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9章 きっと、心に寄り添えば・・・

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 暮れかかった住宅街。どこからかカレーの匂いがしてきた。
「おなか減ったなぁ」
 あたしは空腹となったおなかを押さえた。とりわけカレーの匂いは食欲をそそる。

 途中まで送るよという夕凪は、あたしの横を歩いていた。鼻からめいっぱいカレーの香りを吸い込んで、あたしに抗議の目を向けている。
「音無さんのせいで、今日はぜんぜんおなかがすいてない」
「給食、完食しちゃったもんなぁ」
「完食しちゃったじゃないよ。約束守ってくれないなんて、ひどい」
 夕凪は頬をぷぅとふくらませた。そんな夕凪、見たことがない。

 まじまじと見ていたら、夕凪は戸惑い気味にいった。
「なに?」
「不覚にもかわいいと思ってしまった」
「もう!」
 夕凪は怒ったようにあたしの肩を軽く押し返した。

 夕凪の体でしばらく過ごしたからか、ちょっとばかり夕凪が愛おしい。
「あのさ、余計なお世話かもしれないけど、もう少し食べなよ。あたし、夕凪でいるときやたらと疲れたよ。体力不足っていうか、ご飯食べないと元気になれない」
「それ思った!」
 夕凪はのんきに言う。
「音無さんの体になって、女子だから軽やかに動けるのかなと思ったんだけど」
「それ違うから」
 かぶせ気味に否定する。

「だよね。でも、食べるとやっぱ成長するじゃない。成長するってことは大人になるってことなんだけど、それは大人の男になるってことで、なんか、それがイヤで……じゃあ、食べるのやめようかなって」
「食べなくたって年はとるの。大人になるの。美容にも良くないよ。シワシワになったらどうするの」
 夕凪は思い出したように両手で自分の頬を覆った。
「ねぇ、ちゃんとスキンケアしてくれてた?」
 あたしはしあさっての方を向いてはぐらかす。するとまた夕凪は「ちょっとぉ」と肩を小突いた。

 ともあれ、あたしたちは自分の体へと戻ることに成功したのだった。キリコがそばにいたからなのか、夕凪が本気で自分の体に戻りたいと願ったからなのか、なにが正解だったかはわからない。
 あたしは自分の体でいることの幸せをしみじみと感じていた。この慣れ親しんだ体に安らぎを覚え、夕凪は夕凪で自身の体を受け入れているようだった。

 キリコは入れ替わりを体験してどう感じただろう。
 あたしはいっときしかキリコの体でいることはなかったけど、嫌気がさして逃げ出したくらいだから、キリコの気持ちがまったく想像つかないわけじゃない。
 どれだけのつらい思いをさせてしまったのか。キリコにしてしまったことは取り戻せない。

 けれども、あたしは自分の体を取り戻しても、面と向かってキリコに謝ることはできなかった。
 いま、キリコは自分が望む場所にいるのかな。
 音無花音を蹴落とし、ただ空いた席にキリコを座らせているだけの双葉と友梨奈を許せているの?
 これから、あたしのことはどうするつもりだろう。

 本当のことをキリコの方から双葉と友梨奈に話すのならそれでもいいし、居場所を確保するためにあたしのことを放っておくならそれでもいいし。
 ――とかいって。本当はすごく不安だ。

「明日の朝、いつもの場所に誰も来なかったら、あたし、避けられてるんだろうな」
 あたしがぽつりというと、夕凪は心配そうにあたしの顔をのぞき込んだ。
「いいの? それで」
「うん。ゆだねる」
「そういうとこ良くない」
 夕凪にスパッと指摘されて頭をもたげる。プライドが邪魔して自分からいくのもイヤだし、ふたりが信じてくれるか自信もなかった。

「……じゃあ、明日の朝、双葉と友梨奈が来てたら。キリコの方がウソをついていて、あたしはキリコから先輩にからまれてることを聞いただけだって、実際にあったことを伝える。もしいなかったら、あたしのいうことなんてもう聞く耳を持たないってことだから、いいよ、どうでも」
「だから、自分で決定してないじゃん」
「夕凪が一度認めちゃったから、ややこしくなってるんだよ!」
 あたしは思わず自分の手をギュッと握りしめた。

 夕凪が悲しそうにこちらを見ている。
「……ごめん。夕凪は悪くない。でも、キリコはしらを切るだろうし。だってそうでしょ。ウソをついたとわかれば、また元のように、のけものにされるんだから」
「そこを音無さんが助ければいいんじゃない」
「簡単に言ってくれるよ」
「簡単なわけないよ。がんばるもがんばらないも、その先どうなるかを考えたら、簡単じゃない」

 もつれた糸をほどくなんて、あたしにできるのかな。
 キリコには、あたしの今のポジションは自分で築き上げてきたものだって、偉そうにいっちゃったけど。実のところ、何かをしたわけでもなくて、流れに乗っかってきただけかもしれない。

 夕凪はツンとすまして歩いていた。
「夕凪も、助けてくれるの?」
「お節介なヤツだと思われていなければね」
 夕凪って強いんだな。それともズレてるのかな。

「夕凪のような無垢なヤツは誰かに守られないとね」
「音無さんが守ってくれるの?」
「あたしより、ほかに守ってほしい人がいるんじゃない?」
 ハッとする夕凪の顔を見て、あたしはふふふと笑った。
 あのとき。あたしたちふたりが一緒にいるところを見られて、夕凪もあたしと同じくらいに慌てふためいていたもんね。

「ま、それだけはあたしだって譲らないけどね」
「そ、そんなんじゃ、ないからっ!」
 夕凪の足取りが急に速くなる。瞬く間に赤く染まる頬は、夕焼けに溶け込むように輝いていた。


   ※


 じゃあねって、手を振って夕凪と別れる。
 この時間なら沈む太陽が高台の公園から見られるかもって、思ってしまったのが運の尽きだった。
 急いで階段を上るあたしにぶつかってきた人がいた。
 待って。
 手を伸ばして手すりをつかもうとするも、空を切った。あたしの体が重力に従って落ちていく。
 まさか。
 ぶつかってきたのはおじさんだ。
 あたし、おじさんと入れ替わったりしないよね?
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