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1巻
1-2
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「さて、戻るか」
ユーリは街道に戻り、馬上の人となる。
先ほどよりゆっくりと進みながら、人の目があるため頭の中でユリアナとの会話を続ける。
(これから、どうするの?)
安心したユリアナには、これからを考える余裕が生まれた。
(まずは、カーティスの街に向かう。ここから一番近いうえに、良い場所なのであろう?)
(うん。何回かしか会ったことないけど、カーティス子爵は優しいおじさんだよ)
カーティスの街を治めるのはカーティス子爵である。ユリアナの記憶によると、彼は高潔な人物らしい。そして、彼が治める街は良い街であるとも。
(なんでカーティスの街を知ってるの? 前世の記憶?)
(いや、ユリアナの記憶だ)
(えっ、わたしの記憶が分かるの⁉)
(ああ、ユリアナが毎晩、抱いて寝ているクマのぬいぐるみのこともな)
(えええっ、ぷうすけのことも知ってるの⁉)
(名前までは知らんかったがな)
(むぅ、もう、騙したの?)
(ユリアナが勝手に喋っただけだ)
(うぅ……イジワル)
(今みたいに、すべてを知っているわけではない)
(…………)
ユリアナはへそを曲げて黙ってしまった。
だが、それも長くは続かなかった。
(でも、街でどうやって暮らすの? おじさんのところに行くの?)
(いや、子爵の前に顔を出せば、すぐに実家に伝わる)
(だったら……)
八歳の貴族令嬢にとって、館の外は未知のもの。どこで暮らすか、どうやって暮らすか、想像もつかない。それはユーリにとっても同じようなものだった。皇帝として庶民は守るべき存在であったが、その暮らしぶりは数字でしか知らない。だが、ユーリにはユリアナと違って、高い適応力がある。どんな過酷で劣悪な環境であっても、誇りを損なわずに生き残れるという自負がある。
(問題は路銀がないことだが――)
何も持たずに飛び出してきた身だが、その程度はさしたる問題ではない。
(どんなに高潔な者が治める街であっても闇はなくならない。そして、その闇を利用するにはこの身体はもってこいだ)
(どういうこと?)
(気にするでない。余にとっては他愛もないことだ)
ユリアナには伝えないが、ユーリには考えがあった。
皇帝の姿では不可能だが、美しいユリアナの身体は不埒な者を惹きつけるにはもってこいである。
そいつらから適当に巻き上げればいいだけだ。
トラブルこそチャンス。
ユーリは前世を通じて誰よりもそれを知っている。
(すべて余に任せ、そなたは安全な立場から眺めていれば良い)
(ユリアナ)
(ん?)
(そなたじゃなくて、ユリアナって呼んで)
(ああ、そうか。では、ユリアナと呼ぶとしよう)
(うん!)
(それにしても、ずいぶんと平和な世になったな)
これもユリアナの記憶から得た知識だ。国同士の戦争もない、魔族との戦いもない。魔獣は変わらず存在するが、前世ほどの脅威ではない。
(そうなの?)
(うむ。余の生きた時代に比べれば、ぬるま湯だ)
(どんななのか、想像もできないよ……)
(ユリアナの立場であれば、それも詮無きこと)
いまいち腑に落ちないユリアナだったが、籠の中の鳥として育てられた令嬢には理解の及ばぬ範疇だ。
平和な今世をどう生きるか――ユーリはもう皇帝ではないし、この世界に対する責任もない。
(余は皇帝という立場から解放された。ユリアナも父の束縛から解き放たれた)
(うん。それは本当に感謝してるよ)
(これから、どうなるか、余にも分からぬ)
(心配だね……)
(先ほども言ったであろう。すべて余に任せておけば良いと)
(うん! そうだね!)
世を統べた皇帝の言葉は、幼女を納得させるに十分であった。
(先行きは分からぬが、ひとまずは流れに身を任せてみようではないか)
(うん!)
