上 下
33 / 65
第三章 掴んだ手を放すことは、許されないでしょう。

3-10

しおりを挟む
 昨夜は日付が変わる前に解散したお陰で、寝坊することもなく起きることが出来た。メイクは昨日同様にしっかりとしたし、羽織るジャケットはシワも埃も付いていない。隣に立つ五十嵐社長はネイビーのスーツ姿で今日も底抜けにかっこいい。美容クリニックの本店の前で肩を小さく回しておいた。紹介であっても商談に変わりはないのだ。


 白を基調とした店内は清潔感と高級感のある造りになっていた。カウンセリングルームは全て個室となっていて、待合室のソファはふわふわで沈み込むように私のお尻を包み込んだ。美人な受付の女性に呼ばれて通されたのは医院長室で、こちらはダークブラウンの重厚感のある棚や机が置いてあった。中央には来客との談話用ソファが向かい合うように置かれている。

「___商品のことはよくわかりました。そこでうちは美容クリニックなので、少し相談なのだが・・・」

 そう言って医院長はちらりと私を見た。なんとなく感じる空気に、私は目を丸くしながら五十嵐社長を横目に見る。

「ええ。専門的な話は私がいたします」

「どうもありがとう。じゃあ、伊藤さんにはうちのクリニックの案内をさせよう。是非長い付き合いをお願いしたいからね」

 にこやかにそう言った医院長に微笑み返しておいた。すぐに来た受付の女性に連れられて待合室に移動する。あの感じだと恐らく商談成立のはず。あとは五十嵐社長がうまくやってくれるだろう。

「店長がご案内いたしますので、少々お待ちください」

 丁寧に頭を下げた受付の女性に深々とお辞儀を返した。待合室には私しかいなくて、小さくオルゴールの音が流れている。視線だけで辺りを観察していると、受付のお姉さんが裏に引っ込んだのと同時に新たな女性が現れた。髪を綺麗に夜会巻きにしていて、受付の女性と同じ制服に身を包んでいる。くっきりとした二重に、オレンジ色のリップが印象的な女性は私を見て口角をぴくりと揺らした。

「伊藤、日和」

 女性に名前を呼ばれて違和感を覚えつつも「はい」と返事を返す。この人が案内してくれるという店長だろうか。立ち上がって頭を下げれば、馬鹿にしたように「くくく」という噛み殺した笑い声が聞こえてくる。向けられているのが悪意なのは一目瞭然で、喉の奥にぐっと息が詰まる感覚に吐き気がした。可笑しそうに笑う女性は、私へと一歩距離を詰めてくる。

「何? 整形希望? ははっ。伊藤日和。何よ、その身体。おばさんじゃない」

 目の前の女性の顔を見つめ返す。既視感に記憶を辿れば、ひとり思い浮かぶ人物がいる。専門学生の頃クラスで唯一連絡先を聞けなかった相手がいる。東郷とうごう奈津美なつみ。島からやってきた彼女は同じ寮の友達に「私はここで友達を作る気なんてないから」と話していたのに、クラスのみんなの前では素晴らしく良い人でいた。笑顔を絶やさない彼女に違和感が拭えないまま専門学生の二年間はあっけなく終わった。確か、就職活動はせずに島に帰ったと聞いていたけれど・・・。

「東郷さん?」

 小さく呼んだ私に彼女は少し驚いた顔をしてから、再び憎しみの表情に戻した。

「覚えていたのね。私のことなんて眼中にない顔していたのに。・・・あんたラヴィソンでやらかしたらしいね。あんたがラヴィソンで鳴かず飛ばずのお荷物になったお陰で、うちの専門学校からラヴィソンに就職出来たのは今も昔もあんただけ。先生たちは新たな就職先を開拓出来たって喜んでいたのに、ラヴィソンは二度とうちの学校から新卒を雇うのを辞めた。・・・落ちこぼれたみんなの期待の星、伊藤日和さん。ははっ」

 全身の血の気が引いていくのを感じる。何も言い返せない。すべて真実で、私の隠したい過去と現実なのだ。悔しくて込み上げる涙に、目頭が熱くなっていく。悔しい。悔しくて堪らない。でも、私にはもう誇れるものなど何一つないのだ。

