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【†黒衣の魔術師†】
黒衣の魔術師
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ノックの音に、ハディスは魔道書から顔をあげた。琥珀色の瞳がいぶかしげに細められる。どこかタキシードを思わせる、飾りのない黒い服を着ている。
「客か? 珍しいな」
ベッドから起き上がると、瞳と同じ色の髪を手グシでととのえながら戸口へむかった。
「誰だ?」
細く開けたドアのむこうに立っていたのは、茶色の地味なローブを着た青年だった。胸にはハルズクロイツ教会の聖印である月と太陽をあしらったペンダント。フードからはこぼれる髪は銀。女と間違えそうな唇が、優雅に弧を描いている。
「久しぶりですね、ハディス。元気にしてま……」
客の言葉が終わる前に、ハディスはパタンとドアを閉めた。
「久しぶりに会った親友に対する態度がそれですかハディス」
扉のむこうからロレンスの恨めしげな声が聞こえてくる。
「黙れロレンス。この腐れ聖職者め」
毒づきながらも、ハディスは戸を開ける。部屋に通されると、ロレンスは周りを見回した。
本棚に詰め込まれた本。上では標本の小動物が赤裸々に自分の中身を大公開している。机の上には、何やら実験器具。その隣には黒いネコ。
「相変わらず、女の子を連込もう物なら泣いて逃げ出されそうな部屋ですね」
「ほっとけよ」
部屋に一脚しかないイスをロレンスに譲り、ハディスはベッドに座る。
「あら。ハディス様は結構もてるんですのよ」
机の上のネコがくすくす笑った。
「ただ、女の機嫌を取るよりも、実験の方がお好きなんですわ」
「そういう事。で、わざわざお忍びの格好までして、何の用だ? どうせ、仕事の依頼だろ?」
しゃべるネコを使い魔にしている事からも分かるように、ハディスは薬の調合や解呪を行なう魔術屋をしていた。友人という事もあり、ロレンスはよく仕事を持ってくる。それはいいのだが、問題は奴が持って来た仕事が、何故か必ず厄介な物になる事だ。
護衛を兼ねて金持ちのパーティーに行ってみれば暗殺事件に巻き込まれる。教会から盗まれた物を魔法で捜し出したら、それにかかっていた魔法が暴走しそうになった事もあった。
「そう警戒しないでください。ただのお使いですよ」
ロレンスはポケットから地図を取り出した。
「カルセンの遺蹟。ここだけマークが付けてあるな?」
「はい。実は一ヵ月前辺りからここに何かが住み着いているらしいんです」
ロレンスの説明はこうだった。
ある旅人が、遺蹟の近くで道に迷った。日も暮れて来たので、そこで野宿する事にした。しかし、寝袋を広げる間もなく、そこから逃げ出すハメになった。
遺蹟から響く、不気味な声を聞いてしまったから……
「で、それを俺に調べて来いと」
「ええ。旅人は謎の声の主を魔物だと思ったらしくて。教会に連絡を入れたのです」
「だったら、僧兵でもむかわせればいいじゃねえか。なんだって俺に?」
「旅人は魔物だと言っていますが、実際にそうなのか分からないのですよ」
ロレンスは、後半部分に微妙に力を入れた。
「つまり、大事(おおごと)にするには根拠が薄弱すぎると」
「はい。それに相手がただの盗賊だったりしたら逆に厄介です。犯罪者とはいえ、僧兵が一般人を殺すわけには行きませんからね」
ロレンスはそこでいたずらっぽく微笑んだ。
「それに数十人の僧兵よりも、あなた一人の方が強いでしょう? ハディス」
「フン。おだてても金はもらうからな」
さっそく、壁にかかった上着に袖を通しながら、ハディスは窓の外に目をむけた。
空は曇りがちで、出掛けるのに最高の日、というわけにはいかないようだった。
