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第五章 引き裂くのは運命か、それとも定めか。

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 午後のジムは散々だった。体験入会の女性が殺到していて、あまりの人数にフロアが揺れているとさえ錯覚してしまうほどに。既存の会員たちは皆迷惑そうな顔をしていて、帰ってしまう人も多くいた。山本くんに謝罪されたときは「こちらこそ、すみません」と謝り返した。だって、こんなことになってしまったのはCMが原因だとしか思えないからだ。

 CM公開から今日で四日目なのに、恋する女性は行動が早すぎる。確かに芸能人になってしまったら一生出会うことはなくなってしまうかもしれないけれど、一般人の今なら・・・とも思ってしまうかもしれない。残念だけれど五十嵐社長は一般人であっても、レベチの高嶺の花なのだ。若者言葉を使ってみたけれど、今日一日ネットサーフィンし過ぎた所為かもしれない。

 コンコン。ノックされたのは自宅の玄関ドア。これまでこの部屋に訪ねてきた人はひとりしかいない。着替える時間はないから、ベッドに寝転んで乱れた着衣を正しながら玄関ドアを開けた。

「___倉科さん」

 予想外の訪問者に驚きつつ目を瞬かせる。終業時刻は十八時で、今は二十時を過ぎようとしていた。通常であれば帰っているはずの人物が目の前に立っている。

「今すぐ荷物をまとめてください」

「え?」

「急いでください」

 玄関に立つ私を押しのけて倉科さんが部屋に入り、そしてキャリーバッグに荷物を詰め始めた。慌てて追いかけてキャリーバッグを掴む。

「どど、どういうことですか?」

「住み込みは終了です。明日からはこちらではなく、ラヴィソンの方に出社してください」

「え? まだあとひと月あるはずじゃ「もう結構です。売り上げ目標も達成しました。ラヴィソンでの今後のご活躍、期待しています」

 あっさりと目標達成を告げられ、予想していた皆でハイタッチみたいな空気は皆無だった。呆然と床にへたり込めば、そんな私を横目に倉科さんは荷物を詰め続けている。来た時はキャリーバッグひとつだったのに、帰りは大きな紙袋三つ分荷物が増えていた。

「佐山部長が来られています。急いで降りましょう」

 ふた月過ごした部屋に後ろ髪を引かれながらも背中を押されれば前に進むしかない。両肩に紙袋をひっかけて、部屋着にコートを羽織ったへんちくりんな女がビルの前に放り出される。道路には佐山の車が停まっていて、私を見るなり窓を開けて名前を呼んでいた。振り返ってみれば少し後方で、倉科さんが私に向かって最敬礼をしていた。

「倉科さん・・・」

 ゆっくりと上げられた顔はいつものクールさの向こうに葛藤が見える。

「社長が貴女を選んだ理由、分かりたくありませんでした。貴女は自分のことに対しては馬鹿だから・・・一生分からなくて結構です。社長は私が守りますからご心配なく。さよなら」

 私が口を開く前に踝を返してビルへと戻って行ってしまった。私は何の説明もなくお払い箱、ということなのだろうか。何が何だか分からないぐちゃぐちゃな思考で、情けない顔をしながら佐山を振り返る。車から降りてきた佐山は何も言わずにキャリーバッグを車に積み、私から紙袋を奪ってそれらも乗せてしまった。

 何の心の準備も出来ていない。何の挨拶も出来ていない。それなのに私はここを去らなければいけないと言うのか。五十嵐社長にも会わずに?

「伊藤! 行くな」

 思わず駆け出しそうになった私の腕を、佐山が強い力で引き戻した。

「行くなよ。・・・帰ろう」

 頬を伝うのは悲しみか悔しさか、自分でも制御出来ない涙が零れていく。嗚咽は出なくてただただ溢れる涙に、鼻が真っ赤に染まって熱をもつ。なんだ。なんだ。なんなんだ。いらないおもちゃは最後に抱き締めもせずに捨ててしまうのか。私が必死に働くように思わせぶりに弄んだと言うのか。

「大丈夫。俺がいるから」

 佐山の掠れた声が聞こえて、目の前が真っ暗になった。顔に当たる感触にこれはスーツだと分かる。手で触ればそれは確信に変わって、不細工な顔が見えないようにぎゅっと握りしめた。佐山は来ていたスーツを私の頭から被せてくれていて、そのまま車へとエスコートしてくれたのだ。助手席に座らせられ、ドアの閉まる音がする。数秒後にドアが開いて、再び閉まる音がして佐山も乗り込んだことを悟った。

「___ごめん」

 ぐずぐずの声で謝罪を口にすれば、頭を小突かれた。佐山は・・・良い男だ。私が違う未来線上にいれば好きになることも大いにあっただろう。それでも私は、ここにいる私の心を奪っているのは違う男なのだ。きっと真っ赤な顔だから、佐山のスーツは帰るまで借りておこうと思う。そう思ったとき、スーツの上からおもむろに抱き寄せられた。

「貴方のお陰で伊藤が輝きを取り戻したこと、感謝します。これからは俺が磨くので」

 突然佐山が声を張り上げる。私も突然のことに動けずにいたら、助手席の窓が閉まる音がした。都合良い私の勘がけたたましく警鐘を鳴らすから、慌ててスーツを脱ぎ捨てる。ぼさぼさの髪の隙間から、ビルのエレベーター前に立つ人影が見えた。ちゃんと確認したいのに佐山が車を発進させてしまうから見えなかった。

「佐山! 誰かいた?!」

 髪を整える余裕もなく佐山を見れば、イラついたように眉を寄せている佐山の横顔は口を噤んで動かない。シフトレバーに置かれた佐山の腕を掴み揺らして抗議する。

「佐山!」

「落ち着け。・・・お前の会社も家も、上司もあそこには無い」

 ぽろぽろ落ちていく涙で佐山のスーツが濡れていく。下唇を強く噛んでみても涙は止まらない。

「目を覚ませ。落ち着いたら通常の取引先同様に付き合えるようになる。二度と会えないわけじゃない。何をそんなに興奮しているんだ」

 そんな風に言われたって答えられるはずがない。恋していましたって。キスされて勘違いしていました、だなんて言えるはずがないじゃない。普通になんて戻りたくない。私は石ころで良かったのに。高嶺の花の近くに転がる石でいられれば良かったはずなのに。欲を出してしまったから? だから私を遠ざけるの? そんなこと聞いたって、きっと答えなんてくれないのは分かっているのに。

「出勤は来週からでいいから、ゆっくり休め」

 気遣うように肩を叩いてくれた佐山の優しさを理解出来るほど、私の心には余裕がなかった。
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