ひとつの身体に同居することになった二人の人生は、この先どうなるのであろうか。
†
白馬に跨がるドレス姿の幼女を太陽は咎めず、緩やかな風が銀色の髪と戯れる。慣れない感覚にユーリは、煩わしげに髪を後ろに流す。
だが、その心は軽い。ただでさえ軽い身体が、綿毛のように飛んでいきそうな軽さだった。
(うわあ。すごいね~)
ユーリにとっては、どうということのない風景だが、ユリアナにとっては全てが眩い。
(ねえ、あれは?)
ユリアナに問われ、青翡翠色の瞳をそちらに向ける。
(小麦畑だ)
(へえ、あれがパンになるんだ)
一面に広がった黄金色が風になびく。生きている小麦も、それから作られる小麦粉も、ユリアナは知らない。食卓に上る料理としてしか知らなかった。
(こっちの木は?)
(うむ、あれは――)
そんな調子で、ユリアナが気になったものを尋ね、その問いにユーリが答える。前世とは逆の立場だ。
敵兵の数は?
この先の地形は?
あと何分で到着する?
皇帝が質し、臣下が奏する。ユーリはそれしか知らなかった。
やがて、白い毛並みが橙色に染まる頃。燃ゆる空に黒点ひとつ。ユーリは空を見上げ、眉をひそめる。
(どうしたの? ユーリおねえちゃん)
(ワイバーンか)
ワイバーンは遥か高く、常人であれば見落としてしまう小ささだ。だが、戦場に生きたユリウス帝は、その気配を見逃さない。ユーリが体重を後ろに傾け、手綱を引くと、白馬が歩みを止めた。
(ワイバーン?)
(亜竜。ドラゴンの下位種だ)
(ド、ドラゴン⁉)
(なに、大きな蜥蜴にすぎん)
ドラゴンと言えば、一匹でも街ひとつ壊滅させられる。その程度はユリアナも知っている。いくら下位種とはいえ、ユリアナにとって、脅威には違いはない。唯一の救いは自分たちを標的にしていないことだ。
ユーリは黒点に視線を固定したまま、馬から降りる。あまりにも軽やかな動作だったので、馬はユーリが降りたことに気がつかなかった。
ふわりと遅れたスカートが、わずかな砂埃を立てただけだった。
(どうするの?)
(先ほど言ったであろう。余が守ってやると)
(分かった。信じる)
(この先は、カーティスの街だな?)
(うん、そうだけど……)
(余が向かう先の街に被害が出るのは許せんな)
ユーリが口にしたのは、あくまでも利己的な理由だ。しかし言葉とは裏腹に、皇帝としての本能はまだ抜けていない。民の不幸を見逃せないという無意識の思いを、本人は自覚していなかった。
ユーリは戦闘に意識を切り替える。放たれる殺意と威圧感。木々は飛び立った鳥たちによってざわめき、地面は逃げ惑う獣によって揺れる。
(ひっ)
ユリアナが声を震わせる。
「――【身体強化】」
『魔核』から生み出された魔力の奔流が、ユーリの身体を白く輝かせる。爆発しそうな魔力に怯え、白馬は恐れて逃げ去ってしまった。鍛えられた戦馬ではないので仕方がない。
(さて、この身体で戦えるか。試してみるとするか)
この身体の魔力量では長持ちしない。ユーリは短期決戦を決意する。
(世を覇する皇帝の戦いぶり、とくと見るが良い)
彼女は屈み、グッと両足に力を入れ、ワイバーン目がけて跳躍――
(わあっ!)
ユリアナの驚きを聞きながら、ワイバーンの姿がぐんぐんと迫る。全長一〇メートルを超える巨体だが、ユーリは一切、臆することなく、ワイバーンを見据える。ワイバーンは小さなユーリの接近に未だ気がつかない。
彼女はワイバーンの首の横を飛び越え、クルリと一回転。巨木より太い延髄に強烈な浴びせ蹴りを叩き込む。
――グギャアアッ!
