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第五章 引き裂くのは運命か、それとも定めか。
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しおりを挟むずっと心臓のドキドキが治まらなくて、部屋の中を行ったり来たりしていた。「行く」と言われたわけじゃないし、何かある保証なんてないし、それでも一応・・・ベッドルームまで整えた。ゴムの伸びたくたびれパジャマを柔らかな素材のグレーの前開きパーカーに着替えて、下半身は黒のストレッチスキニーに履き替えた。これまでだるだるのパジャマやスッピンも見られてきたし、何なら体重だって知られているのだからこれ以上の痴態などないはずなのだけれど。やっぱり好きな人には素敵に思われたい女心なのだ。
ピンポーン。オートロックでもない我が家は玄関先でチャイムを押し、顔はのぞき窓を覗かねば見られない古典的なタイプだ。汗で湿った手の平で髪を整えてから覗き窓を覗けば、歪んで映ってもイケメンな五十嵐社長が見えた。ごくりと唾液を飲み込んでから、焦らすようにゆっくりと鍵を開けてドアノブを押す。
寒空の下、白いワイシャツにスラックス姿の五十嵐社長は口から白い息を吐いている。セットされていない髪は少し乱れていて、寄せられた眉の下にある瞳が私をまっすぐに見つめていた。
「五十嵐社長」
「酒の匂いはしないみたいだが」
「え? あ、えっと」
「大丈夫ならいい。・・・元気で」
「はっ? ちょっ」
両手をポケットに収めて廊下を歩いて行ってしまった五十嵐社長を追いかけて走れば、階段を上がってきた女性二人組とぶつかり立ち止まる。五十嵐社長が顔を逸らすのを見て、私は「すみません」とマネージャーのように彼を隠した。それでもきっと気付かれてしまっていて、通り過ぎてしまった今後方で「きゃあ」と黄色い悲鳴が上がっている。
「お前は戻れ」
「___嫌です」
「風邪をひいたら俺の責任になる」
「今の私は預かりものではありません。返品したものが風邪をひいても、五十嵐社長の所為にはなりません」
「・・・」
五十嵐社長に見下ろされて、久しぶりに会えて口喧嘩出来ていることさえ嬉しい。ポケットに入れられた頑なな腕を掴んで、無計画のまま自宅へと引きずり込んだ。
玄関で靴を脱ごうとしない五十嵐社長に向かい合っている。
「寒いですよ? 狭いですけれど上がってください」
「___はぁ」
溜息をついてから柔らかな下唇を噛んだ五十嵐社長は、視線を壁の向こうへと向けている。私はこの一瞬でさえ見逃さないように、目の前の男を見つめていた。
「もう、俺に・・・IGバイオに深く関わる必要はない。これからは通常の取引先と同様でいい」
「どういう意味ですか?」
「もう電話をするな。ビルにも来るな」
「・・・」
完全な拒絶の言葉を改めて言われれば、心臓がえぐられるように痛む。
「嬉しいだろう? 俺から解放されて」
まっすぐに見つめ返せば、五十嵐社長の苦悶の表情が一瞬見えた気がした。すぐに戻されたクールで完璧な五十嵐社長の姿に、これを壊したいと変な欲求が込み上げる。私がこの男を揺らし、震わせたい。
「私、もう逃げませんよ」
「は?」
「何ですか? いつも何か言いたげに見つめてきて、私はなんでも分かる聖人君子ではありません。何でも先回りして守ってもらっても、言ってくれなきゃ感謝も出来ません」
「___伝えることは伝えた。帰る」
私に向けられた背は大きいのに捨てられた子犬のように寂し気で、気付いたら抱き締めていた。
「嬉しくないです」
「・・・」
「解放しないでください。いつまでも我が物顔で偉そうにしていてください」
「___何を言っているか分かっているのか?」
「はい」
「俺に関わったら不幸になるぞ」
「それは周りの目のことですか? これまでも五十嵐社長の隣で”なんでお前が?”って視線はたくさん浴びてきました」
「わざわざ巻き込まれる必要ないだろう。もう・・・仕事じゃないんだ。俺を拒絶しても構わない」
「仕事だから、今後のラヴィソンを担う大切な取引先だから私が従っていたとでも?」
「___そうだ」
「否定はしません」
不安そうな背中におでこをぐりぐりと擦り付ける。私の行動の真意を測りかねている五十嵐社長は、されるがまま立ち尽くしていた。ああ、私のことで揺れている。この完璧で誰もが認める良い男が、ただの三十路の女相手に、だ。お金を持っているわけでもなく、権力もないし美人でもない。この私が。
「聞いても答えて貰えないので、一方的に言わせて貰います。嫌いじゃないですよ。五十嵐社長のキス」
肩口に振り返った二重が私を見下ろし、それを見上げ返す。何かを問いかけてくる瞳にも動じない。もう気持ちを汲むのは疲れたから、私がわがままを言っても構わないでしょう?
「必死で全てをぶつけてくるようっむぐ」
素早く身体を反転させた五十嵐社長の手が私の口元を抑えた。見下ろしてくる目は少しの憤りと・・・恥、に見える。主導権を渡さないために、目だけでもしっかりと見上げ返す。
「黙れ。何がしたい?」
聞かれたって答えられませんと視線だけで「手を放して」と合図すれば、一呼吸置いた後解放された。私は勝利の旗を掲げる。
「童貞みたいで、かわっ・・・」
五十嵐社長は私の言葉に目を見開いてから、不届き物の口内に親指を差し込んだ。差し込まれた側の私は異物のちょっぴり塩味にちょっと動転していた。
「誰が童貞だと?」
「んぐっ、・・・それはいがあしっ」
強引に腰を引き寄せられながら、口内に入った指が私の舌を撫でる。つま先立ちで不安定な体勢を力強い腕がしっかりと支えていて、逃がさない意志さえ感じさせる。見下ろしてくる瞳はサディスティックで、長い指は逃げる私の舌をぐりぐりと刺激してくる。形勢逆転の狼煙は吹いても消せそうにない。
「気持ちよさそうにしていたのは誰だ?」
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