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第二章 ガタガタの階段は、しがみついて泥臭く登れば良いでしょう。
2-7
しおりを挟む走ることの良さは、景色が変わるということも大きく関わっていると思う。
ランニングマシーンのスイッチを入れてから三十分が経とうとしていた。目の前の大きなガラス窓は鏡のようになり、たった一人で走る私の姿を映している。イヤフォンを付けてはいるが、音は最小に設定してある。五十嵐社長が何か言ってくるかもしれないから。・・・って、そんなことしていたら五十嵐社長の言葉を漏らさず聞きたいみたいじゃない。そうじゃなくて、怒られたくないだけ。そう、それだけなの。
どうしても五十嵐社長が気になってしまう。私の後方にいるから姿は見えないし、高さ的には窓にも映らない。それでもそこにいるのがわかるのは、移動したら窓に映るはずだから。匍匐前進で移動したとかじゃない限りは、五十嵐社長はまだそこにいるはず。私が走っている姿を見守っているとは思えないし、一体何をしているのだろう。終わったら連絡するとかでも良いけど、ここにひとり残されるのは正直に言うと怖い。だから五十嵐社長の存在はお守りに近い。忙しいだろうに、こんなことに時間を割かせてしまって良いのだろうか。倉科さんが知ればめちゃくちゃ怒るはず。
そんなことを考えていたら、既に一時間経ってしまっていた。そういえば足も疲れてきているし、汗もじんわりとかいている。意を決してランニングマシーンのスピードを徐々にダウンさせていき、そして止まった。首にかけていたタオルで汗を拭きながら、背中に全神経を集中させている。イヤフォンからはもう音楽は流れていない。シンとした室内に自分の心音だけが響いているような錯覚さえする。
ランニングマシーンから一歩、また一歩降りてゆっくりと後ろを振り返った。
「・・・」
五十嵐社長はベンチの横で背中を壁に預けて眠っていた。長い脚で片膝を立てて、その上にうずくまるように。パチパチと瞬きをしてから、音を立てないように五十嵐社長に近付く。五十嵐社長が眠っているのを見るのは二回目。この一週間で、だ。無防備すぎやしないか。どこかのお金持ちなおば様に見つかったら、拉致されて飼われてしまうかもしれない。そう思いながら、自分はじゃあどうなんだよって自問自答する。この美貌に心がときめかないわけじゃない。でも私の心にセーブがかかる。無駄だろって。相手にされないぞって。高嶺の花なんだって。
「五十嵐社長」
呼びかけてみても動く気配はない。五十嵐社長の目の前にしゃがんでから、少し考える。このまま寝かせた方がいいのか、起こすべきか。こんなところで寝たって疲れは取れないだろう。後者を選択して手を伸ばしてから、どこに触れたらいいんだろうなんて童貞チックなことを考えてみたりする。伸ばした右手は五十嵐社長の頭上をゆらゆらと揺れている。
視線が刺さる。どうしようと手の方を見ていたから気付かなかった。五十嵐社長が少し顔を上げて、私を威嚇するように見ている。思わずヘラっと笑ってやり過ごせないかと試したが無理そうだ。睨むように向けられていた黒い瞳が揺れて、気付いたら抱き寄せられていた。
「っつ・・・」
上げていた右手を取られて引かれ、私は五十嵐社長の胸に頬を当てている。ドクドクと聞こえるのは、私ではなく五十嵐社長の鼓動。床についた片手で自分の体重を支えているからきついのだけれどとか、汗臭くないかな、なんてこと考えている場合じゃない。一体どういう状況なのか。五十嵐社長は寝ぼけているだけ・・・?
「いが「終わったのか?」
言い終わる前に聞かれて、「はい」と小さく返す。顔を上げる勇気が無くて、声だけでは五十嵐社長の表情まではわからない。それでも聞こえてくる五十嵐社長の心音に、私の心音が重なり速まっていく気がする。
動けずにいた。先に行動に移したのは五十嵐社長のほうで、私の顎を指先だけでクイっと上を向かせた。伏し目がちな瞳に見つめられて、勘違いしてしまいそうになる。その瞳は少し濡れていて、色っぽい雰囲気に男が垣間見えるから。こんな至近距離でも五十嵐社長の肌は悔しいくらいに綺麗で、薄ピンクの唇は横一文字に結ばれている。そんな五十嵐社長と見つめ合っているなんて耐えられなくて、視線を左右に彷徨わせる。私の頭はパニックパニパニワールドだ。
スローモーションのようだった。五十嵐社長の長い睫毛が伏せられ、近付く唇に身体は凍り付いたように動けない。私の顎を持ち上げていた五十嵐社長の手が、私の頬に移動して包み込むように優しく添えられる。自然と傾けられた綺麗な顔は、私の唇にそっと触れた。触れるだけのそれは、数秒で離れてしまう。
「口、半開きだけど。もっと?」
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