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9章 きっと、心に寄り添えば・・・
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キリコの家で過ごした何日間が、はるか遠い過去のことみたいだった。
自分の置かれた環境がなんだか損しているみたいに思えて、他の誰かだったらいいのにと思ったことはあるけど、自分ではない体でいることがこんなにも落ち着かないなんて。
早く戻りたい。
キリコの家のチャイムを押しながら、あたしはできるだけ夕凪風太の顔をカメラに近づけて音無花音の姿が映らないようにした。
でも、入れ替わりに気づいているなら、中身があたしだってことにも気づいているってことか。
あんまり意味ないけど、音無花音の顔で迫るよりはいいだろう。
ほどなくしてキリコが応答した。
「話があるんだけど、いいかな」
という呼びかけには素直に応じてくれた。制服からワンピースに着替えていたキリコが玄関から出てくる。
夕凪風太と音無花音のそろった顔を見て、「そんなことだろうと思った」と素っ気なくいった。
「いつから気づいてた?」
と聞けば、「転がってすぐ。まぁ、あがれば」と、あたしたちを招き入れた。
リビングのソファーに腰掛けるよう勧められ、夕凪と並んで座る。
相変わらず整然とした空間だった。ひとのお宅の匂いというのもなく、塵もなにも生活感さえもないような、モデルハウスみたいなところだった。
だけど、この家の住人は決して歓迎しているのではなくて、空気が重い。
キリコはあたしのすぐそばにあるひとり掛けのソファーにどっかりと座った。
「それで、わたしに、何を期待しているの?」
うじうじとしたキリコからは想像がつかぬほどの高圧的な態度に、イラッとした。誰がキリコをどん底から救ってやったと思っているのだ。それどころかあたしの居場所まで奪っておいて。
「なにをしにきたかって? わかってるくせに」
つい突っかかってしまって、夕凪にとがめられる。
「キリちゃんが頼りなんだから。落ち着いて」
「そうはいってもさ、双葉と友梨奈にウソつくことないでしょ。先輩にからまれたっていってたくせに。なんであたしがキリコにすり寄ったことにされるのよ」
腹が立って口調が荒くなる。
それでもキリコは物怖じしなかった。
「ああ、それね。最終確認だよ。もし入れ替わりなんて起こっていなくて、音無さん本人だったら否定するだろうから」
「ひどいウソをつくよね。そんなウソをつかれたからさ、本当はなにがあったのか気になるじゃない。だからさ、陸上部の草加先輩に全部聞いてきたんだ」
「え?」
そこまでするとは想像していなかったのか、キリコは驚いていた。
あたしはこれとば責め立てる。
「九重先輩とのこと、聞いたよ。草加さんたちに、顔が赤くなるところ、見られていたんだってね」
意地悪くいうと、それまでの威勢の良さが消えて、キリコは声をつまらせた。
「……ちがう。別に、なんとも思ってない。助けてほしかったわけじゃないし、ああいう目立つ人と関わると、余計に面倒が起こるだけだから」
「日向くんのように?」
キリコの過去に触れるたら、少し目を伏せて、黙り込んだ。
陽向くんにハグをしてもらったという、そのとき。
そのときからキリコのすべてが奪われたまま、ずっとキリコの時間が止まっている。陽向くんとの関わりを絶つ決断までしたのに、状況は何も変わらなかった。いじられ、ハブられ、誰にも相談できず、ずっと。
あたしと入れ替われば、なにかが変わるというとんでもない発想は、たしかにキリコに影響を与えた。
だけど、キリコが陽向くんとの関係を絶たれたように、あたしだって双葉と友梨奈の関係を絶たれそうになっている。
双葉と友梨奈に弁明したい。決して居心地いい場所でもないけど、それでもあたしには必要な場所。
あたしは変われない。
キリコと同じ道は選べない。
意固地になって、ひとりでもやっていける、だれかがあたしについてくるって、そう思えない。
でも、反発もしているのだ。
カースト上位ってなに? 自分はこの辺にいるものだってランク付けして。
慕われているわけじゃないって気づきながら、必死にしがみついてるだけじゃん。ちょっとしたことでそっぽ向かれて、信頼されてなくて。
あたし、いつから友達の作り方忘れたんだろう。
「まぁまぁふたりとも」
夕凪は優しく諭すように取り持った。