ワイバーンはなにが起こったのかすら分からぬまま、平衡感覚を失い、落下する。
――ドシィィィン。
木々が飛び散り、地が凹み、砂埃がもうもうと上がる。ワイバーンは横たわり、ピクリとも動かない。だが、まだ終わっていない。失神してはいるが、死んではいない。ワイバーンに遅れて着地したユーリは拳に魔力を纏わせ、
「――破ッ」
小さな拳がワイバーンの眼に突き刺さり、拳から放たれた魔力波が脳をパァンと破裂させる。飛び散った飛沫がドレスをまだらに赤く染める。
ワイバーンの死を確認してから、ユーリは拳を引き抜き、拳についた返り血を振るって払う。
眼から血を流すワイバーンの死骸。
その隣には絶世の美幼女。
血に染まったドレス。
人形のように整った顔に浮かぶ凄惨な笑み。
信じがたい光景であるが、むしろ、その美しさが際立つ。絵描きがいれば、すぐにでも筆を執るであろう。
(なんとかなるものだな)
そう言いながらも、ユーリはふらっと膝をつく。『魔核』に残された魔力はゼロに近い。魔力を消耗しすぎたせいで、幼い身体に負担がかかったのだ。
(ユーリおねえちゃん、大丈夫?)
(心配ない。もう終わった)
(えええ……)
ユリアナは驚愕の声を上げる。もし、姿があれば、両目と口は大きく開かれていただろう。
(ユーリおねえちゃん……つよい……んだね)
(この程度で驚くでない)
ワイバーンを瞬殺したユーリだが、皇帝時代に比べると大人と赤子。全盛期の皇帝であれば、今のユーリなど指一本で倒せる。皇帝の強さはそれだけ隔絶していた。
(ともあれ、ユリアナの身体ひとつくらいは守れることが分かったであろう?)
(うん)
(安心して、余に任せよ)
(ありがとう、ユーリおねえちゃん)
ユーリは立ち上がる。そして――
「…………!」
強い気配を感じた。カーティスの街に続く道、その先から強者の気配が伝わってくる。ワイバーンなど比較にならない気配だ。
「ほう」
ユーリは逃げられないことを悟る。彼女の魔力はほとんど空だ。今、戦えば絶対に負ける。迫る死を前にして、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
そもそも、逃げるという選択肢はない。前世では何度も死を確信した。死は親しき友人のように身近な存在だった。それでも、死の女神は皇帝に触れられなかった。その前髪を撫でることしかできなかった。
(ユリアナよ、皇帝の本気を見せてやろう。特等席だ。瞬きひとつするでないぞ)
精神は研ぎ澄まされ、肌は鋭敏になり、かき集められた魔力が空気を揺るがす。どんな強敵であれ、殺される前に殺せば良いだけだ。
恐怖。それは魂の根源に刻まれた感覚。生存のために生物が身につけた本能。
内からは「ニゲロ」と告げる警鐘。だが、それを飼い慣らし、極限まで昇華させれば――死を超克する。ユーリは恐怖を携え、死線を一歩越えた。
「…………もしや」
だがすぐに、覚悟は不必要になり、死は遠くへ飛び立ち、魂が震える。その震えは相手が近づくにつれ、激しくなる。震えているのは彼女だけではない。迫り来る相手からも伝わってくる。
ふたつの震えが波紋となり、ぶつかり、干渉し、交わり、ひとつになる。
「ユリウス陛下」
大きく黒い馬。すっかりあたりを包んだ闇に紛れ、ユーリのもとに現れた黒馬は彼女が求める相手ではなかった。
馬の背から飛び降りた青年こそが、ユーリの、ユリウス帝の魂を震わせた相手だった。
青年はその場に跪く。短く刈られた黒髪に青い目。長身は鍛え上げられて引き締まり、精悍な顔つきは世の女性を虜にする美しさ。
黒い甲冑を身につけた男は、腰に佩いていた剣を鞘ごと地面に置いた。
「クローディスか?」
「今はクロードと名乗っております」
「変わっておらぬな」
幼女姿になってしまった皇帝に対し、腹心であった彼の姿は前世からほとんど変わっていなかった。
「陛下はずいぶんとお変わりになられました」
「シルヴェウス伯爵令嬢のユリアナだ。ユーリと呼べ」
時空を超えた再会だった。二人はお互いを違えることなく認識した。
この青年は、前世をユリウス帝と共にした者。
皇帝の一歩後ろに立ち、共に戦場を駆けた一番の腹心だった。クロードは目の前にいる幼女が転生した皇帝であることに疑いを持たず、ユーリもそれを当然と認めた。
(ユーリおねえちゃん、この人は誰?)