目的地についた時には、すっかり夜になっていた。だが、怪しい声を調べるなら、旅人の証言と条件を合わせた方がいいだろう。そう考えれば、まあ悪くない。
魔術用の杖の先端に光を灯し、ハディスは自分の周囲をぐるりと照らし出した。
遺蹟は、もとは小さな集落だったらしい。箱のような形をした石作りの家が並んでいる。町の真ん中には、集会場らしい円形の建物が見えた。そしてそのどれもが枯れかけた草に覆われている。
「しかし、前時代の遺蹟ねえ。用がなければ入りたい所じゃねえな」
数百年前、人間は今とは比べ物にならないほどの魔法技術を持っていたという。そして、当時施された魔法が、しぶとく残っている可能性だってある。それこそ、屋根に飢えた旅人や人目を忍ぶ盗賊団でなければ踏み込みたいとは思わない。
誰からだったか、いつか聞いた話をハディスはうんざりと思い出した。
ある盗賊が前時代の遺蹟に入り込んだ。そして、財宝を見付け、入って来た門から出ようとした。瞬間、どこからともなく飛んできた火球に焼き尽くされた。泥棒よけのトラップが生きていたのだ。
「罠にはまって死にました、じゃお話にならねえよな、リンクス?」
使い魔に話し掛けると、黒猫は主人の足にすりよった。
「にしても、特に変わった物は見当らんが」
草に覆われた石畳、膝ほどの高さの給水柱に、割れた石の盆。そのどれもが、草に覆われている。
何気なく、砂岩でできた壁に手を付く。指先にザラリとした凹凸を感じる。見ると、壁にフォークで引っ掻いたような跡がついていた。
「何だ、これ? ひょっとして例の声の主の仕業か?」
ハディスがさらによく傷を調べようとした時。背後の暗闇で石畳に何かが擦れる音がした。ちょうど、長い爪を持つ獣が歩いているような。生暖かい息が背中にかかり、ハディスは体を強ばらせた。
恐る恐る、振り返る。暗闇の中に、ずんぐりとしたシルエットが浮かび上がっている。
「あのな、リンクス」
ハディスはボソリと呟いた。
「俺はこう見えても、名声なんてもんに興味ねえよ。ドラゴン倒して勇者の称号を得たいとも思わん。他人にちやほやされていい気になるのはバカの証拠だからな」
「はい」
「だがな、さすがにこれは無いだろう!」
大きな毛玉のような胴体に、細長い顔。ヒクヒクと動くヒゲ。意外と小さい耳に、長い尻尾。それは、ネズミだった。ただし、大きさはハディスがまたがれるほどだが。
「なんだよ巨大ネズミって! せめてグリフィンがベヒモスぐらい出て来いよ!」
「『ネズミ殺しのハディス』なんて二つ名なんてついた日には、バカにされてるとしか思いませんわね」
うんざりとした様子でリンクスが言った。
「よかったな、リンクス。うまく保存できれば三ヶ月はおやつに困らんぞ」
「喰えと言うのですか、これを? 絶対にイヤですわ!」
「じゃあ、なんかもう面倒だからロレンスに『ネズミしかいなかった』とでも報告しようか」
「間違ってはいませんが、正しくもないですわ。それにそんな事したら後で怖いですわよ。来ましたわ!」
チューというよりキシャーというかわいげのない声をあげ、巨大なネズミは板大のカミソリのような前歯でハディスにかじりかかった。
ハディスは真横に身をかわした。おかげで肉を削られはしなかったものの、太い胴がかすめた勢いでよろめいた。
「畜生! こんな家庭内害獣にやられてたまるか!」
杖の先端に灯っていた光がより白く色を変えた。ハディスは杖を横薙ぎに振る。
中空に描かれた光の弧は、消えずに刃となって中空を走った。軽いムチのような音をたて、ネズミの胴に血で赤い線が引かれる。
崩れ落ちるネズミに、ハディスはフンと鼻を鳴らす。
「ふん。皮はいで毛皮にしてやろうか」
ハディスが倒した敵に背をむけた時。
