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最終章 おかえり、シンデレラ。
last-2
しおりを挟む久しぶりのジムに気持ちの良い汗を流した帰りである。受付でスタッフたちに挨拶をしてエレベーターを待っていた。懐かしいエレベーターの到着音に頬を緩めれば、開いたエレベータードアの中には男性が立っていた。黒いコートに黒いセーターと黒いスキニーの全身黒ずくめの怪しい男は、見覚えのある半透明のサングラスをしている。
「あ・・・」
「___乗れ」
顎でそう指示されれば、慣れた私の身体は自然と動いていた。
ドアを前に俯きながら、背中の神経は後ろに立つ人物に集中している。それはそうだ。私の脳内の大半を占めているのはこの男なのだから。
「わざとか?」
「な、にがですか」
「ボタン。上を押していたから止まったんだ」
そう言われて癖で上ボタンを押していたことに気付く。
「間違えました。別に五十嵐社長の自宅を訪ねようとしていたわけではありません」
「___そうか」
乗ってしまった以上、上の階へと向かうエレベーターに運ばれるしかない。後ろでボタンを押す微かな音が聞こえて、緊張が高まる。上を見れば五階の文字が光っていて、行く先はここだと訴えているようだ。私は今、五十嵐社長のセフレ。このままついて来いと言われれば、断る理由などない。嬉しいような悲しいような、はっきりとしない気分のまま五階に到着してしまった。ドアが開いても五十嵐社長は動かない。これは降りろと言うことなのだろうか。
一歩踏み出そうとした時、隣をいい香りが通り過ぎる。呆然と背中を見つめれば、玄関ドアの前でこちらを振り返った。この距離ではサングラスの向こうがどんな瞳をしているかなど分からない。
「金曜日。朝に迎えに行く」
「え?」
「返事は”はい”だ」
「は・・・い」
私の答えを聞いて、美味しそうな唇が弧を描いた気がした。見て居たかったのに、エレベータードアは警告音を鳴らしながら閉じてしまった。
それからの私の日々は皆さん想像がつくと思う。金曜日の予定を想像しては気分が上がったり、落ちたり違う意味で忙しい毎日だった。久しぶりに商談かな? とか、もしかしてセフレとしての仕事かな・・・とか。でも朝からなんてないよな、とか。聞きたくても五十嵐社長に電話する勇気などなかった。その結果、私はここにいる。
「どうして・・・」
そこは以前コラボ商品のCM撮影をしたスタジオだった。あの日よりも人が増えて活気のある撮影スタジオに圧倒される。二の足を踏む私を横目に五十嵐社長はスタジオに入っていってしまって慌てて追いかけた。
「わあ!」
前回は真っ白な背景だったのに、今回はシルクの真っ赤な布が掛けられていた。二枚の長い布が交差するように掛けられていて、シワが寄ってシルクの光沢と濃淡が見えているのがまた良い。社会科見学に来た学生のようにきょろきょろと見渡していたら、見覚えのある顔に自然と笑みが込み上げる。
「伊藤さん」
私の視線に気づいた女性が手を振りながら近づいてくる。
「お久しぶりです」
「お久しぶりです。CM出てから大変だったんじゃないですか?」
心配そうに眉を寄せながら私の手を握ったのは、前回担当してくれたメイクさんである。向こうには二木専務と恵子さんもいる。
「いえ。私は全然。それより今日はCM撮影ですか?」
「えぇ。聞いてないんですか?」
「はい。移動の車内は無言で地獄でした」
「え? 喧嘩中ですか?」
「いえ。そういうわけではないのですが・・・」
そうじゃないんだよなと思いながらチラリと五十嵐社長を見れば、向こうで二木専務たちと合流して話をしている。悩み心乱れているのはきっと私だけなのだろう。
「それじゃあ、私も二木専務に挨拶してきます」
メイクさんに別れを告げて二木専務の元へと駆け寄れば、気付いた二木専務が優しい笑顔で迎えてくれた。
「二木専務。お久しぶりです」
「えぇ。お変わりないですか?」
「はい。元気にしています」
「今日はよろしくね」
「はい。___ん? 今日は何をするのですか?」
「新CMの撮影よ」
「あぁ。私は何のお手伝いをしたら良いですか?」
「なーんにもしなくていいわ。そのままの伊藤さんでいい。恵子ちゃんについて行って」
「はい」
二木専務の後ろに立っていた恵子さんに会釈をすれば、手首を掴まれて引っ張られる。女性の力くらいなら振りほどくことなど容易いけれど、そうする理由などないからおとなしくついていく。私は誰かに営業でもするのだろうか。久しぶりの商談に少しの緊張と喜びを感じながら足取り軽やかに続いた。
鏡を前に私はされるがままでいた。さすがに事前に知らせて欲しかった。ブローして緩く巻かれた髪に、メイクさんにしてもらった綺麗なメイク。私は今日、二度目のCMデビューをすることになる。
「冬なのにメイクのり最高です。やっぱり噂の美容液のお陰ですかね?」
出来上がりの確認をしているメイクさんが、仕上げのフェイスパウダーをはたきながら呟いた。確かに毎年この時期は頬の感想が酷くて、ファンデーションがうまくのらないのが悩みだった。それがIGB-01を使っている今は、そんな悩みのことを忘れるくらいに絶好調である。
「そうだと思います。何時でも調子いいです。怖いくらいに」
「なるほど。決めた。私もそれ買いたいです。あとで話出来ますか?」
「もちろんです。今日は資料がないので、後日ラヴィソンでお話でも大丈夫ですか?」
「えぇ。仲間にも宣伝しておきます」
「わあ・・・、あ。でも宣伝は待って貰えますか? 今、五十嵐社長が動けない状況で培養が滞っていて。生産状況を確認してから宣伝をお願いしたいです」
「分かりました。この業界にも革新が起こる気がします」
「そうなれば嬉しいです」
会話しながらも首を左右上下に動かされながらチェックを受けて、メイクさんは納得したように口角を持ち上げた。気の合うこの人とは長い付き合いになりそうだ。
「今更ですが名前を聞いても?」
「あ、申し遅れました。松本です」
「伊藤です」
「存じています」
松本さんと目を合わせて笑う。この後何をしたらいいかも分からないけれど、今だけは楽しい時間に違いないから。そこに衣装のスタッフさんが近付いてくる。
用意されていたドレスは白いレースのところどころにダイヤが散りばめられたラグジュアリーなものだった。前回は真っ黒なドレスだったけれど、今回は同じようなデザインの白色バージョンと言っていいだろう。膨張職に尻込みはしたが、前回同様に私の目元のアップばかりならば気にする必要はないだろう。体重は前回より二キロほど落ちているし、お腹に力を入れて居ればきっと大丈夫。全身鏡の前で改めて自分を見れば、まるでウエディングドレスのようだと思った。この先私が白いドレスを着ることはないだろうけど。
「これを付けてください」
手渡されたのは白い手袋で、これでウエディングベールを付けたら花嫁になると苦笑した。「どうして貴女なのでしょうね」という倉科さんの言葉が浮かぶ。それは私が一番知りたいことだ。どうしてCMに出るのが私で、五十嵐社長に指名されたのが私なのだろう。何の取り柄もない私が。それでも選んでもらえたのなら、私はそれに応えるだけ。
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