詩歌官奇譚(しかかんきたん)

三塚 章

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一章

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 膝丈まで茂った夏草をかき分けて、楽瞬(ラクシュン)は必死で駆けていた。
 裾や袖を紐で止め、無理に寸法を合わせた大人用の着物には、あちこちに木の葉や泥がくっついている。包帯のように頭にぐるぐる巻きにした飾り布にも小枝が挟まっていた。
「うわああん、助けて香桃(シャンタオ)」
 声変わりもしていない甲高い悲鳴が山に響く。
「いた! 香桃!」
 行く手にびっくりした顔で立っていたのは、十六歳ほどの女性だった。裾が膝までもない短く黒い着物を着ている。円状に束ねられた鞭が、帯につけられた留め具にひっかけられていた。それだけでなく、山刀もぶら下げている。
 楽瞬は彼女の背中に身を隠した。
「楽瞬様! どうしたんですか!」
「それが……」
 楽瞬が続けようとした説明は、バキバキという音で途切れた。
 人の二倍はありそうな熊が、枝を折りながら顔をのぞかせた。
「まあ、追いかけっこでもしているのかと思ったら、随分と大きな友達ができましたのね」
 香桃は呆れたような半眼で、熊を眺めた。
「うわああん! そんな冗談言ってないで助けてよ!」
「はいはい」
 一つうなり声をあげ、熊は意外と長い前足を振り上げた。
 香桃が腰の鞭に手を伸ばし、その柄を握る。
 熊の前足が振り下ろされるより先に、鞭が蛇のように中空を走った。その先端が熊の鼻先をしたたかに撃ちつける。
 熊は後ろ脚で立ち上がると、両の前足で鼻を押さえて身悶えた。びっくりするくらい人間とそっくりなしぐさだった。
「グルルル」
 かなわないと見てとったのか、うなり声をあげると、もと来た道を帰っていく。
「ああ、びっくりした。食べられちゃうかと思った」
 楽瞬は息を切らせたまま、額に浮かんだ汗をぬぐう。
「まったく。だから勝手に先に行くなといったでしょう。あなたに何かあったら、護衛の私はどうしたらいいんですか。おケガはないですか?」
 香桃はぶつぶつ言いながら、楽瞬の着物についた枝や葉を取ってやった。文句こそ言っているものの、優しい手つきだった。
 ここ、黄狐(ファンフー)の国では、詩歌官(しかかん)と呼ばれる役職がある。その仕事は様々な場所を巡り、民の間に流行る詩や歌、言い伝えなどを集めること。
民の流行り歌は、そのまま民達の不満や喜び、怒りや悲しみなどを映し出す。日照りが続けば雨をもたらす竜神の徳を称える歌を、盗賊が暴れていればその悪行の数々を、人々は歌にする。皇帝はそれらを詩歌官に集めさせ、民の生活を知るのだ。
楽瞬はその詩歌官で、香桃はその護衛だった。
「それにしても、郡樹(ジュンシュ)の村ってどこにあるんだろ。確かこの辺だと思うんだけど」
 楽瞬がキョロキョロと辺りを見回した。
「ええ? ひょっとして迷ったんですか? 僕にまかせてって私から地図を奪い取っていったのはあなたですよ! あれだけ自信ありげだったのに!」
 この山の中、村を探してうろつきまわるのは大変だ。それは楽瞬にも分かっていた。
「大丈夫だよ。近くまで来ているのは間違いないんだから。ひょっとしたら、村の人に会うかも知れないよ」
「こんな広い山の中で、そうそう人に会うことなんて……」
「おや、見ない人だね」
 突然後ろから話しかけられ、二人は振り向いた。いつの間にか、山菜をいれたカゴを持ったおばあさんが立っていた。
「ね?」
 楽瞬が得意そうに香桃を見上げた。
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