くぐもった呻き声とともに、灰色の毛玉が起き上がった。傷口からにじんだ血は、もうしたたるのをやめていた。
「馬鹿な! 致命傷だったはずだぞ!」
斬り付けられたのに怒ったのか、ネズミはハディスに突進してきた。
「ぬおっ!」
ハディスは体をひねってその攻撃をやり過ごした。その一瞬で傷が消えている事を見て取る。
目標を見失ったネズミはもろに壁に追突した。
「回復能力があるなんて、完全に魔法でいじくられてるじゃねえか!」
しかし、どうすればいいのだろうか。いっその事、回復が間に合わないように魔法で爆発でもさせればいいのだろうが、どんなにおきてやぶりの大きさでも、相手は生き物だ。あまり残酷なマネはしたくない。それに、魔法で回復能力が与えられているなら、木っ端微塵になった肉片が寄り集まって復活する、という一目みたら三日は肉が食べられない光景を目撃するハメになるかも知れない。
「仕方ない。しばらく眠ってもらおうか!」
ロッドの先端に、青白い雷が無数に現われる。まるで荒い綿飴のようだった。
頭をふり、意識をはっきりさせようとしているネズミのこめかみに、ハディスはロッドの先端を突き立てた。
電撃にさらされ、ネズミの毛が逆立つ。痙攣をして、ネズミはくずおれた。
「どうせすぐに回復するだろうからな。すぐここを離れよう」
ハディスはネズミの毛をぶちっとむしり取った。
「どうなさるんですか? ハディス様」
「どうするもこうするも、このいたずらのしかけを解くしかないだろう。そしてこのネズミをけしかけた奴に三指ついて謝ってもらおうか」
ふと、頬に冷たい物を感じ、ハディスは腕を伸ばす。手の中に、雨粒が落ちた。
「雨か。ついてないな。急ごうぜリンクス」
ハディスがとりあえずの拠点に選んだのは遺蹟の奥にある家だった。その大きさから、もとはかなり金持ちの物だったのだろう。長い年月で屋根は半分欠け落ちていたが、奥にいれば風はともかく雨は防げる。
まだしぶとく明かりの魔法は生きているらしく、ハディスが入ると部屋の隅にあった燭台に火が点った。
「さてと」
タイルの間から草の生える床にハディスは腰をおろした。パラパラと床にネズミの毛を散らす。そして、それに手をかざし、息を整えた。
毛の束と、ハディスの手の間に、緑色の光の球が現われる。ハディスは指の先でその光をつまんで一気に引っ張った。まるで編んだ毛糸をほどくように珠はほどけていく。よく見ると、その帯は半透明の文字の連なりで出来ている。一つ一つに物質を変化させるほどの力と意味が込められた文字の列。これは、このネズミにかけられた魔術の術式だった。
「ふうん、なるほど。ある程度魔術の基礎は知ってる奴の仕業か」
巻き物のように帯を広げ、ハディスはその光の文字を読んでいく。
「なんだ、これは。生物兵器でも造ろうとしてたのか」
のぞきこんできたリンクスに、問題の場所を指差した。
「ここで、細胞を活性化させる命令を入れたのはいいが、故意かミスか、どこまでやるという歯止めの命令がない。その結果があの大きさだ。細胞を変化させりゃ当然体に負担がかかるが、それを緩和する術式も抜けてる。これじゃあちこち激痛に襲われてるだろうよ。そりゃイラついて強暴化するってもんだ」
「なるほど。だから臆病なはずのネズミがあんな積極的に襲いかかってきてきましたのね。なんだか、かわいそうになってきましたわ」
「というわけで、なんとかしないとな」
ハディスが手を振ると、光の文字は消え去った。
懐から水筒代わりのビンと、携帯用の小さな皿を取り出す。水を皿に空け、その辺りに転がっていた小さな枝を手に取った。枝の先端が、淡い緑色の光を宿す。水面に触れるか触れないかの高さで、ハディスは尾を引く光で魔力を持つ文字を書き付けた。
