戸棚の中の骨

三塚 章

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妖精との約束

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 身にまとった婚礼衣裳は、まだ仮縫いのままでしたが、それでも完璧で、美しく見えました。リリルは、自分の全身を姿見に映そうと、横をむいたり後をむいたりました。
「あんまり動くんじゃないのリリル! まだ仮縫いなんだから、しつけの糸が切れちゃうわ」
「ありがとう、お姉ちゃん! こんなに素敵なドレスを縫ってくれて!」
 リリルのために、姉のルネットと村の女性達が作ってくれた婚礼衣裳は、高価な絹こそ使われていない物の、細かな刺繍がほどこされています。
「リリル、幸せになるのよ」
 姉は、子供の時のようにリリルの頭をなでてくれました。
「ありがとう! 結婚してもずっと大好きよ、お姉さん」
 あと数週間で、リリルはおさな馴染みのラゴルと結婚します。ずっとずっと想い続けていて恋が、ようやく叶うのです。ラゴルは少し短気なところがある
けれど、根は優しい人です。町へ行って迷子になったときずっと励ましてくれたのも、目の前に立ちふさがった怖い犬を追い払ってくれたのも彼でした。
(私ほど幸せな人間は、他にいないでしょう)
 普段着に着替え、リリルは足取りも軽く自分の家へ帰りはじめました。
「お嬢さん」
 急に子供のような声が聞こえて、リリルは振り向きました。青い宝石を削って造ったような薄い羽。少女のようにも少年のようにも見える、半透明の体。声をかけてきたのは、人差し指ほどの大きさの妖精でした。
「お嬢さん、ラゴルというのは良い人なのかい?」
「もちろんよ。とってもあの人は優しいんですもの。私はあの人を愛しているわ」
「でもね、お嬢さん。あなたは旦那さんの事なんて、どうでもよくなるかも知れないよ。キライになるかも知れないよ」
 リリルは妖精をにらみつけました。
「賭けてもいいわ、そんな事ありえないわよ。イヤな妖精ね」
「ふうん、じゃあ賭けをしよう。もしラゴルが嫌いになったら一番大切な物をいただくよ」
 その言葉に応えずにそっぽをむいて、リリルは歩きだしました。なんて嫌なことを言う妖精なのでしょう。リリルはムカムカしてしまいましたが、それも少しの間でした。結婚式の事や、これからの事を考えると、幸せすぎてそんな気持ちも吹き飛んでしまったからです。

