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最終章 おかえり、シンデレラ。
last-3
しおりを挟む椅子に座らされた私は、咲く場所を間違えた名もなき花のようにここにいる。皆忙しそうにしているし、私の近くには誰もいない。髪もセットしてもらったし、ドレスの裾までセットしていたから動くことは出来ない。視線だけで回りの様子をただただ眺めていた。前回同様にセリフもなければ説明もなく、これこそアドリブというものだ。まあ、主役は五十嵐社長と私の睫毛だけだと思えば気も楽になる。手持無沙汰で膝を掻いていると、衣装スタッフがこちらに向かって来るのが見えた。
「伊藤さん。これを付けるので目を閉じて頂けますか?」
そう言って笑った衣装スタッフの手には、背景に掛けられた真っ赤な布と同じ生地が握られていた。それは運動会で使うハチマキのように細長くカットされている。
「マスカラベースのCMなのに目元を隠してしまうのですか?」
「えぇ。今回の演出だそうで。私も詳しくは知らないのですが」
「そうなのですね。分かりました」
目を閉じてそれが巻かれるのをおとなしく待てば、微かな話し声がしてふわりと目元に布が当てられた。間近に感じる体温と慣れた香りに、思わず息を止める。目の前に感じる存在に鼓動が速まり、唾液が込み上げてしまう。見えなくてよかった。何がどうしてこうなったのかは分からない。それでも私の前に立ち腕を回して布を結んでいるのは五十嵐社長なのだ。触れそうで触れてこないその動きに己の餓えたオンナが顔を出すのを、奥歯を噛みしめて堪えた。
目隠しをされて何も見えない状況で、離れてしまった五十嵐社長が隣にいるのかどうかさえ分からない。全身の感覚が研ぎ澄まされているみたい。誰かの足音や話し声、自分の心臓の音もうるさいくらいに聞こえてくる。
「それでは撮影開始します。よろしくお願いします」
監督らしき人の声が聞こえ、辺りが一斉に静かになる。前回はシャッター音がしきりに聞こえていたのに今回は静寂のままだ。撮影が開始されているのかも分からないけれど、下手に動いてNGになってしまってはいけない。鼻から息を吸い、背筋をピンと伸ばした。
空気が動く感覚と布擦れ音がして、そこに五十嵐社長がいるのかと探るように首を小さく動かす。恐らく・・・目の前に彼はいる。不安になっていく気持ちを知られてしまったのか、顎に手を添えられて誘導するように少し下を向かされた。私の目線の少し下に五十嵐社長はいるということだろうか。受け身でいるしかなくて不安が込み上げるのに、どこか大丈夫だと思う自分もいる。それほどに私は五十嵐社長を信じてしまっているのだろう。それはもう自分でコントロール出来る感情ではなくなっているのだ。
左手を握られてゆっくりと持ち上げられた。私は人形のようにされるがままだけれど、中身は人間でいろんな感情が渦巻いている。指先に鈍い痛み。甘噛みされた指先の痛みよりも、するりと抜き取られる手袋の感覚のほうに驚いている。折角付けた手袋を何故外してしまうのか。
お姫様のように五十嵐社長の手に指先を乗せたまま、ドクドクとうるさい心音を聞いている。何も気付かないドラマのヒロインでいれたらいいのに、私の勘が「まさかね」と囁いてくる。薬指の先に当たる冷たい金属の感覚、ゆっくりと肉を押し上げられる感覚。私も女だから、指輪を通してみたことくらいある。アクセサリーショップで、頂き物でもない指輪をはめてみたことくらい。でも全く違う感覚。いいや、同じでも私の気持ちが全く・・・違うの。
後頭部に触れられ、解かれた目隠しが緩まり眩しいライトに目をゆっくりと開く。椅子に座ったままの私の前で片膝立てている王子がこちらを真っすぐに見ていた。何も言わない五十嵐社長は、無表情から感情も伺えない。シルバーの新郎にも見えるタキシードに身を包み、私の薬指には指輪がはめられている。
これがCMの演出だと言うの? セフレの私にこんなことして、今だけ夢でも見て居ろとでも言いたいの? 負の感情が私の中で暴れ狂って、込み上げる涙は一粒だけ頬を伝い落ちた。幸せな表情をすべきシーンであることくらい分かっている。分かっているけれど、私は女優じゃない。感情の操作なんて出来やしないの。
私の涙に一瞬眉を寄せた五十嵐社長は、私から指輪の方に視線を移してしまった。馬鹿みたいに喜ぶと思っていたのかもしれない。私はディズニーランドでプロポーズされたいだとか、夢見ることは止めた現実的な女だもの。これが本当にプロポーズのサプライズでしたなんてありえない。五十嵐社長がそんなことするような人じゃないことは分かっている。これは、ビジネス。ビジネスのために、私だって演じてみせる。
決意の唾液を飲み込んだとき、五十嵐社長がゆっくりとした動きで私の手を引き指輪にキスをした。優しく閉じられた瞼の二重の線まで私には見える。それでも五十嵐社長の心の中までは見えやしない。スローモーションのように五十嵐社長の顔が上げられ、目が合う。見上げてくる瞳は好戦的ではなく、いつもの自信ありげな雰囲気でもない。
「素敵な夢をありがとうございます」
小さく呟いてから出来るだけ聖母のように、歯を見せず口角を引き上げるイメージで微笑んで見せる。見つめ合う五十嵐社長の瞳は、謝罪を述べているように見えた。「お前の気持ち受け取れなくて悪いな」とでも言っているような気がして。
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