しばらく浮かんでいた文字は、氷のように溶け失せる。透明な液体がエメラルドの輝きへと色を変えた。
「あんな大きなネズミにタッチなんてやってられないからな。この解呪薬をかければ普通のネズミに戻るぜ」
キシャアという音が風に乗り聞こえてきた。
「お、お目覚めだな」
「仕方ないですわねえ。行きますか」
リンクスがやれやれ、とノビをした。
数分後、大通りの真ん中にリンクスはポツンと座っていた。
「ううう、私がオトリだなんて。恨みますわ、ハディス様」
主人に聞こえるようにわざと大きく呟く。
「仕方ないだろ、この方法しか思いつかんのだから」
ハディスは、大通りに沿って並ぶ建物の一つにいた。ちょうどネズミの体高より少し高い二階に陣取っている。大きく開いた窓から、リンクスの背中と肩越しにこっちを見つめる恨めしげな目が見える。
「もしこれでネズミに食い殺されたら、一族の恥ですわ」
「大丈夫だって。ほら、来たぞ!」
建物の影から、ヌッと黒い毛並みが現われた。
今までネコに殺された全てのネズミの仇を取ろうとでもいうように、巨大ネズミはリンクスに突進した。
タイミングを見計らって、ハディスは窓からビンを放り投げた。ちょうどネズミの真上に来た瞬間、光の刃を放つ。
ちょっとした爆発音とともに、ビンが砕け散った。空を見上げたネズミの顔に、緑色の光が雨とともに降り掛かった。
「ヂュ~!」
ネズミはパニックを起こした馬のように後ろ足で立って前脚をバタつかせる。風船の口を解いたように、体が見る見る縮み、普通のサイズまで戻る。
「シャー!」
どうやら、凶暴性もなくなったようで、リンクスが威嚇(いかく)をするとどこかへと逃げていった。
「とりあえず、化物は退治したな。まだ仕事は残っているが」
ハディスは、町並みを眺めた。円形の劇場、壁のあちこちが壊れた町並み。この中に、きっと手がかりがあるだろう。
「一体誰がこんなふざけた事をしたのか、突き止めないとな」
ふざけた事をした誰かは、意外と早く突き止められた。数百年も前の遺蹟の中で、一部屋だけ現在の家具が持ち込まれている場所で。
「なるほどね。こういうわけか」
獣に食われ、ほとんど白骨化した人間の死体が床に転がっていた。骨の形と大きさから大人の男の物。そしてその前には実験器具が転がっている。
部屋の隅に置かれたベッドの上にも白骨死体。床に倒れている物よりうんと背が低く、枕に長い金髪を何本か遺していた。
ざあざあという雨の音が、部屋を包み込んでいる。とうとう、本格的に振り出してきたようだ。どこからか入り込んできた細い水の流れが、部屋の隅で小さな水溜まりを作っていた。
「別に生物兵器を作ろうとしていたわけではなさそうだな」
ホコリの積もりかけた机に歩み寄る。
そこには、紙がうず高い山を作っていた。術式の書かれた物、魔法陣の描かれた物、そしてまるで狂気に取り憑かれたような文字で書き付けられた心情。
「ベッドの娘は、不治の病に犯されていたんだ」
「それで、この魔術師は娘を治す術を作ろうとしていましたのね」
「だが、間に合わなかったという事か」
『なぜ私の娘が?』『返って来てくれ』『死神』『必ず』。乱れた文字が紙を埋めている。
「しつこく死んだ娘を蘇らせる術まで創り出そうとしていたようだが、結局できたのは、中途半端な回復能力を持つネズミだけってわけだ」
これで、ネズミが異様な力を備えている理由が分かった。
「失意で自殺したのか、ネズミに喰い殺されたのか分からんが…… なんて愚かな。死者を蘇らせる術がちょいと研究したぐらいでできるモノなら、とっくに誰か作り出しているさ。でもまあ、気持ちは分からんでもない。嗤わないでおいてやる」
メモをめくりながら、ハディスはリンクスに聞いた。
「もしこのまま、ロレンスに報告したらこの死体はどうなる?」
