月下の麗人・黒衣の魔術師

三塚 章

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 *影の檻

影の檻 6

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 息が続かなくなり、レノムスはよろけるように木の幹に手をつくと、息を整えた。頭が痛い。ひどく吐き気がした。血の半分以上をぬかれたように、寒くてめまいがした。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」 
 震える声でレノムスは呟いた。ほっそりした指のかすかな動きが、頭の中で何度も何度も再生された。
 あの場所から逃げるべきではなかった。もちろん、そのままいたからといって姉を助けられたとは思わない。非力な自分が魔族と化したフィアドを倒すことなどできないし、仮に姉を助けだしたとしても、あの傷では手遅れだっただろう。
 けど、逃げるべきではなかった。あの場でフィアドに殺されていれば、少なくとも大切なきょうだいを見殺しにして逃げ出すような人間に成り下がることはなかったのに。こんなひどい想いはしないですんだのに。
 少し離れた場所で、治療院に向かうらしい何人かの足音が聞こえた。
おそらく、魔物になったフィアドを狩りにむかう僧兵だろう。魔族を倒すために訓練された僧兵隊に、魔物になったとはいえ、もとはただの商人だったフィアドが逃げ切れるとは思えない。フィアドも殺されるのだな、と思った。
「ハディス……」
 そばにいるハディスがケガなどしていないか確認しようとして、レノムスはそこで初めて彼がいないことに気がついた。なんとなく自分の後をついてきているような気がしていたのだ。
 レノムスはよろめきながら今来た道を戻り始めた。

 小さな物音がして、レノムスは立ち止まった。建物の壁と傍に置かれた木箱の間に隠れるようにして、ハディスはうずくまっていた。
「ハディス」
 小さく呼び掛けると、ハディスはゆっくりと顔をあげた。
 逃げた時に転んだのか、頬に切傷が付いていた。そのまわりは血と泥で汚れている。
「じっとして」
 しゃがみこみ、ポケットからハンカチを取り出して傷口を拭う。
 泥がとれ、赤い糸のような傷がはっきりと見えた。また血が流れてくるだろう。レノムスはもう一度ハンカチをあてようとした。
 目の前で、傷がうごめいたように見えた。真っ赤だった色が薄い桃色に変わっていく。そして下から溶けるように消えていった。
 驚いて手をひっこめた勢いで、レノムスはバランスを崩して尻餅をつく。上体が後に倒れそうになるのを、片手をついて支えた。
 もうハディスの傷は跡形もない。こいつは魔族の血を引いている。分かっていたはずなのに、今初めてそれを知ったようだった。
 魔物となったフィアドの、濁った目。そして、血に沈んだリティリアの姿。
 ハディスを殺さなければ。でないと、あのフィアドのようになる。人を殺すようになる……
 地面についた指先に、石が触れていた。そろそろと視線を動かしてのぞき見ると、それは手の平より一回りほど小さい。
 目の前の生き物に気付かれないよう、レノムスはその石を握り締めた。殺さなければ。これで頭を殴れば簡単にできるはずだ。手がじっとりと汗ばんだ。
「レノムス」
 自分の殺意を見抜かれたような気がして、ギクリと体を強ばらせた。
「ねえ、僕もあの男の人みたいになるの?」
 ハディスの肩が小さく震えていた。彼の歯が触れ合う音がかすかに聞こえた。
「僕も、あの人みたいにレノムス達を殺すの? スキな人を殺す?」
 続く言葉はあまりに小さく、レノムスはほとんど唇を読むようにしてそれを聞き取った。
『ヤだ』
 石を握り締めていた指が痛む。
 落ちて割れた花瓶、そしてカケラを拾おうと伸ばした腕を押し退けるハディスの手の感触がふいによみがえってきた。
 レノムスは手を石から離した。自分は何を考えていたのだろう。ここにいるのは化物なんかじゃない。少なくとも、今は。
「大丈夫だよ、ハディス」
 レノムスはハディスを抱き締めた。
 ハディスがフィアドのようにならないなんて、誰も保証はしてくれない。無責任な気休めは言いたくはない。だから、レノムスはこう言った。
「もしもハディスが魔族になったら、君が誰かを殺す前に、僕が君を殺してあげる」
「約束?」
 力ない問いかけに、レノムスはうなずいた。
「ハディス様!」
 今までどこにいたのか、リンクスが木の上から跳びおりてきた。
「まだ裏口からなら逃げられますわ。今なら、部屋を抜け出したことにも気付かれていないはず。逃げますわよ」
 どうやらリンクスは辺りの様子を偵察に行っていたようだった。
「逃げるって……」
 きょとんとしているハディスにいらだって、リンクスは早口で言う。
「こんな事が起きた以上、皆魔族に恐れを抱くでしょう。もたもたしていたらハディス様がどんな扱いを受けるか! 下手したら、いいえ、間違いなく殺されますわ!」
 リンクスは、びっくりしているハディスの襟首をくわえ強くひっぱった。
「早く! あの魔族を狩るために、僧兵がどんどん集まっています!」
 遠くで、でも確かに、人の駆け回る音がする。
「でも……」
「大丈夫、前の実験では切り落とした髪も爪も、太陽で灰になったりしなかった! 朝日が昇ったところで死んだりしませんわ!」
 ハディスはその姿勢のまま、しばらく動けないようだった。だが、それは短い時間で、すぐに立ち上がる。そしてレノムスに背を向け、走りだす。あとに付いていくリンクスが、途中で振り返った。
「縁があったらまた会いましょう、レノムス様。それまでお元気で」
 二人の姿が消え、足音が聞こえなくなっても、レノムスは座り込んだまま動かなかった。
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