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第三章 掴んだ手を放すことは、許されないでしょう。
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しおりを挟む薄暗い店内で土屋くんは嬉しそうにこちらを見ている。五十嵐社長の肩口から。
「おい、啓太。お前があっちに座れよ! 日和さんの隣で喋りたい」
「ダメだ」
「なんだよ。独り占めするなよ。日和さんはみんなのものって、暗黙のなんとやら、だろ?」
五十嵐社長の静止なんて聞く気の無い土屋くんは、飲みかけのグラスを手に私の右隣に座りなおした。左隣に座る五十嵐社長からはひんやりとした恐ろしい空気が漂ってきている。
どうしてこんなことになっているのかと言うと、あの後すぐに帰ろうとした五十嵐社長に土屋くんが飲みに行こうと誘ったのだ。断る暇もなく接客に戻られてしまえば、五十嵐社長でも友人との約束を破るわけにもいかないだろう。改めて手土産を買いに行って、ホテルにチェックインしたまではよかった。もちろん別の部屋で。その数時間後に疲れた顔をした五十嵐社長が部屋を訪ねてきて、「ついてこい」と言ったのだ。そして連れてこられたのが、この薄暗い高級感のあるBARでした。と言うところだ。
右隣からはキラキラの子犬のような瞳で見つめられて、正直どういう対応をしたらいいのか分からない。とりあえず目の前のカクテルグラスを傾ける。甘く度数の強いアルコールが喉を通っていく。こんなもの何杯も飲んだら明日の商談が悲惨になってしまう。今日は絶対に酔っぱらうわけにはいかないのだ。
「まさか、もう一度会えるなんて思いませんでした」
「そんな・・・ツチノコじゃあるまいし」
「だって日和さんと言えば、俺ら世代からしたら高嶺の花ですよ」
「何を大げさな」
「だって俺とか日和さんを追いかけて福一工にしたくらいですからね?」
「お、おぉ・・・」
控えめに言っても重い発言に、ちょっと腰が引けてきた。確かに目立つ方だったかもしれないけれど、そこまでの人がいたかとは思わなかった。嬉しいとは思うけれど、でもそれは過去の私に対する気持ちで今の私を見ても土屋くんは同じ思いになるのだろうか。今日はちゃんとメイクして、ちゃんとした服を着ている。ひと月前までのボロボロな私をこの人は知らない。
そうだとしたら、過去の私を知っている五十嵐社長はあの私を見てどう思ったのだろう。隣で喋り続けている土屋くんに適当な相槌を打ちつつ、横目で五十嵐社長を見る。左手で頬杖を付いたまま無言でこちらを見ている瞳と目が合って、あからさまに視線を外してしまった。
私の記憶のどのページを捲ってみても、高校時代の五十嵐社長の姿はない。こんな見た目だからいくら男子が多い高校だったのだとしても多少話題にはなるはずだと思う。高校時代の五十嵐社長・・・見たい。なんてポンコツな頭なのだ。なぜ覚えていないんだよ、日和ぃ。
「そういえば日和さんは彼氏とかいますか?」
「えっ?」
正面から問われてしまえば答えないわけにはいかない。後頭部には五十嵐社長の視線が刺さるし、なんと答えたらいいか分からなくて「あぁ」と口ごもる。
「まさか、もう結婚していたりしますか?」
あからさまに悲しそうな物言いに「まさか」と両手を振って否定した。安堵の笑みを浮かべた土屋くんは、感情が分かりやすくて扱いやすい。それに比べて左隣のイケメンは分かり辛くて可愛くない。無言の圧を感じながら、一杯目のグラスをぐいっと空にした。
「日和さん、明日には帰っちゃうんですか?」
お酒がすすんでいる様子の土屋くんは、頬を赤くしながらうるんだ瞳で見上げてくる。土屋くんはモテない人ではないと思う。見た目は大人、中身は子犬みたいな男性だ。きっとこの姿が心に刺さる女性も多いだろう。それでも私の心は微動だにしないのだけれど。
「ええ。商談が済んだら帰ります」
「福岡にはたまに帰ってきますか?」
「うぅん・・・、そうね。これからはっ・・・?!」
驚きで語尾が上ずってしまった。さっきから気になってはいた。右の膝に当たる土屋くんの膝に。でもあからさまに動くのはと思ってそのままにしていたのがいけなかったのかもしれない。BARカウンターの下で見えないように握られた右手にぞわりと鳥肌が立った。
これまで口説かれたことがないわけではない。それなりに遊んだこともあるけれど、それこそ過去のなんとやらで。今の私の”上手い断り方”の錆びついた引き出しは開きそうにない。少し震える右手は嫌悪感を訴えている。五十嵐社長の友人に嫌な思いをさせたくはない。考えろ、考えろ、考えろ。
「渡してなかったな、コレ」
口数の少なかった五十嵐社長がそう言って片手で名刺を差し出した。それは私の前を通過して、土屋くんの前で止まる。
「おう」
たぶんこれは彼の職業病。私の手を握っていた土屋くんの手が離れて、その名刺を両手でキャッチした。「代表だなんてかっこいいな」と言いながら名刺をしまう土屋くんを横目に、両手をテーブルの上に出してグラスに添える。これで手を握られることはない。右隣の子犬の耳が垂れている気がするが、心の中で謝罪をしておいた。
「日和さんは啓太の会社で働いているのですか?」
「いえ、違うの。私はラヴィソンから派遣みたいな感じで」
「だから、後輩の啓太にも敬語なんですね。いいですよ。俺が許します。もっと雑に扱ってもらって」
「あ、ははは」
「さぁ、日和さん。もっと飲みましょうよ」
「っ?!」
突如感じる違和感に、背筋がピンと伸びる。右の腰のあたりに触れられている感覚がするのだ。手を避難させているから、今度は腰を触ろうとでも言うのか。子犬みたいな顔をして、実は狼なのかもしれない。眉を寄せてから腰を捩るように動かせば、引き寄せるように手が動いた。そう、左の方に。
「・・・」
私は勘の鈍いほうではない。腰に回されている手の犯人は、左隣に座る五十嵐社長だ。そう分かった瞬間に嫌悪感は消え去って、鼓動が高まるんだから私は現金な奴だ。そういえば五十嵐社長との距離が近くなっている気がするし、それでも酔っぱらっている土屋くんは気付く様子もない。全神経が左半身に集中してしまう。五十嵐社長の香り、体温、服の擦れる音でさえ私の胸を高鳴らせるのだから。
「土屋。この人は俺の預かりものだ。傷ものにするわけにはいかない。だから、今日はお開きだ」
腰に添えられた手が「お前も同意しろ」とでも言うようにトントンとタップされている。なんだか秘密の会話みたいでドキドキする。視線を少し彷徨わせてから、「私も眠たくなってきたので」と言いつつ土屋くんに手を合わせて謝罪を表しておく。
「えー」
土屋くんの反対は多数決で却下されて、寒空の下で酔っ払いをタクシーに詰め込んだ。残された私と五十嵐社長の手は結ばれてなんかいない。「帰るぞ」の合図で甘い空気終了のゴングが鳴らされた。今夜は帰って、それぞれの部屋で一人眠る。
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