おぼろ豆腐料理店

三塚 章

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おぼろ豆腐料理店 25

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 秋津は身をすくませる。まるでいつきの言葉が飛礫(つぶて)となって秋津の胸を打ったようだった。
「自分の本当の気持ちが自分で分かっていないんだね。いや、知っているのに気付かないふりをしているのかな」
 いつきはまたくすくすと笑った。
 小宮には、いつきが何をしようとしているのか分からなかった。だが、何かとてもひどく残酷なことをしようとしているのは分かった。
「だ、黙れ」
 だらだらと秋津のこめかみから汗が流れ落ちる。
「かわいそうに、娘さんはお父さんを信じていただろうにね。お父さんなら助けてくれるって」
 だんだんと秋津の顔から力が抜けていく。抵抗を諦めた者の、ほうけたような表情を浮かべている。
「久命屋と仲良くなったのも娘さんがきっかけかな? この辺りで一番大きい薬屋なら、餓鬼病の薬を手に入れることができると思ったんだよね」
 冬の風のように、冷たくいつきは囁いた。
「そして久命屋に金を与えて治療薬を作ろうとした……でも、完成する前に娘さんが死んじゃって、できそこないの偽薬を売ろうとした。あとは病を武器として売り出そうとした。金のために。いや……」
 足音も立てず、いつきは秋津に近づいて行く。
 秋津は力なく首を振った。だんだんと秋津の目から生気が抜けていく。
「金のためじゃない。ただの八つ当りだよね。自分の娘が死んだのに、ほかの患者が生きているのが許せないって」
 いつきは唇を秋津の耳に近づけ、毒のような言葉を吹き込み続けている。
 何かに操られているように、秋津はふらふらと歩き始める。
 いつきが何をしようとしているのかわからず、見守るしかない小宮の顔に、月下がちらりと目をむけた。
「ねえ、あなた。ふと、死にたくなることってない?」
「え?」
「例えば、横に張り出した松の枝に、首をくくった自分の体が揺れているのを妄想したことは? 大きな湖を前にしたとき、真ん中に向かって歩きだしたくなったことは?」
「な、何が言いたいのか分からないよ、月下」
「橋から身を乗り出したくなったことは? そんな大げさなことではなくても、剃刀(かみそり)の刃に触れてみたいと思ったことは?」
 秋津は、膝丈ほどのタンスを欄間(らんま)の真下に運んだ。
 異様な光景に、小宮はなにもできずになりゆきを見守るしかない。
「縊鬼(いつき)はね、人の心のスキに入り込み、その人を破滅に導く妖怪よ。『魔がさす』っていうけれど、まさしく『人の心にさし込む魔』ね」

 ――麹町で、同心達が酒宴を開くことになった。だが、参加者の一人が約束の時間になってもなかなかやって来ない。
 しばらく後、ようやく来たその男は、「用事ができた。人が待っている」とすぐに帰ろうとする。不審に思った仲間がなんの用事かと尋ねれば、答えは「喰違門(くいちがいもん)の所で首をくくらなければ」。
 半分冗談だと思った仲間達は、その男に酒を飲ませ、引き止めた。
 そうこうしているうち、屋敷の召使が「ついさっき、喰違門で首吊り死体が見つかった」という知らせを持ってきた。
 驚いた仲間がさらに詳しく男に聞けば、宴に行く途中喰違門にさしかかったとき、見知らぬ男に「首をくくれ」と囁かれたという。「どうしてもその言葉に従わなければならない気がする。だが無断で死ぬわけにはいかず、宴席を断るためにここへきた」と。
 おそらくその男は縊鬼に憑かれたのだろう。だが仲間達が引き止めたことで、男を殺せなかった縊鬼は、ほかの男に取り憑いたのだ。そう同心達は噂した――

 『おぼろ』でいつきがなんの妖怪か聞いたとき、月下は言った。「いつきはいつき」だと。
 小宮はその言葉を「いつきには何の秘密もない、ただ見たままの者だ」というように受け取ったのだけれど、それは間違いだったようだ。
 寺で、住職がいつきに冷たかったのもそれで分かった。さすがお坊さんだけあって、いつきの正体を見破っていたのだろう。
 心の魔、悪心を掻き立てる妖怪。だとしたら、さっき浪人達が急にやる気をなくしたのも説明がつく。こんな仕事で命を懸けるなど割りに合わないと怠け心を掻き立てたのだろう。
 秋津は、タンスの上に乗り、帯をといた。だらしなく一番上の着物がはだける。その帯を欄間(らんま)に通し、結んで輪を作る。
 ここまでくれば、さすがに小宮もいつきの狙いが分かった。
 秋津の背を押すように、いつきが囁く。
「自分の娘も助けられないで、八つ当りに薬ばらまいて、あんた、生きている価値、あるの? そもそも……秋津がいない世界って、楽しい?」
 秋津は輪に首をさし入れた。
 小宮はヒュッと白刃を走らせ、帯を断ち切った。
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