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第16話 生きものを殺した日

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「あぁもうっ! 次から次に鬱陶しいわね」

 渡り廊下で一人、押し寄せるゴブリンの群れを相手にする有栖川アリスは、終わりが見えない状況にうんざりし始めていた。

「ゴブゥゥウウウ!」
「しつこいっ!」

 飛びかかってくるゴブリンの頭上から木刀を振り下ろし、一撃で地に沈める。
 圧倒的な強さを見せつける彼女だが、すでに10分以上、全力で木刀を振り続けている。日頃から絶え間ぬ鍛錬を積んできた彼女とて、さすがに疲れの色が見えはじめていた。

「このままじゃ……ちょっとまずいかもな」

 有栖川アリスにとって小さく非力なゴブリンは然程驚異ではなかった。
 しかし、問題は数の多さにある。
 例えどれほど優れた剣士であっても、生き物の頭蓋を叩き割るほどの力で何度も剣を振り下ろせば、いずれ腕は上がらなくなってくる。

 仮に彼女の得物が真剣だったなら、然程力を使わずゴブリンを斬り刻むことも可能だっただろう。

「はぁ……はぁ……」

 幼い頃から祖父の剣道場で竹刀を振るってきた彼女は、その気になれば何時間でも木刀を振り続けられると考えていた。小さなゴブリン如きに遅れをとることなどないと、その驕りが彼女を追い詰めていく。

「なんで……こんなに疲れるのかな?」

 有栖川アリスは今はじめて痛感している。生き物を殺すことがこれほどまでに重労働だったのかと。現代において生き物を撲殺することなどない、だから彼女は知らなかったのだ。
 命のやり取りの本当の過酷さを。

「くっ……ゴブリン如きに情けなくなっちゃうな」

 有栖川アリスはつい数十分前の自分を思い出していた。

 誰も居なくなった教室から窓の外を見下ろす有栖川アリスは、地獄の門が開いたような状況に胸を高鳴らせていた。彼女は祖父の影響で、幼い頃から時代劇が好きだった。
 特に有栖川アリスが時代劇に魅了された理由が――刀。それを巧みに操り死闘を繰り広げる侍に、彼女は強い憧れを抱くようになっていた。

 いつしか彼女は侍のような命懸けの戦いを望むようになっていく。その気持ちは日に日に増していき、剣道の試合では満足できなくなっていったのだ。

 だからこそ有栖川アリスは、世界の関節が外れてしまったこの世界を受け入れた――いや、狂い始めた世界に誰よりも歓喜していたのだ。

 ――神様はわたしの望みを叶えてくれた!


 壁に背を預け、玉のような汗をかきながらゴブリンたちを睨みつける有栖川アリスの口元が、僅かに微笑む。

「――生きてるって感じがする。これで相手が強くければ文句のつけようもなかったのにっ!」

 強がりなどではなく、本心だった。

 けれど、彼女の想いや意志には関係なく、体は徐々に悲鳴を上げていく。

「(腕が……震える?)」

 有栖川アリスの腕力は限界を迎えようとしていた。

「(こんな時に……)」

 木刀を握りしめる握力さえ失われつつあった。

「くそっ!」

 彼女は髪を結っていたリボンを解き、グルグルと右手と木刀に巻きつけていく。

「せっかく神様が楽園パラダイスに招待してくれたのに、こんなところで早々に退場なんてしたくないなー」

 絶体絶命の状況の中、有栖川アリスは狂気じみた笑顔をゴブリンたちに向けていた。

「君たちは責任持って、わたしをもっと最高に気持ちよくしてよね!」


 一方その頃、向井吉野と高見盛龍二のニ名は、有栖川アリスを救出すべく廊下を駆け抜けていた。

「「!?」」

 くそっ、ここにもゴブリンが居るのかよ。
 その角を曲がれば有栖川アリスのいる渡り廊下だというのに、寸前のところで二体のゴブリンが俺たちの行く手を阻んでいた。

「ゴブゥ!」

 ゴブリンたちもこちらに気がついたようだ。
 一体は素手で、もう一体は棍棒を携えている。

「ヨッシィ、そっちは任せる」

 龍二はあえて棍棒を持っている方に突進、途中の教室で手に入れたゴミ箱の蓋を盾にしながら、ゴブリンに強烈なタックルを叩き込んだ。

「嘘だろ!?」

 冗談みたいに吹き飛んだゴブリンが頭から壁に激突、白目を剥いて気を失ってしまった。
 俺と龍二を値踏みするように窺っていたもう一体のゴブリンは、どうやら龍二より俺のほうが弱いと判断したらしい。

「なめやがって」

 俺は指先にウォーターボールを作り出したものの、途中でキャンセルした。【水魔法】のリキャストタイムは五分、今使えば五分間は使用不可能になってしまう。【水魔法】はギリギリまで取っておくほうがいいと判断した。

「掛かってこいよ!」
「ゴブゥウウウッ」

 真っすぐ突っ込んでくるゴブリン目がけて、俺は持っていたモップを大きく振りかぶった。遠心力を利用して一気に振り抜いたモップの先端、金具部分がゴブリンの側頭部を捉える。

「うりゃあああああああっ!」

 腕力や耐久値が極端に低い俺だが、異世界で鍛えあげた剣術や槍術、経験までは失われていない。念のため倒れたゴブリンの頭上から何度も得物を振り下ろし、確実に仕留める。

「やるなヨッシィ。武術の心得があったのか」
「えー……と、まあな。そういう龍二もすごいじゃないか」

 彼の健闘を称えると、龍二は首を振りながら手のひらを見せてきた。

「?」

 手のひらがどうかしたのだろうかと思ったのだが、よくよく見ると彼の手は小刻みに震えていた。

「昔から異世界転生とか転移に憧れててさ、何百回、何万回とイメージしてきたのに、このザマさ」

 悔しそうに拳を握りしめた龍二の口元が、僅かにほころんだ。

「その点、ヨッシィは僕なんかと違って本当にすごい」
「そうか?」
「そうだよ! 僕は結局怖くてゴブリンに止めをさせなかった。けど、ヨッシィは違う――」

 そこで一旦言葉を区切った龍二は、少し思い詰めたような表情をしていた。

「それ、借りてもいいかな?」

 先端の金具部分にべっとり血のついたモップを貸してくれという龍二の顔は、真剣そのものだった。

「ああ」

 俺は頷き、龍二にモップを手渡した。
 彼はモップを受け取ると黙ってゴブリンの前まで移動し、微かに震える声で言った。

「見ててくれヨッシィ。僕がはじめて生きものを殺すところを」

 あまりに辛そうな彼の表情を見て、俺はそこまでしなくてもいいんじゃないかと言いそうになり、その言葉を飲み込んだ。

 殺さなければ、レベルが上がらないのだ。
 それに――

 変わり果てたこの世界で生き残るためには、俺たちは野生に還らなければいけない。快適な暮らしが約束された檻はとっくに錆びて、その役割を果たせなくなっている。
 サバンナと化した街では、臆病な野兎から食べられていく。生き残れるのはライオンだけ。

 今まさに、彼は自らの意志でライオンになろうとしているのだ。

 ならば、俺は見守ろうと思う。

「うわああああああああああああああ」

 世界が壊れた日、高見盛龍二は初めて生きものを殺した。
 自らの手で、その意志で……。

 俺はそれを、ただ眺めていた。
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