(古い知り合いだ。敵ではない)
ユリアナに返してから、ユーリはクロードに語りかける。
「積もる話はあるが、余は現状を把握しておらん」
「お任せください」
クロードが自分の馬に近づき、その背を撫でると、黒馬はその場に膝を折る。
「お乗りください」
「うむ」
ユーリが鞍に跨がると、その後ろにクロードも乗る。
(うわっ!)
馬が立ち上がり、その揺れにユリアナがユーリにしか聞こえぬ声を上げる。
「ほう、この感じも悪くない」
「……陛下」
クロードとしては恐縮この上ない。だが、ユーリは状況を楽しむように、その背をクロードに預けた。
そうしていると、クロードがやって来た方向から、新たな気配が接近してくる。いくつもの馬蹄の音が、土煙と共に迫ってくる。
「クロード、大丈夫か?」
女性の声だ。その後ろに複数の馬が従っている。アデリーナというらしいその女性冒険者は、燃えるような赤髪を雑に纏め、赤いスケイルメイル姿だ。腰には二本の短剣を差した二〇歳前後の女性だった。クロードほどではないが、それなりの強さが感じられる。
「ワイバーンはどうした……って死んでる⁉」
叫びながら駆けてきた彼女は、クロードの目の前で馬を止め、信じられない光景に言葉を失った。
ついて来た他の者たちも武装した冒険者だ。彼らも同じようにポカンと口を開ける。
「俺が倒した」
「いや、でも……」
彼女の疑問に、他の者たちも同調する。疑うのはクロードが倒したことではなく、その倒し方だった。彼は剣士だ。その実力は折り紙付き。もし、ワイバーンの首が一刀両断されていれば、誰も驚かなかった。
だが、横たわる死骸は首の後ろが大きく凹み、片目が乱暴に潰されている。弱い魔獣ならばともかく、剣を使わずにワイバーンを倒す理由がないのだ。
「俺が倒した」
「…………」
冷たい声に答えを返せる者はいない。
「ああ、分かったよ。そういうことにしておこう」
アデリーナはこれ以上クロードと揉めるべきではないと判断した。
「それはともかく……」
彼女は視線をクロードからユーリへと移す。
「この子は?」
「名は明かせぬが、とある貴族令嬢だ。故あって、俺が預かることになった」
「いや、だって……」
ワイバーンの件は、百歩譲って納得できなくもない。だが、ここに幼女がいることは、アデリーナにはまったく理解できなかった。
そもそも、クロードは自分たちと一緒にワイバーン討伐の依頼を受け、カーティスの街からやって来た。もちろん、そのときは幼女など連れていない。先を急ぎ、単騎駆けたクロードに追いついてみれば、ワイバーンは死んでおり、クロードは見知らぬ幼女を自分の馬に乗せていた。
そして、宝物を守るように、大きな身体で彼女を包み込んでいる――意味不明な状況だった。
「彼女は俺が忠義を捧げる唯一のお方。それ以上の説明が必要か?」
ここにいるのは、アデリーナを筆頭にワイバーン相手に臆することない強者たちだ。しかし、皆、クロードの気迫に押されて口を開けない。
「後始末は任せた」
手綱を操り颯爽と立ち去るクロードを、アデリーナたちは黙って見送ることしかできなかった。
カーティスの街に向かって馬は走る。
「寝てしまったか」
ユーリはクロードにも届かない声で呟く。身体の持ち主であるユリアナは、いつの間にか眠りに落ちていた。そして、自分もそろそろ限界であると悟る。
「しばし眠る」
「御意」
その眠りを妨げぬようにと、クロードは静かに馬を進めた。
ユーリは街道に戻り、馬上の人となる。
先ほどよりゆっくりと進みながら、人の目があるため頭の中でユリアナとの会話を続ける。
(これから、どうするの?)
