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第一章 運命の糸は、意図せず絡みつくものです。

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 プルルルルル。

 本日二度目の着信に内心驚きつつ受話器を上げる。

「はい。営業部伊藤です」

『営業部佐山です。伊藤さん、第一会議室まで来てもらえますか?』

 相手は佐山だった。第一会議室は先程五十嵐社長を送って行った部屋である。あの話し方からすると、まだ五十嵐社長の対応中。・・・これは、何か失礼をしてしまってお怒りの呼び出し、ということかもしれない。どっと噴き出る汗と爆音を響かせる心臓。

「直ぐに行きます」

『悪いな(カチャン)』

 ぽつりとそう聞こえた気がしたが、切れる直前で定かではない。わかることは、今夜ワインを買って泣きながら寝ることになりそうだという事。


 コンコン。

 震える手で会議室の扉をノックすると、即座に「どうぞ」と返ってきた。膝が笑うとはこのことだ。三十歳になっても、私はビビリのダメウーマンなのだ。意を決して扉を開くと、そこにはIGバイオの秘書が立っており、ソファには五十嵐社長の背中が見えた。佐山の姿はない。それはまだ救いだった。私が怒られる姿を佐山が見たら、きっと俺が頼んだからだと自分を責めてしまうかもしれないから。
「お呼びでしょうか」




 そして初めに戻るわけで、絶体絶命である。

「た、担当・・・ですか? え、と」

「拒否権はないぞ」

「え?」

 ポカンと呆け面をしていたら、五十嵐社長は怪訝な表情をしてから私の顔面を解放してくれた。視界いっぱいにいた五十嵐社長が離れてくれたおかげで、後ろに立つ秘書の顔が見えた。ツンとしているように見えるが、無表情なだけかもしれない。

 ガチャ。

「伊藤!」

「さ・・・、部長。これは一体?」

 心配そうな顔で入ってきた佐山と目が合って、少し安心した。この部屋で佐山だけが私の心のオアシスである。

「契約だ」

「五十嵐社長・・・、ありがとうございます。しかし、伊藤は・・・他にも多くの担当を抱えておりまして、私が能力のある他の「専属契約だ」___え?」

 佐山が私を外そうとしてくれているのがわかる。そうやっていつも同期のよしみで守ってくれてきたから。もちろん私は営業部イチ暇なお荷物社員だ。

「専属だ。独占販売の契約を結ぶ」

「それは「そうだ。先程の条件を飲むなら、だ」

 佐山を遮るように早口で言った五十嵐社長の視線が私に突き刺さった気がした。ついでに言うと、秘書の視線も、だ。

「伊藤日和。やるのか?」

「え? えっと、私にそんな力は」

 ちらりと佐山を見ると、その表情には葛藤が垣間見える。一体、何が何だと言うのだ。私の知らないところで私の話が進んでしまっている。

「伊藤日和さん。IGバイオはご存知で?」

「えっと・・・、すみません」

 冷たい声が飛んできて、私の大きな身体が今は普通の人くらいまで縮んでいるかもしれない。秘書の声色からわかるのは、あまり好意的ではないということ。

「構いません。弊社はまだ設立して一年も満たないので。では、そんな若輩の弊社が何故ラヴィソン程の大手とのお話を頂けているのか。弊社は販売店ではありません。メーカーです。通常であれば、うちの商品を営業してくださいと御社にお願いする側、です」

「あ・・・はい」

「しかし今回アポイントを取ってこられたのはラヴィソン側です。正直に申し上げれば、ラヴィソンだけではありません。大手の化粧品会社や製薬会社がこぞってアポイントを取って来るのです。是非、我が社で売らせて欲しい、と。どういうことかわかりますか?」

「も、もの凄い商品があるということでしょうか?」

 なんだか凄く責められているということはわかる。あと、IGバイオが期待の超新星ということも。

「そうです。弊社にしかない技術で美容液を開発しました。低コストで高品質を生み出す事の出来る、五十嵐にしか出来ない技術です。だから、どの会社も喉から手が出る程欲しいのです。___その商品の独占販売権を差し上げると五十嵐は申し上げているのです。伊藤日和さん。貴女に」

「なっ・・・」

 驚きで言葉が出ない。開いた口も塞がらず、涎が垂れてしまいそうになって慌てて口を閉じた。

「やるのか?」

 黙って聞いていた五十嵐社長が問いかけてくる。もちろん、そんな大仕事出来る気などしない。優秀な営業社員は他にいるのだから、そちらに頼んだ方がラヴィソンにもIGバイオにとってもwin-winというやつじゃないのだろうか。どうして窓際崖っぷち無能にそんな賭けを託すというのだ。どうかしているとしか思えない。

「佐山部長。今回の件、社長も注目しておられるのでは?」

「___はい」

「部長・・・」

 佐山が困っている。あの百戦錬磨の営業部長が押されている。そのくらい立場が違うということ。大事な商談だということ。

「どうして私なのでしょうか? 先程は私を罵っておられたのに」

「罵っているわけではない。お前が・・・堕落したからだ」

「ぐっ」

 罵っているではないかという言葉は唾液と共に飲み込んでおく。私だってわかってはいても人間だから、言葉の刃物がぐさりと刺されば痛いのです。

「尚更、私でないほうがいいかと。一千万円なんて売り上げあげたことありません。ご期待には・・・沿えません」

 期待という言葉を口にしてから、何、自惚れているのだと自分を責める。期待しているのではない。きっと五十嵐社長はラヴィソンとの契約を断る口実に、私というダメ社員を使っているだけなのだ。ちらりと佐山を見れば、思考を巡らせている様子で私の視線には気付かない。

「佐山部長。伊藤日和をIGバイオに託して貰えませんか?」

「___え?」

「五十嵐社長、それは一体?」

「弊社が伊藤日和を売れる営業にして見せましょう。こちらとしてもこの商品が売れないことには会社が成長しないので」

 なんなの。何を言っているの。私は断るための口実ではないのか。そんな物言い、まるで私の為みたいじゃない。

「伊藤」

 名前を呼ばれて、声色から佐山の意思を感じ取った。十年間無駄に過ごしてきた私が、佐山に恩返しをする時が来たのだと悟る。ああ、不安で堪らない。それでも。

「五十嵐社長。やらせていただきます」

 何の感情かわからないけれど、目頭がきゅうと痛くなり涙が込み上げてくる。ぐっと下唇を噛んで五十嵐社長を見上げれば、見下ろしてくる五十嵐社長の口角がピクリと笑った気がした。初対面の失礼な社長が何を考えているのかなんてわからないけれど、私は佐山の為に覚悟を決めたのだ。佐山は心配そうに眉を寄せながらも、小さく頷きながらこちらを見ていた。

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