 リリルとラゴルとの結婚式は無事に終わりました。相変わらずラゴルは優しいし、裕福とはいえないものの、食べていくのに困るほどではありません。それからの三年は、妖精の不吉な言葉も忘れるくらい幸せでした。
 ある夜、コトリと小さな音を聞いて、眠っていたリリルは目を覚ましました。ガラス窓から青い月光が白々と差し込み、ベッドに横たわるリリルを照らし出しています。泥棒でしょうか。リリルは隣に寝ているはずのラゴルを起こそうとしました。いません。横にはしわの寄ったシーツが広がっているだけです。
 ガタン。また音がしました。音の原因は? ラゴルはどこに行ったのでしょう?体の芯から恐怖が湧き上がってくるようでした。
「リリル!」
 戸の向こうから聞こえる震える声は、ラゴルの物でした。
「開けてくれ、リリル!」
 慌てて外套をはおり、リリルは玄関の戸を開けました。
 よろめきながら入ってきたラゴルは、月の照る夜だというのにずぶ濡れでした。紫色の唇からは、歯のカチカチと触れ合うかすかな音がもれています。リリルの肩にしがみついてきた手は、死人のように冷えきっていました。
「まあ、こんなに震えて。どこにいらっしゃったの?」
「ああ、何といっていいのか。その、来てくれ」
 そういうと、ラゴルはリリルの手首をとって、引っ張っていきました。
「どこへ、どこへ行くの?」
 ラゴルは村をぬけ、森の中へと入り込んでいきました。夜の鳥が、二人の影に驚いて飛び立っていきます。ねじれた木の幹が、リリル達をとって食おうとするように間を取り囲んでいます。リリルは、昼でもこれほど森の奥深くまで行ったことはありませんでした。
 急に視界が開けました。木に囲まれるように、湖が広がっていました。月光を映した湖面は、銀の鱗のようなさざ波を立てています。杭に繋がれたボートがゆらゆらと揺れていました。それは、美しい光景でした。湖のほとりに、何か黒い物が転がってさえいなければ。
 それは、うつぶせに倒れている一人の女性でした。肩から下は水に浸かり、水面に長い茶色い髪が揺らめいています。
「殺し……殺してしまった」
「一体、一体誰を……」
 リリルの質問に答えるように、ラゴルが死体を裏返しました。
 仰向けになったその顔は、同じ村に住むエレンでした。
 肺の病でもあるように、リリルの息が苦しくなりました。
「あいつが悪いんだ、あいつが!」
 ラゴルは額の汗を落ち着きなく手の平でぬぐいました。
「あいつは、お前と別れて村を出ようと言ってきた。でなければ俺達のコトを自分の旦那に言うと。そうすればどの道この村では生きていけないと。冗談じゃない! 村の外で、知り合いもいないのに、どうやって耕す畑を探すんだ? 今から大工の勉強でもしろと?」
 ラゴルの声が、ガンガンと頭に響きます。その響きに耐えられずに、リリルはしゃがみこみました。
「だから、俺はこいつの顔を水に押し付けて……」
「ラゴルは、エレンが好きだったの?」
 その言葉に、ラドルは一瞬「しまった」という顔をした。
「い、いや、そんな事はないよ。一番お前を愛しているよ」
(嘘だ)
 リリルにはその言葉が嘘だと分かりました。前は、私だけを見ていてくれたのに。
『でもね、お嬢さん。あなたは旦那さんの事なんて、どうでもよくなるかも知れないよ。キライになるかも知れないよ』
 いつか聞いた、妖精の言葉が頭で鳴り響きました。あの妖精は、このことを言っていたのでしょうか? 浮気されたから、私がラゴルの事を嫌いになると。
 リリルは、改めてエレンの姿を見つめました。細くくびれた腰。柔らかそうな胸。
(きっと、彼女の方から彼を誘惑したのよ。だって、ラゴルはあんなに私の事を愛してくれていたのだもの)
 そう思うと、この女のことが憎らしくてたまらなくなりました。
(ラゴルは、ちょっと魔がさしただけよ。そうに違いないわ)
「ど、どうしたらいい?」
 ラゴルはまるで子供のようにリリルに取りすがってきました。
「そうね。家から丈夫なシーツを持ってきて。あと、針と糸」
 リリルは、死体と石を包んだシーツを、しっかりと縫い合わせました。それを二人がかりで岸につないであった船に乗せました。
 リリルは湖の中心に漕いでいきます。ギイ、ギイ。船の櫂が、奇妙な魔物の笑い声のような音を立てました。
(これでもう終わり。エレンがいなくなれば、またラゴルは私の事を一番愛してくれるわ)
 ボートを漕ぎながら、リリルは微笑みました。
(妖精は間違っていた。これぐらいのコトで、私は彼を嫌いになんてならない)
 リリルは、エレンの入った袋を湖の中に投げ込みました。暗い水底(みなぞこ)から、真珠のような泡が立ち昇っていきます。
(私のラゴルをたぶらかした女がいなくなったわ。セイセイした)
 人殺しをした男をまだ愛している自分は、きっとひどい人間なのでしょう。
(妖精は、きっと私がこれほど恐ろしい人間なのだと思いもしなかったに違いないわ……)

 エレンの死体はあがる事無く、行方不明のままでした。誰かにさらわれたのではないかとか、男と逃げたのではないかとか、事実を知らない村の者は勝手なことを言っていました。
 その噂も人の口に登らなくなったとき、リリルは男の子を産みました。サジュと名付けられた男の子は元気に育っていって、十歳になりました。
 サジェは活発な性格で、あちこち遊び歩いていました。だから、サジュの帰りが遅かったときも、リリルはどこかで遊びに夢中になっているだけだと思っていた。一番星が輝きだしたころになって、初めて心配になってきました。
「サジュ、サジュ!」
 必死になって探すリリルを見て、村の人々も協力してくれました。
「リリルちゃん、リリルちゃん!」
 サジュを見つけてくれたのは、リュアおばさんだった。
「こっちだよ!」
 連れて行かれたのは、エレンを沈めたあの湖でした。
 まるで十何年前の光景を再現するように、湖のほとりに人が倒れています。しかしそれは、エレンではなく息子のサジュでした。
「サジュ!」
 リリルはサジュに駆け寄りました。
「私が来たときは、もうここに倒れていたんだよ」
 首筋に手を当てると、サジュの体は暖かでまだ脈がありました。しかし、リリルが何度呼びかけても、うめき声一つあげません。
「どうして、どうして起きてくれないの?」
「ルサルカだ、ルサルカだよ」
 おばさんが涙を流しながら言いました。
「ルサルカ?」
「女の妖精だよ。水辺で男に殺された女は、妖精になるんだよ」
 その言葉に、リリルはハッと顔をあげました。
 ルサルカとなった女は、男を憎んでいるのだとリュアおばさんは続けました。だから、近づいてきた男から魂を奪い、それを抱えて水の底へ沈んでいくと。次の犠牲者が現れるまで。
「サジュは、ルサルカに魂を盗られたんだ。もう二度と目覚めやしないよ」
(エレンだ。エレンがルサルカになったんだ)
 リリルにはそれがすぐわかった。
「助ける方法は? 助かる方法はないの?」
「それは……」
 リュアおばさんは、唯一サジュを助ける方法を教えてくれました。
「おばあさん…… そのこと、誰にも言わないで」