安心したユリアナには、これからを考える余裕が生まれた。
(まずは、カーティスの街に向かう。ここから一番近いうえに、良い場所なのであろう?)
(うん。何回かしか会ったことないけど、カーティス子爵は優しいおじさんだよ)
カーティスの街を治めるのはカーティス子爵である。ユリアナの記憶によると、彼は高潔な人物らしい。そして、彼が治める街は良い街であるとも。
(なんでカーティスの街を知ってるの? 前世の記憶?)
(いや、ユリアナの記憶だ)
(えっ、わたしの記憶が分かるの⁉)
(ああ、ユリアナが毎晩、抱いて寝ているクマのぬいぐるみのこともな)
(えええっ、ぷうすけのことも知ってるの⁉)
(名前までは知らんかったがな)
(むぅ、もう、騙したの?)
(ユリアナが勝手に喋っただけだ)
(うぅ……イジワル)
(今みたいに、すべてを知っているわけではない)
(…………)
ユリアナはへそを曲げて黙ってしまった。
だが、それも長くは続かなかった。
(でも、街でどうやって暮らすの? おじさんのところに行くの?)
(いや、子爵の前に顔を出せば、すぐに実家に伝わる)
(だったら……)
八歳の貴族令嬢にとって、館の外は未知のもの。どこで暮らすか、どうやって暮らすか、想像もつかない。それはユーリにとっても同じようなものだった。皇帝として庶民は守るべき存在であったが、その暮らしぶりは数字でしか知らない。だが、ユーリにはユリアナと違って、高い適応力がある。どんな過酷で劣悪な環境であっても、誇りを損なわずに生き残れるという自負がある。
(問題は路銀がないことだが――)
何も持たずに飛び出してきた身だが、その程度はさしたる問題ではない。
(どんなに高潔な者が治める街であっても闇はなくならない。そして、その闇を利用するにはこの身体はもってこいだ)
(どういうこと?)
(気にするでない。余にとっては他愛もないことだ)
ユリアナには伝えないが、ユーリには考えがあった。
皇帝の姿では不可能だが、美しいユリアナの身体は不埒な者を惹きつけるにはもってこいである。
そいつらから適当に巻き上げればいいだけだ。
トラブルこそチャンス。
ユーリは前世を通じて誰よりもそれを知っている。
(すべて余に任せ、そなたは安全な立場から眺めていれば良い)
(ユリアナ)
(ん?)
(そなたじゃなくて、ユリアナって呼んで)
(ああ、そうか。では、ユリアナと呼ぶとしよう)
(うん!)
(それにしても、ずいぶんと平和な世になったな)
これもユリアナの記憶から得た知識だ。国同士の戦争もない、魔族との戦いもない。魔獣は変わらず存在するが、前世ほどの脅威ではない。
(そうなの?)
(うむ。余の生きた時代に比べれば、ぬるま湯だ)
(どんななのか、想像もできないよ……)
(ユリアナの立場であれば、それも詮無きこと)
いまいち腑に落ちないユリアナだったが、籠の中の鳥として育てられた令嬢には理解の及ばぬ範疇だ。
平和な今世をどう生きるか――ユーリはもう皇帝ではないし、この世界に対する責任もない。
(余は皇帝という立場から解放された。ユリアナも父の束縛から解き放たれた)
(うん。それは本当に感謝してるよ)
(これから、どうなるか、余にも分からぬ)
(心配だね……)
(先ほども言ったであろう。すべて余に任せておけば良いと)
(うん! そうだね!)
世を統べた皇帝の言葉は、幼女を納得させるに十分であった。
(先行きは分からぬが、ひとまずは流れに身を任せてみようではないか)
(うん!)
