恋焦がれるストーカー竜人リュートさんと、うっかりリュートのいる異世界へ落っこちた女子高生結の絆されストーリー その後、ふとした喧嘩らか、自分達が壮大な計画の歯車の1つだったことを知る。 そして今、最後の歯車はまずは世界の幸せの為に動く!

婚約をなかったことにしてみたら…

宵闇 月
恋愛
忘れ物を取りに音楽室に行くと婚約者とその義妹が睦み合ってました。 この婚約をなかったことにしてみましょう。 ※ 更新はかなりゆっくりです。

毒家族から逃亡、のち側妃

チャイムン
恋愛
四歳下の妹ばかり可愛がる両親に「あなたにかけるお金はないから働きなさい」 十二歳で告げられたベルナデットは、自立と家族からの脱却を夢見る。 まずは王立学院に奨学生として入学して、文官を目指す。 夢は自分で叶えなきゃ。 ところが妹への縁談話がきっかけで、バシュロ第一王子が動き出す。

届かない手紙

白藤結
恋愛
子爵令嬢のレイチェルはある日、ユリウスという少年と出会う。彼は伯爵令息で、その後二人は婚約をして親しくなるものの――。 ※小説家になろう、カクヨムでも公開中。

長い片思い

詩織
恋愛
大好きな上司が結婚。 もう私の想いは届かない。 だから私は…

【完結】どうして殺されたのですか?貴方達の愛はもう要りません  

たろ
恋愛
処刑されたエリーゼ。 何もしていないのに冤罪で…… 死んだと思ったら6歳に戻った。 さっき処刑されたばかりなので、悔しさも怖さも痛さも残ったまま巻き戻った。 絶対に許さない! 今更わたしに優しくしても遅い! 恨みしかない、父親と殿下! 絶対に復讐してやる! ★設定はかなりゆるめです ★あまりシリアスではありません ★よくある話を書いてみたかったんです!!

二人目の夫ができるので

杉本凪咲
恋愛
辺境伯令嬢に生を受けた私は、公爵家の彼と結婚をした。 しかし彼は私を裏切り、他の女性と関係を持つ。 完全に愛が無くなった私は……

処理中です...