「倍返しだ、なんてやってたらきりないよ。水に流せともいえないけどさ。まぁ、どっちが悪いといったら、音無さんのほうだけど」
「ちょっと!」
あたしの不満顔に夕凪はフフフと笑った。
「音無さんは今さら謝れないようだけど、キリちゃん、どうする? 許せるの?」
急に裏切るようなことをいうので間髪入れずにいった。
「どうするってなによ。許すも許さないもないでしょ。あたしは元に戻りたいだけだよ。夕凪からも頼んでよ。それともグルだったの? あたしを困らせようと陥れたの?」
「まさか!」
夕凪は両手を振って全力で否定する。
キリコもその様子にうなずいた。
「今回のことはわたしは全然知らない。でも……風太は戻れなくてもいいと思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。念願がかなうってのは、こんなことじゃないって気がついた」
「え? 念願がかなうって、なに?」
キリコにはわかっているようだったか、あたしにはなんのことかさっぱりだった。もう少しあたしの体でいたいとか、いってたけど、それってなんだったのだろうか。
夕凪はまっすぐな視線をあたしに向けると、わずかながらに微笑んだ。
「自分は女子として生まれるはずじゃなかったのかなってこと」
「え? 意味わかんない」
「わかんないと思う。男でありたくないなんてこと、わかんないと思う」
「え?」
とんでもないことを聞かされているようで、夕凪よりもキリコの顔をまじまじと見つめてしまった。キリコはとくだん驚くこともなく、ソファーの背もたれに寄りかかってクッションを抱えている。
「だと思ってた」
キリコの反応は落ち着いたものだった。肯定的でも、否定的でもないような、キリコにとって、夕凪は夕凪でしかないというような……
「あえて聞くようなことでもなかったし」
「……そうなの?」
戸惑っているのはあたしだけだ。
いくら夕凪が女子っぽい一面を持っているな、女子を演じるのが楽しそうだなと感じてはいても、そこまで男子であることを受け入れていなかったなんて……
食事制限をしているのも、たくましい男子っぽい体つきになっていくのがイヤだったから?
女子でいたいと発言したことが「キモい」と軽い気持ちでいったときも、本当はすごく深く傷ついたから泣いていたのかな。
男子でいたくないってことを家族も気づいていて、受け入れてもらえていなかったのだろうか。
考えれば全部ピースがはまっていく。
あたしという女の子の器を手にしてさほど違和感なく見られていたのも、本来の夕凪に近づいたからなのか。
あたし、ひどいことをしていたのかも……
「夕凪……あたし……」
言葉が出てこないでいると、夕凪はあたしの肩をそっとなでた。
「わたし、メイクできたんだよ。ヘンに思うだろうけど、ようやく自分を受け入れられたような気がする。たぶん、音無さんのおかげ」
「そんな……」
「戻ろう。自分はほかの誰かになりたかったわけじゃない。音無さんでもなく、誰でもなく、やっぱり自分でいなきゃいけない。自分らしくするのは難しいけど。やっぱり戻らなきゃ」
「……そ、そうなんだけどさ。どうやって?」
あたしは気を取り直してキリコにたずねた。
「見届け人になることぐらいしかできないよ。事故が起こりそうになったあの瞬間も、そのまま風太と音無さんが入れ替わっちゃえばいいのにって、思っただけだし」
「ウソでしょ。キリコが首謀者?」
目を丸めるあたしにキリコは吹き出した。
「大げさね。本当に入れ替わるなんて思わなかったよ。ただ、そうなればいいのにって」
「入れ替わったおかげで女子の洗礼を浴びた気分だった」
夕凪までのんきに軽口叩く。
「こっちはなんもいいことなしだよ」
あたしはさっさと右手を夕凪に差し出した。
「さぁ、もう一度。元に戻ろう」
夕凪はうなずいてあたしの手を取った。
そうして相手の心に思いを寄せる。
つかの間の女子の体験はどうだっただろうか。
きっとそれでも心は救われなかった。手にしたかったのは仮の姿ではない。
あたしは音無花音の体を引き寄せた。この体と心で生きていく。
夕凪もその体と心で生きていく。
かけがえのない自分。
答えはすぐには見つからないかもしれないけど――
「自分は……自分は間違ってないって思うんだ」
耳元で夕凪がつぶやいた。
「あたしは――」
あたしは、自分が正しいことをしてきたと、胸を張っていえなかった――
自分に戻って、まずはなにをする?