ひとつの身体に同居することになった二人の人生は、この先どうなるのであろうか。
†
白馬に跨がるドレス姿の幼女を太陽は咎めず、緩やかな風が銀色の髪と戯れる。慣れない感覚にユーリは、煩わしげに髪を後ろに流す。
だが、その心は軽い。ただでさえ軽い身体が、綿毛のように飛んでいきそうな軽さだった。
(うわあ。すごいね~)
ユーリにとっては、どうということのない風景だが、ユリアナにとっては全てが眩い。
(ねえ、あれは?)
ユリアナに問われ、青翡翠色の瞳をそちらに向ける。
(小麦畑だ)
(へえ、あれがパンになるんだ)
一面に広がった黄金色が風になびく。生きている小麦も、それから作られる小麦粉も、ユリアナは知らない。食卓に上る料理としてしか知らなかった。
(こっちの木は?)
(うむ、あれは――)
そんな調子で、ユリアナが気になったものを尋ね、その問いにユーリが答える。前世とは逆の立場だ。
敵兵の数は?
この先の地形は?
あと何分で到着する?
皇帝が質し、臣下が奏する。ユーリはそれしか知らなかった。
やがて、白い毛並みが橙色に染まる頃。燃ゆる空に黒点ひとつ。ユーリは空を見上げ、眉をひそめる。
(どうしたの? ユーリおねえちゃん)
(ワイバーンか)
ワイバーンは遥か高く、常人であれば見落としてしまう小ささだ。だが、戦場に生きたユリウス帝は、その気配を見逃さない。ユーリが体重を後ろに傾け、手綱を引くと、白馬が歩みを止めた。
(ワイバーン?)
(亜竜。ドラゴンの下位種だ)
(ド、ドラゴン⁉)
(なに、大きな蜥蜴にすぎん)
ドラゴンと言えば、一匹でも街ひとつ壊滅させられる。その程度はユリアナも知っている。いくら下位種とはいえ、ユリアナにとって、脅威には違いはない。唯一の救いは自分たちを標的にしていないことだ。
ユーリは黒点に視線を固定したまま、馬から降りる。あまりにも軽やかな動作だったので、馬はユーリが降りたことに気がつかなかった。
ふわりと遅れたスカートが、わずかな砂埃を立てただけだった。
(どうするの?)
(先ほど言ったであろう。余が守ってやると)
(分かった。信じる)
(この先は、カーティスの街だな?)
(うん、そうだけど……)
(余が向かう先の街に被害が出るのは許せんな)
ユーリが口にしたのは、あくまでも利己的な理由だ。しかし言葉とは裏腹に、皇帝としての本能はまだ抜けていない。民の不幸を見逃せないという無意識の思いを、本人は自覚していなかった。
ユーリは戦闘に意識を切り替える。放たれる殺意と威圧感。木々は飛び立った鳥たちによってざわめき、地面は逃げ惑う獣によって揺れる。
(ひっ)
ユリアナが声を震わせる。
「――【身体強化】」
『魔核』から生み出された魔力の奔流が、ユーリの身体を白く輝かせる。爆発しそうな魔力に怯え、白馬は恐れて逃げ去ってしまった。鍛えられた戦馬ではないので仕方がない。
(さて、この身体で戦えるか。試してみるとするか)
この身体の魔力量では長持ちしない。ユーリは短期決戦を決意する。
(世を覇する皇帝の戦いぶり、とくと見るが良い)
彼女は屈み、グッと両足に力を入れ、ワイバーン目がけて跳躍――
(わあっ!)
ユリアナの驚きを聞きながら、ワイバーンの姿がぐんぐんと迫る。全長一〇メートルを超える巨体だが、ユーリは一切、臆することなく、ワイバーンを見据える。ワイバーンは小さなユーリの接近に未だ気がつかない。
彼女はワイバーンの首の横を飛び越え、クルリと一回転。巨木より太い延髄に強烈な浴びせ蹴りを叩き込む。
――グギャアアッ!
