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第二章 ガタガタの階段は、しがみついて泥臭く登れば良いでしょう。
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しおりを挟む腹が立つ。そう思いながらバスルームに向かったのに、どうして私はこんなにも気分が良いのでしょうか。その答えは・・・。
「これ最高じゃん」
広いバスタブにはジャグジー機能が付いていて、好奇心に耐えられずスイッチを押してしまったのだ。ブクブクと泡が肌に当たり、それを余すところなく浴びたくて溺れない程度に身体を沈める。貧乏性とはよく言えば倹約家であり、地球に優しい良い女ということ。髪まで沈めて顔だけ出した変な体勢で周りを観察してみる。お風呂のタイルはグレーとホワイトの二色で、お洒落としか言いようがない。シャワーヘッドは私の部屋のものより五倍くらい大きいのに優しく身体に落ちてくるし、床の隅っこですらヌルつきが無い。
あんまりダラダラしていても怒られそうだから名残惜しいバスタブから這い出て、棚に並んだボトルたちを眺める。そして、思うこと。どう見ても女用のシャンプーやボディソープだらけなんですけど。まあ、あの顔面偏差値だからモテないはずがない。女優さんと並んでいたって見劣りしないもの。この家に何人の女が上がりこんだなんて、聞くほうが野暮ってもんだ。はぁと深めに溜息をついてから、自分に気合を入れた。私には関係ない。私はラヴィソンの為、佐山の為に綺麗になって美容液を売るんだ。そしてあんな顔だけ社長とはおさらば。
小さく頷いてからいつもより多めにシャンプーを使ってやった。次の女が、「これ使用済みじゃん」って思いますように。なんてね。
ホテル仕様のタオルに顔面を埋めてから、手早く服を着た。もちろん脱衣所だってホテルのようだ。洗面ボウルに水滴は一滴も落ちていないし、馬鹿でかい鏡は新品のように綺麗。誰しも心が弾む場所だと思う。
「ドライヤーは・・・っと」
そう。独り言も出てしまうくらいには浮かれていた。
ガラッ。
「「・・・」」
突如開いたドアにこれまでにない速さで振り返ると、それに驚いた顔をしている五十嵐社長と目が合った。
「ぷ・・・プライバシーとは?」
「俺の家だ」
「五十嵐社長の家にいるときは、トイレにいようが覗かれる覚悟をしていろということですか?」
「___悪かった」
視線を明後日に向けながら五十嵐社長はぶっきらぼうに謝ったが、それでも謝らせることが出来たことが嬉しい。うんうんと頷いて見せたが、もしかすると鼻の穴が広がっていたかもしれない。気付かれていませんように。
「何の用ですか?」
「ドライヤーをするなと言いに来た」
「はい? どうしてですか?」
「どうしても、だ。もう着替えが済んでいるならついてこい」
さっさと行ってしまった五十嵐社長の背中を追いかけながら考えてみても、五十嵐社長がドライヤーの電気代をケチったとは思えない。髪はなるべく早く乾かした方が良い、という認識だったんだけどなあ。・・・いつもはほぼ自然乾燥だけど。
リビングに入ると五十嵐社長が先にソファに座り、私にも座れと視線で命令してきた。白い革張りのソファは座面が広く居心地が良さそうである。五十嵐社長の考えは私に理解出来るものではないし、ここは歯向かわずに従っておくことが吉と見た。ソファの出来るだけ端のほうに、大きなお尻を半分だけ乗せた。
「こっちだ」
五十嵐社長は顎で床を示している。ああ、そうだ。この男はこういう人間なんだった。私は床がお似合いってこと。怒りで上唇がピクリと動いたけれど、これまでだって色んな場所で馬鹿にされてきたんだから平気。ただちょっと、悲しかっただけ。
崩れるように床に膝を付けて座ろうとしたとき、グイっと五十嵐社長に腕を引かれた。無理な体勢に床に倒れそうになったけれど、それを支えてくれたのも五十嵐社長の腕なのだ。思わず顔を上げると、五十嵐社長の視線の先にはクッションが準備されている。しかも長い両足の間に。
「床に座るなとアランに言われただろう」
「アランは、座らせない様にと五十嵐社長を注意したんです」
「そのうるさい口はどうやったら黙るんだ」
「最高のステーキが口に入れば静かになるんじゃないですか」
呆れた表情をしてから、五十嵐社長は想像よりもずっと優しい手で私をクッションに座らせてくれた。真後ろには五十嵐社長がいる。これってカップルがホラー映画見る体勢じゃ・・・、ん?
