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第五章 引き裂くのは運命か、それとも定めか。

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 私は渋谷のスクランブル交差点前にいる。隣にはスーツにショート丈のPコートを着た有村さんがいて、腕時計を見ながらカウントダウンを始めた。

「3・2・1」

 美しいバイオリンの音と共に、四つの大きなスクリーンに同じ映像が流れ始めた。時刻は十九時。辺りは暗くなっていて、背景の明るい白が歩行者の目を引いている。


 貴女が誘惑したい相手はいますか?


 白い背景に黒い文字が浮かぶ。ゆっくりとしたバイオリンの音が止まり、「ポーン」と電子音が流れてから映し出されたのは黒いドレスの女性の背中と彫刻のように美しい男性が跪きこちらを見つめている写真。誰がどう見ても素敵なその男は五十嵐啓太。私の想い人。電子音のお陰で視線がスクリーンに集まり、周りの女性が言葉を失い見惚れている。

 次に流れるのは私の目元のアップのシーン。カシャカシャと幾つかの角度に切り替わり、私が五十嵐社長の頬に手を添えているシーンに切り替わった。真横から撮られたそれは、私の顔が映らないように配慮されているのか私の顎から下しか映っていない。そして私の目元のアップ、五十嵐社長の目元のアップ。どんどん切り替わっていく映像を、呆けた顔で見上げていた。

 恐らく一分もなかったと思う。数日前の出来事が走馬灯のように頭を過っていく。スクリーンにはマスカラ下地の発売日と「詳しくはホームページへ」と映し出されている。そして数秒後に他のCMへと切り替わった。

「いいじゃないですか」

 先に口を開いたのは有村さんだった。私は言葉が見つからず、視線だけで肯定を返す。

「今日から発売日までの四日間、十九時から二十二時の間このようにCMが流れます。三十分に一度なので一日八回。そしてテレビCMでも流れます。これじゃあ、五十嵐社長のファンクラブが出来てしまいそうですね」

 後頭部を掻きながら有村さんが困ったように笑ったけれど、その予想はあながち間違いではないと思う。スクリーンを動画に撮っている人もいたし、NIKIのホームページにはマスカラ下地の説明と今回の動画も視聴出来るようになっているのだ。何かが起こるような気がして、背筋がぶるりと震えた。どうか良い事でありますように。



 IGバイオのビルの前で有村さんの車に手を振った。NIKIとの共同研究が終了し、有村さんと斎藤さんがここに来るのは今日が最後。新商品が発売されて落ち着いたら飲みに行こうと約束して、気持ちも追いつかないままこの日を迎えた。五十嵐社長も一緒にCMを見に行く予定だったのに、急用だと倉科さんと二人で出かけてしまった。CMを見に行くときにアランと斎藤さんは帰ってしまったので、私はひとりきりだ。

 エレベーターに乗り、自宅へ戻る。真っ暗な部屋はいつもより寂しく感じた。


 ドン。部屋に響いた音に飛び上がる。深夜の一時にベッドの中でスマホを眺めているときだった。その音は五十嵐社長の家へと繋がるドアの向こう側から聞こえた。音を立てないように四つん這いで恐る恐るドアへと近づく。ドアに耳を当ててみれば、向こうから服が擦れる音がする。

「・・・」

 静かだった。それでも胸が高鳴るのは、このドアの向こうにいるのであろう人間を一目見られる喜びに震えているから。変態だって異常だって、なんと言われたって良い。数時間見なかっただけで寂しさに苦しくなって、一言交わせるだけで喜びに全身の鳥肌が立つ。

 ドアノブを手に、向こうへと押してみる。鍵がというよりは、何かがそこにいる重みだった。震える手でコンコンとドアをノックしてみれば、ズルズルと服が擦れる音がした。数秒待ってからドアを押してみると簡単に開いたドアから顔を覗かせる。私の部屋も真っ暗だったから暗闇に目は慣れていた。だから暗い廊下の壁に背中を預けている人物にすぐ気が付く。

「大丈夫ですか? 五十嵐社長」

 私が這うように廊下に出れば、廊下のセンサーライトが作動してぼんやりと明るくなった。五十嵐社長はドア横の壁に背中を付けて、立膝の上に顔をうずめている。漂う匂いで分かるのは、アルコールを飲んできたのだと言うこと。

「水、持ってきましょうか?」

 動かない五十嵐社長の肩を撫でてからそう言っても返事はない。後輩の介抱は慣れているから、とりあえず水を取りに行こうと立ち上がる。でも、動けなかった。掴まれた手首は痛いくらいで、それさえ私を求めているのかと錯覚してしまいそうだ。

「___立てますか?」

 邪心を抑え込みつつ、もう一度しゃがんで問いかける。ゆっくりと持ち上げられた五十嵐社長の顔は、泣きそうなくらい潤み悲し気だった。なんだと言うのだ。この数週間距離をとっていたのは貴方のほうなのに。泣きたいのはこちらだ。平気なふりをしていたけれど、不安で堪らなかった。私はなんの肩書も持たないくせに、一丁前に独占欲が込み上げていたのだから。私に飽きて、他の女へと行ってしまったのかと。

 柔らかそうな下唇を、五十嵐社長自身の白い歯が噛みしめる。ああ、もったいない。なんて、気持ち悪い感想も心の中でなら許して欲しい。睨むようにこちらを見る瞳は悪意ではない。それでも真意はきっと語ってはくれないのだろう。その瞳で何を語っているのか、私には分かりません。

 ぐっと腕を引かれて近付く距離に、久しぶりのキスへの期待が高まる。五十嵐社長の視線は私の唇に注がれていて、ショーケースの中にあるケーキを眺める子どもみたいだ。欲しいのならそう言えばいい。私は五十嵐社長を拒む理由なんてひとつもないのだから。五十嵐社長の手が私の後頭部に移動して、引き寄せるように動かされる。輪郭のはっきりとした唇がゆるりと開けられて、美味しそうな舌がちらりと覗く。ああ、やっと・・・。

「「・・・」」

 期待は最高潮に達していて、すべての準備が整っているのに私に口づけは与えられない。吐息がかかる距離なのに、そこでぴたりと止まってしまっている。いやらしい唇から五十嵐社長の瞳に視線を移せば、眉を寄せて苦しそうにこちらを見ている瞳と目が合った。私を見ながらも考えるように眉を寄せていて、近距離でアルコールの匂いを嗅いでこちらまで酔ってしまいそうだ。


 初めて自分からした口づけは、かすめるようなものだった。酔っていて記憶がなければいい。ぶつかっただけだと思ってくれたらいい。私からの想いがバレなければそれでいいの。

 私はすぐに立ち上がり、水を入れたコップだけを置いてドアを閉めた。弱虫で自信のない私が今世紀最大に勇気を出した夜だった。

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