ワイバーンはなにが起こったのかすら分からぬまま、平衡感覚を失い、落下する。
――ドシィィィン。
木々が飛び散り、地が凹み、砂埃がもうもうと上がる。ワイバーンは横たわり、ピクリとも動かない。だが、まだ終わっていない。失神してはいるが、死んではいない。ワイバーンに遅れて着地したユーリは拳に魔力を纏わせ、
「――破ッ」
小さな拳がワイバーンの眼に突き刺さり、拳から放たれた魔力波が脳をパァンと破裂させる。飛び散った飛沫がドレスをまだらに赤く染める。
ワイバーンの死を確認してから、ユーリは拳を引き抜き、拳についた返り血を振るって払う。
眼から血を流すワイバーンの死骸。
その隣には絶世の美幼女。
血に染まったドレス。
人形のように整った顔に浮かぶ凄惨な笑み。
信じがたい光景であるが、むしろ、その美しさが際立つ。絵描きがいれば、すぐにでも筆を執るであろう。
(なんとかなるものだな)
そう言いながらも、ユーリはふらっと膝をつく。『魔核』に残された魔力はゼロに近い。魔力を消耗しすぎたせいで、幼い身体に負担がかかったのだ。
(ユーリおねえちゃん、大丈夫?)
(心配ない。もう終わった)
(えええ……)
ユリアナは驚愕の声を上げる。もし、姿があれば、両目と口は大きく開かれていただろう。
(ユーリおねえちゃん……つよい……んだね)
(この程度で驚くでない)
ワイバーンを瞬殺したユーリだが、皇帝時代に比べると大人と赤子。全盛期の皇帝であれば、今のユーリなど指一本で倒せる。皇帝の強さはそれだけ隔絶していた。
(ともあれ、ユリアナの身体ひとつくらいは守れることが分かったであろう?)
(うん)
(安心して、余に任せよ)
(ありがとう、ユーリおねえちゃん)
ユーリは立ち上がる。そして――
「…………!」
強い気配を感じた。カーティスの街に続く道、その先から強者の気配が伝わってくる。ワイバーンなど比較にならない気配だ。
「ほう」
ユーリは逃げられないことを悟る。彼女の魔力はほとんど空だ。今、戦えば絶対に負ける。迫る死を前にして、彼女は不敵な笑みを浮かべた。
そもそも、逃げるという選択肢はない。前世では何度も死を確信した。死は親しき友人のように身近な存在だった。それでも、死の女神は皇帝に触れられなかった。その前髪を撫でることしかできなかった。
(ユリアナよ、皇帝の本気を見せてやろう。特等席だ。瞬きひとつするでないぞ)
精神は研ぎ澄まされ、肌は鋭敏になり、かき集められた魔力が空気を揺るがす。どんな強敵であれ、殺される前に殺せば良いだけだ。
恐怖。それは魂の根源に刻まれた感覚。生存のために生物が身につけた本能。
内からは「ニゲロ」と告げる警鐘。だが、それを飼い慣らし、極限まで昇華させれば――死を超克する。ユーリは恐怖を携え、死線を一歩越えた。
「…………もしや」
だがすぐに、覚悟は不必要になり、死は遠くへ飛び立ち、魂が震える。その震えは相手が近づくにつれ、激しくなる。震えているのは彼女だけではない。迫り来る相手からも伝わってくる。
ふたつの震えが波紋となり、ぶつかり、干渉し、交わり、ひとつになる。
「ユリウス陛下」
大きく黒い馬。すっかりあたりを包んだ闇に紛れ、ユーリのもとに現れた黒馬は彼女が求める相手ではなかった。
馬の背から飛び降りた青年こそが、ユーリの、ユリウス帝の魂を震わせた相手だった。
青年はその場に跪く。短く刈られた黒髪に青い目。長身は鍛え上げられて引き締まり、精悍な顔つきは世の女性を虜にする美しさ。
黒い甲冑を身につけた男は、腰に佩いていた剣を鞘ごと地面に置いた。
「クローディスか?」
「今はクロードと名乗っております」
「変わっておらぬな」
幼女姿になってしまった皇帝に対し、腹心であった彼の姿は前世からほとんど変わっていなかった。
「陛下はずいぶんとお変わりになられました」
「シルヴェウス伯爵令嬢のユリアナだ。ユーリと呼べ」
時空を超えた再会だった。二人はお互いを違えることなく認識した。
この青年は、前世をユリウス帝と共にした者。
皇帝の一歩後ろに立ち、共に戦場を駆けた一番の腹心だった。クロードは目の前にいる幼女が転生した皇帝であることに疑いを持たず、ユーリもそれを当然と認めた。
(ユーリおねえちゃん、この人は誰?)