「まさか、このまま眠り続けるだけなんて」
 ベッドに横たわるサジュの手をさすりながら、ラゴルはつぶやきました。
 リリルはおばさんの言葉を頭の中で繰り返していました。
『ルサルカから魂を取り返すにはね』
 リリルは、背中にナイフを隠してラゴルに近づいていきました。
『ルサルカを殺した人間を見つけ出して殺せばいいのさ。ルサルカの仇を取ればね』
 しかし、どうしてもリリルはナイフを振り下ろす事ができませんでした。だって、友人を湖に沈めるほどラゴルの事を愛していたのですから。
 その時小さなハエが一匹、サジェの瞼にとまりました。サジェはハエを追い払おうとしません。そんなところにハエが止まれば眠っていても追い払うはずなのに。
 このままでは、サジェは本当に目を覚ます事はないのです。今まで、リリルの心の中のどこかにあった「ひょっとして目を覚ましてくれるかも」という期待が、粉々に砕けました。放っておいたらサジェはこのまま、笑うことも、泣くこともないまま、死んでしまうのです。
 リリルは、思い切ってナイフを振り上げました。
 ラゴルは、意外なほどの素早さで刃をかわしました。背後から心臓を貫くはずだったナイフは腕をかすめただけでした。
 生暖かい血がリリルに降りかかります。
「い、一体何を……」
 血がぼたぼたと床にたれました。
 死ぬこともなく、壁づたいに逃げようとしているラゴルを見たとき、まるでロウソクの火が消えるようにリリルの中で何かが消えうせました。
(なんだって、この人はおとなしく殺されてくれないのかしら。 自分のかわいい息子が、小さなサジェが、このままずっと目を覚まさなくてもいいのだろうかしら? かわいいサジェ。きっとこれから大きくなって、たくさん笑って、恋もして、幸せに生きるはずのサジェ。なぜこの人はそれを邪魔するのだろう?)
 忌々しさに、リリルは舌打ちをしました。
 追いかけるリリルのスカートにひっかかり、ベッドのそばに置かれたイスが倒れます。リリルは手を伸ばし、ラゴルの襟首をつかみました。
「やめろ!」
 ラゴルはリリルのこめかみを殴りつけます。だが、傷で右腕が動かなかったのか、利き手ではない左手で殴られたため、大した痛みはありません。
「早く、早く死んでよ!」
 リリルは、ラゴルの脇腹に剣を突き立てます。染み出した血で、指先がぬめりました。
 ラゴルは痰がからんだような咳をして、床に倒れました。体が大きくケイレンしていました。
 リリルはその体にまたがると、ラゴルの胸になんどもナイフを突き立てます。
「あんたが死ねば、サジュは助かるのよ。早く死んでよ!」
 疲れて手が上げられなくなるまで、リリルはラゴルの体に刃を突き立て続けました。
「う……」
 その時、ラゴルの物とは違ううめき声がしました。
「サジェ!」
 血で汚れた頬をさらに涙で汚し、リリルは立ち上がりました。ラゴルの死体に少しつまずいて、息子のもとに駆け寄ります。
「母さん?」
 サジェは、ぼんやりとした表情のまま起き上がりました。惨劇の跡が自分を取り囲んでいることにすらまだ気づいていないようです。
「意識が、意識が戻ったのね!」
 リリルはサジェを抱きしめて、頬ずりしました。
「よかったわ、本当に」
「僕は嫌いになるかもって言ったよね」
 その時、リリルの目の近くで、何か青い光が翻りました。
「君は旦那さんの事を嫌いにならないっていったよね」
 いつか、遥か昔に聞いたことのある声。結婚をする前に話しかけてきた妖精が、空中にガラスのような青い羽をはばたかせていました。
「でも、結局殺しちゃったね」
 リリルは黙ってゆっくりと首を振りました。
「賭けてもいいって言ったよね」
 妖精は、リリルに自分から目を逸らさせまいとするように彼女の顔の真正面に飛んできました。
「賭けは、僕の勝ちだよね」
 妖精は、ニイイ、と笑みを浮かべました。
「一番大切な物をいただくよ」
 次の瞬間、妖精が青い残像を残して姿が消えました。リリルの腕の中で、サジェがびくっとひきつります。リリルの顔に、また新しい血が降りかかります。
 サジェの額に、コインのほどの大きさの穴が開いていました。ちょうど妖精が頭を通り抜けたように。
「あ……ああ」
 力を無くしたリリルの腕から、サジェの体がずり落ち、ベッドに崩れ落ちました。
『あなたは旦那さんの事なんて、どうでもよくなるかも知れないよ』
「サジェ……」
 リリルの手は、血にまみれていました。手だけではなく、胸までも赤く染められていました。足の下でピシャリと血だまりが鳴ります。
「アッハハハハハ!」
 リリルは笑いました。白い喉を仰け反らせて。リリルは笑いました。笑って、笑って、笑って――
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