「何をされていらっしゃるんですか?」
「髪を梳いている」
「いや、わかります。どうしてそんなこと、なんて言うか・・・」
頭皮に当たる優しい櫛の感覚くらいわかる。わからないのは、どうして五十嵐社長がそんなことをしているのかってことだ。
「日和」
「___はい」
「自分の売っている商品を使ったことはあるか?」
そう言われて頭に浮かんだ物があった。
「ありますよ」
「これか?」
目の前ににゅっと差し出されたのは見覚えのある物。
「椿油・・・。ありますよ。使ったこと。私に初めて任された商品だったので。でも昔は今ほどヘアオイルというものが知られていなかったし、髪に付けるのはスプレーやワックス・ジェルの時代だったんです」
「それで挫折したと?」
五十嵐社長の口調は、責めているものではない。
「わからなかったんです。私も。どう使っていいか。髪に付ければベタつくだけだったし、お客様にもそう言われれば、そうですよねとしか返せなかったんです」
何か言ってくれるかと思ったのに、五十嵐社長は何も言わなかった。ただ、私の何の手入れもされていない髪をゆっくりと梳かし続ける。
「これはつげ櫛だ」
「つげぐし・・・ですか?」
なんだか聞いたことのある名前だが、はっきりと姿が浮かばない。それも承知の上で言っていたようで、先程の椿油同様に頭上からつげ櫛が降りて来た。ナチュラルウッドで出来たそれは、昔話に出るような櫛だった。半円形の持ち手部分と均一に並んだ歯には職人の腕の良さ感じる。
「良いぞ。触ってみろ」
躊躇した手を取られて運ばれた先には、見違えるほど艶やかでサラサラの自分の髪。どれくらい櫛を通していなかったなんてわからない。それでも髪が喜んでいるのがわかる。
「つげ櫛には椿油が塗ってある」
「え? そうなんですか?」
「つげ櫛はちゃんと手入れをしてやれば、何十年と使える良い物だ。三か月に一度で良い。椿油をティッシュに沁み込ませて拭いてやれば良い。歯に付いたほこりはブラシで落ちる。それに椿油は髪に付けるだけではない。全身に使える。顔の保湿にだって、肘やかかとのカサつきにも。妊婦の乳頭マッサージにも使える、安心安全で高品質なものだ」
そう言ってから、五十嵐社長は私の前のテーブルに椿油を置いてどこかに行ってしまった。目の前にあるものが、どうしてかわかないけれどいつもより輝いて見える。「ベタつくだけ」「こんなに入っていたら使いきれない」「匂いがちょっと」「何に使うの?」 走馬燈の様に頭に響く声たちに、今はなんだか答えられそうな気がする。
ブォォ。急にかけられた熱風に髪が舞い上がる。見なくてもわかるドライヤーの温風に、私は胸が熱くなるのを感じた。髪を梳いてくれるこの手は、私にヒントをくれたんだ。「ありがとうございます」の言葉はきっと、ドライヤーの音が掻き消してくれたはず。
まだ温かい髪を撫でれば、シャンプーのCMにでも出られそうなくらい美しい髪になっていた。ネイルをした時のわくわくと同じように、思わず口角が上がる。そっか。そうなんだ。私、まだ、綺麗になりたいって感情あったんだ。
「何もしなければ衰えていくのは当然。磨け。自分を」
ドライヤーのコードを片付けていた五十嵐社長が鏡を私の前に置く。そこに映ったのは少しスッキリとした表情をした自分。鏡が嫌いだった。ガラスに映る自分も、醜いとわかっていたから敢えて目を逸らしてきた。でも、向き合わないといけなかった。逃げた私は逃げ続けることを止めなければいけないんだ。
コトン。鏡の隣に置かれたのは、赤い和紙で出来た長方形の小箱。隣で片膝を付いた五十嵐社長を見れば、綺麗に・・・偉そうに口角を上げた。
「つげ櫛だ。やる」
「あ・・・どうもありがとうございます」
「外見には心も反映される。自分に自信がなければ自然と猫背になり、俯いてばかりでは皮膚も重力に従い垂れ下がる。ストレスは溜めるのではなく発散しろ。相手になってやる。自分の現状と向き合い、足掻け。結果は必ずついて来る」
そう言って笑う五十嵐社長は真っ直ぐに私を見下ろし、その瞳は自信に溢れ輝いている。偉そうだけれど、これは多分彼なりの励ましなのだろう。嬉しくないと言えば嘘になる。
「わかりました。私、痩せて綺麗になったら女優に転職してやりますから」
「ふっ。楽しみにしている」
「私の伸びしろを舐めないでくださいよ」
「這い上がってみろ。俺の足元が見えるといいな」
「余裕のよっちゃんですよ」
自然に笑ってしまっていて、久しぶりに感じる意欲に心が躍る。五十嵐社長は私の扱いもマスターしているらしい。悔しいけれど今回はそれに乗ってあげても良い。
「明日。十時までに仕度を済ませておけ」
「え? 明日はお休みじゃ「休みだ」
当然とでも言うように見下ろされて、自分が間違っているような気さえしてくる。
「俺がお前を変えてやる。覚悟は?」
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