(古い知り合いだ。敵ではない)
ユリアナに返してから、ユーリはクロードに語りかける。
「積もる話はあるが、余は現状を把握しておらん」
「お任せください」
クロードが自分の馬に近づき、その背を撫でると、黒馬はその場に膝を折る。
「お乗りください」
「うむ」
ユーリが鞍に跨がると、その後ろにクロードも乗る。
(うわっ!)
馬が立ち上がり、その揺れにユリアナがユーリにしか聞こえぬ声を上げる。
「ほう、この感じも悪くない」
「……陛下」
クロードとしては恐縮この上ない。だが、ユーリは状況を楽しむように、その背をクロードに預けた。
そうしていると、クロードがやって来た方向から、新たな気配が接近してくる。いくつもの馬蹄の音が、土煙と共に迫ってくる。
「クロード、大丈夫か?」
女性の声だ。その後ろに複数の馬が従っている。アデリーナというらしいその女性冒険者は、燃えるような赤髪を雑に纏め、赤いスケイルメイル姿だ。腰には二本の短剣を差した二〇歳前後の女性だった。クロードほどではないが、それなりの強さが感じられる。
「ワイバーンはどうした……って死んでる⁉」
叫びながら駆けてきた彼女は、クロードの目の前で馬を止め、信じられない光景に言葉を失った。
ついて来た他の者たちも武装した冒険者だ。彼らも同じようにポカンと口を開ける。
「俺が倒した」
「いや、でも……」
彼女の疑問に、他の者たちも同調する。疑うのはクロードが倒したことではなく、その倒し方だった。彼は剣士だ。その実力は折り紙付き。もし、ワイバーンの首が一刀両断されていれば、誰も驚かなかった。
だが、横たわる死骸は首の後ろが大きく凹み、片目が乱暴に潰されている。弱い魔獣ならばともかく、剣を使わずにワイバーンを倒す理由がないのだ。
「俺が倒した」
「…………」
冷たい声に答えを返せる者はいない。
「ああ、分かったよ。そういうことにしておこう」
アデリーナはこれ以上クロードと揉めるべきではないと判断した。
「それはともかく……」
彼女は視線をクロードからユーリへと移す。
「この子は?」
「名は明かせぬが、とある貴族令嬢だ。故あって、俺が預かることになった」
「いや、だって……」
ワイバーンの件は、百歩譲って納得できなくもない。だが、ここに幼女がいることは、アデリーナにはまったく理解できなかった。
そもそも、クロードは自分たちと一緒にワイバーン討伐の依頼を受け、カーティスの街からやって来た。もちろん、そのときは幼女など連れていない。先を急ぎ、単騎駆けたクロードに追いついてみれば、ワイバーンは死んでおり、クロードは見知らぬ幼女を自分の馬に乗せていた。
そして、宝物を守るように、大きな身体で彼女を包み込んでいる――意味不明な状況だった。
「彼女は俺が忠義を捧げる唯一のお方。それ以上の説明が必要か?」
ここにいるのは、アデリーナを筆頭にワイバーン相手に臆することない強者たちだ。しかし、皆、クロードの気迫に押されて口を開けない。
「後始末は任せた」
手綱を操り颯爽と立ち去るクロードを、アデリーナたちは黙って見送ることしかできなかった。
カーティスの街に向かって馬は走る。
「寝てしまったか」
ユーリはクロードにも届かない声で呟く。身体の持ち主であるユリアナは、いつの間にか眠りに落ちていた。そして、自分もそろそろ限界であると悟る。
「しばし眠る」
「御意」
その眠りを妨げぬようにと、クロードは静かに馬を進めた。
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