自分の置かれた環境がなんだか損しているみたいに思えて、他の誰かだったらいいのにと思ったことはあるけど、自分ではない体でいることがこんなにも落ち着かないなんて。
早く戻りたい。
キリコの家のチャイムを押しながら、あたしはできるだけ夕凪風太の顔をカメラに近づけて音無花音の姿が映らないようにした。
でも、入れ替わりに気づいているなら、中身があたしだってことにも気づいているってことか。
あんまり意味ないけど、音無花音の顔で迫るよりはいいだろう。
ほどなくしてキリコが応答した。
「話があるんだけど、いいかな」
という呼びかけには素直に応じてくれた。制服からワンピースに着替えていたキリコが玄関から出てくる。
夕凪風太と音無花音のそろった顔を見て、「そんなことだろうと思った」と素っ気なくいった。
「いつから気づいてた?」
と聞けば、「転がってすぐ。まぁ、あがれば」と、あたしたちを招き入れた。
リビングのソファーに腰掛けるよう勧められ、夕凪と並んで座る。
相変わらず整然とした空間だった。ひとのお宅の匂いというのもなく、塵もなにも生活感さえもないような、モデルハウスみたいなところだった。
だけど、この家の住人は決して歓迎しているのではなくて、空気が重い。
キリコはあたしのすぐそばにあるひとり掛けのソファーにどっかりと座った。
「それで、わたしに、何を期待しているの?」
うじうじとしたキリコからは想像がつかぬほどの高圧的な態度に、イラッとした。誰がキリコをどん底から救ってやったと思っているのだ。それどころかあたしの居場所まで奪っておいて。
「なにをしにきたかって? わかってるくせに」
つい突っかかってしまって、夕凪にとがめられる。
「キリちゃんが頼りなんだから。落ち着いて」
「そうはいってもさ、双葉と友梨奈にウソつくことないでしょ。先輩にからまれたっていってたくせに。なんであたしがキリコにすり寄ったことにされるのよ」
腹が立って口調が荒くなる。
それでもキリコは物怖じしなかった。
「ああ、それね。最終確認だよ。もし入れ替わりなんて起こっていなくて、音無さん本人だったら否定するだろうから」
「ひどいウソをつくよね。そんなウソをつかれたからさ、本当はなにがあったのか気になるじゃない。だからさ、陸上部の草加先輩に全部聞いてきたんだ」
「え?」
そこまでするとは想像していなかったのか、キリコは驚いていた。
あたしはこれとば責め立てる。
「九重先輩とのこと、聞いたよ。草加さんたちに、顔が赤くなるところ、見られていたんだってね」
意地悪くいうと、それまでの威勢の良さが消えて、キリコは声をつまらせた。
「……ちがう。別に、なんとも思ってない。助けてほしかったわけじゃないし、ああいう目立つ人と関わると、余計に面倒が起こるだけだから」
「日向くんのように?」
キリコの過去に触れるたら、少し目を伏せて、黙り込んだ。
陽向くんにハグをしてもらったという、そのとき。
そのときからキリコのすべてが奪われたまま、ずっとキリコの時間が止まっている。陽向くんとの関わりを絶つ決断までしたのに、状況は何も変わらなかった。いじられ、ハブられ、誰にも相談できず、ずっと。
あたしと入れ替われば、なにかが変わるというとんでもない発想は、たしかにキリコに影響を与えた。
だけど、キリコが陽向くんとの関係を絶たれたように、あたしだって双葉と友梨奈の関係を絶たれそうになっている。
双葉と友梨奈に弁明したい。決して居心地いい場所でもないけど、それでもあたしには必要な場所。
あたしは変われない。
キリコと同じ道は選べない。
意固地になって、ひとりでもやっていける、だれかがあたしについてくるって、そう思えない。
でも、反発もしているのだ。
カースト上位ってなに? 自分はこの辺にいるものだってランク付けして。
慕われているわけじゃないって気づきながら、必死にしがみついてるだけじゃん。ちょっとしたことでそっぽ向かれて、信頼されてなくて。
あたし、いつから友達の作り方忘れたんだろう。
「まぁまぁふたりとも」
夕凪は優しく諭すように取り持った。
「倍返しだ、なんてやってたらきりないよ。水に流せともいえないけどさ。まぁ、どっちが悪いといったら、音無さんのほうだけど」
「ちょっと!」
あたしの不満顔に夕凪はフフフと笑った。