「東郷さん。何事ですか?!」

 向かい合う私たちの周りにはいつのまにかに人が集まっていた。全く気付かなかった。たった今、仲裁に入ったスタッフの名札には店長の文字が刻まれている。受付の女性は裏口のドアの中で他のスタッフとこそこそ話している。恥ずかしい。だから福岡に来たくなかった。私の過去を知る人間に会うのが怖かった。

「伊藤」

 背後から聞こえた声に、容易たやすく涙腺が崩壊してしまった。こんなところ見られたくなかった。貴方だけには。零れ落ちる涙の向こうで、東郷さんが満足そうに笑った顔が見えた。

「大丈夫」

 後ろから五十嵐社長がそう言って、私の身体を一八〇度回転させる。視線は上げられない。きっとぐちゃぐちゃの顔だし、こんな貶されて、人に嫌われている私の姿なんて見られたくない。それでも私の頭を抱えるように回された腕は勘違いしてしまうくらい優しくて。その瞬間周りのざわめきが止み、小さく色めいた声が聞こえる。

「うちの伊藤が何か貴女にしましたか?」

 五十嵐社長の声は落ち着いている。周りの様子は見えないけれど、五十嵐社長の姿に息を飲んでいる女性たちが容易よういに想像出来た。きっと東郷さんもその中のひとりだ。さっきまで早口で踊るように回っていた舌が、今は無言を貫いている。

「貴女との確執は知りません。ただ、伊藤の努力も知らずにくだらないことを言わないでいただきたい。君は一月後、今日の発言をしたことを後悔するだろう。どれほどの人間にこのようなふざけた口を利いたのか。よく覚えておいてください」

「・・・」

 東郷さんからの返事はなかった。その代わりに飛んできた声は低く、怒りを含んだ声だった。

「五十嵐くん。うちのスタッフが失礼をしてしまったかい?」

 それは私たちに向けられた怒りではなさそうで、いつの間にか止まっていた涙を拭ってちらりと周りの様子を盗み見る。みんなの視線は私の背後にいる東郷さんに向けられていた。未だ私を守るように絡んだ手を放すようにと、五十嵐社長のジャケットの裾を二回引いてみれば伺うような視線が降ってくる。恐らくまだ赤いままの瞳で、小さく頷いて見せれば短なため息の後に開放された。新鮮な空気を吸い込んでから長く吐き出す。もう、大丈夫。大きな安心感を背に、東郷さんに向き直る。

「東郷さん。私、嫌われるようなことをしてしまっていたのかもしれない。ごめんなさい。私は言われた通りダメな人間になった。それでも今、必死に藻掻いている。次会ったときは、少しは言い返せる何かを見つけてみる。そのとき、もう一度喧嘩しよう? 認めてやるって、言ってもらえるように頑張るから」

 出来るだけ笑ってみたけれど、たぶん不細工だったと思う。また東郷さんに不細工なおばさんだと思われたかもしれない。でも、このままお互いがお互いを知らないまま嫌い合うのは、もったいないような気がして。

「医院長。今日のところは失礼します」

「ああ、すまないね。___すまなかった、伊藤さん」

 五十嵐社長の言葉に深々と頭を下げた医院長を見て、他のスタッフも同じように私たちに頭を下げている。東郷さんもバツが悪そうに小さく頭を下げた。

「いえ。大丈夫です」

「医院長。うちの伊藤が喧嘩したいって言うので、そこの彼女はクビにしないでおいてくださいね。口達者なようだから、良き喧嘩相手になるかもしれません」

 爽やかに笑った五十嵐社長は、私の腰を押しながらクリニックを後にした。

 そのまま促されるまま歩き続けていたら、腰にあった手が私の頭に乗せられる。

「言いたい放題言われやがって」

「___ぐぅの音も出なかったんです」

「今度はぐぅって言えたらいいな」

「はい」

 空を見上げれば、清々しい青空が広がっていた。
しおりを挟む

処理中です...