「音無さんは今さら謝れないようだけど、キリちゃん、どうする? 許せるの?」
急に裏切るようなことをいうので間髪入れずにいった。
「どうするってなによ。許すも許さないもないでしょ。あたしは元に戻りたいだけだよ。夕凪からも頼んでよ。それともグルだったの? あたしを困らせようと陥れたの?」
「まさか!」
夕凪は両手を振って全力で否定する。
キリコもその様子にうなずいた。
「今回のことはわたしは全然知らない。でも……風太は戻れなくてもいいと思ってるんでしょ」
「そんなことないよ。念願がかなうってのは、こんなことじゃないって気がついた」
「え? 念願がかなうって、なに?」
キリコにはわかっているようだったか、あたしにはなんのことかさっぱりだった。もう少しあたしの体でいたいとか、いってたけど、それってなんだったのだろうか。
夕凪はまっすぐな視線をあたしに向けると、わずかながらに微笑んだ。
「自分は女子として生まれるはずじゃなかったのかなってこと」
「え? 意味わかんない」
「わかんないと思う。男でありたくないなんてこと、わかんないと思う」
「え?」
とんでもないことを聞かされているようで、夕凪よりもキリコの顔をまじまじと見つめてしまった。キリコはとくだん驚くこともなく、ソファーの背もたれに寄りかかってクッションを抱えている。
「だと思ってた」
キリコの反応は落ち着いたものだった。肯定的でも、否定的でもないような、キリコにとって、夕凪は夕凪でしかないというような……
「あえて聞くようなことでもなかったし」
「……そうなの?」
戸惑っているのはあたしだけだ。
いくら夕凪が女子っぽい一面を持っているな、女子を演じるのが楽しそうだなと感じてはいても、そこまで男子であることを受け入れていなかったなんて……
食事制限をしているのも、たくましい男子っぽい体つきになっていくのがイヤだったから?
女子でいたいと発言したことが「キモい」と軽い気持ちでいったときも、本当はすごく深く傷ついたから泣いていたのかな。
男子でいたくないってことを家族も気づいていて、受け入れてもらえていなかったのだろうか。
考えれば全部ピースがはまっていく。
あたしという女の子の器を手にしてさほど違和感なく見られていたのも、本来の夕凪に近づいたからなのか。
あたし、ひどいことをしていたのかも……
「夕凪……あたし……」
言葉が出てこないでいると、夕凪はあたしの肩をそっとなでた。
「わたし、メイクできたんだよ。ヘンに思うだろうけど、ようやく自分を受け入れられたような気がする。たぶん、音無さんのおかげ」
「そんな……」
「戻ろう。自分はほかの誰かになりたかったわけじゃない。音無さんでもなく、誰でもなく、やっぱり自分でいなきゃいけない。自分らしくするのは難しいけど。やっぱり戻らなきゃ」
「……そ、そうなんだけどさ。どうやって?」
あたしは気を取り直してキリコにたずねた。
「見届け人になることぐらいしかできないよ。事故が起こりそうになったあの瞬間も、そのまま風太と音無さんが入れ替わっちゃえばいいのにって、思っただけだし」
「ウソでしょ。キリコが首謀者?」
目を丸めるあたしにキリコは吹き出した。
「大げさね。本当に入れ替わるなんて思わなかったよ。ただ、そうなればいいのにって」
「入れ替わったおかげで女子の洗礼を浴びた気分だった」
夕凪までのんきに軽口叩く。
「こっちはなんもいいことなしだよ」
あたしはさっさと右手を夕凪に差し出した。
「さぁ、もう一度。元に戻ろう」
夕凪はうなずいてあたしの手を取った。
そうして相手の心に思いを寄せる。
つかの間の女子の体験はどうだっただろうか。
きっとそれでも心は救われなかった。手にしたかったのは仮の姿ではない。
あたしは音無花音の体を引き寄せた。この体と心で生きていく。
夕凪もその体と心で生きていく。
かけがえのない自分。
答えはすぐには見つからないかもしれないけど――
「自分は……自分は間違ってないって思うんだ」
耳元で夕凪がつぶやいた。
「あたしは――」
あたしは、自分が正しいことをしてきたと、胸を張っていえなかった――
自分に戻って、まずはなにをする?
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