「そりゃあ、人を生き返らせるなんて、神に背く魔術を創ろうとしたんですから、父親の方は罪人の墓地に葬られるでしょうねえ。墓標には罪状を刻まれて。女の子はただの病死ですからきちんと葬ってもらえるでしょうが」
「娘とは別々か」
ハディスは懐から硬貨を二枚取り出した。それぞれの死者の胸に乗せる。死出の旅に使う金を持たせるのはこの辺りの風習だ。
「さすがに埋葬するのは手間だな」
メモを何枚か手に持ったまま、ハディスは呪文を唱えた。メモは青白い炎に包まれる。ハディスが手を放すと、メモは自分を包む炎の熱でふわりと浮き上がった。まるで数匹の蝶のように。群れから別れた二匹の炎が、親子の足に留まる。
「ま、遺った体がどうなろうと、当人達は何とも思っていないかもしれないがな」
魔性の火は骨すら残さず遺体を飲み込んでいく。炎は机の上まで走り、誤った実験結果を消していく。これで中途半端な知識が悪用されることは無いだろう。
炎をまとった紙が一枚、また一枚と舞い上がり、影を生き物のように揺らめかせる。熱い炎の中で、ガラス器具が涼し気な音を立てて割れていく。
「さあ、帰ろうぜリンクス」
炎が消えるのを待たず、ハディスは廊下へと出て行った。
外に出ると、雨はかなり激しさを増していた。
「ううむ、帰るとは言った物の、こんな雨の夜に歩いて村まで行きたかないなあ。しかたない。この遺跡で野宿するか。さすがに、火のついた建物で寝たくねえから、どこか他の場所ねえかな」
少し歩いただけで全身ずぶ濡れになってしまい、いまさら急いで建物の中に飛び込む気はしない。落ちた屋根ばかりの街並みで、少しでも居心地のいい場所はないかとハディスは歩みを進めた。
「そういえば、ハディス様」
リンクスが主人の後について歩きながら言う。
「あのネズミ、メスでした? オスでした?」
「さあ? どうでもいいだろ、そんな事」
「いや、もしも子供でもいたら大変な事になると思いまして」
「はっはっは、まさかそんな事……」
視線を感じ、ハディスは足を止めた。
かさこそと、小さな音があちこちから聞こえてくる。欠けた壁の穴の中、壁に施された彫刻の出っ張りの上。無数輝く、小さな目。
「まさか……」
木がきしるような鳴き声をあげ、子犬ほどの大きさのネズミが一匹飛び出して来た。悲鳴をあげて逃げ出すハディスを、他のネズミ達がぞろぞろと追って来る。
「ほら見ろ、手前が変な事言うから!」
「私のせいだとおっしゃるのですか?! それにしても「さすがはネズミ! 繁殖力半端ないですわ」
「感心してる場合か! あだだだだ!」
背中にかじりついた一匹を払い除けた時、一際大きな影が、建物の角からヌッと現われた。
「さっきのデカネズミの相方か!」
地響きすら立てて、規格外の生き物達はハディスを追い掛けはじめた。
バシャバシャと水溜まりを蹴立てるハディスの目に、円形劇場が飛び込んできた。長い年月でほとんど戸が崩れ落ちている建物が多いなか、幸いそこには仮面の彫刻が施された石の扉が残っていた。それに人が集まる所ならば頑丈に出来ているかも知れない。
中に飛び込み、全身の力を使って重い扉を閉める。その瞬間、ネズミの体当たりする音がドドドッと響いた。
数百年ぶりに訪れた客に反応して、所々据えられた照明灯に明かりが灯る。その光に照らされ、完全に抜け落ちた屋根から降り注ぐ雨が、無数の針のように輝く。
照らし出された観客席はツタと苔に覆われ、手入れをされていない墓石めいて見えた。客席に取り囲まれ、球技ができそうなほど広いむきだしの地面が円く広がっている。その中央には大きな平たい石が一枚おかれ舞台となっていた。その石を挟むように二対の女神像が置かれ、火の消えたランタンをかかげていた。
ハディスは壁に手をついて、切れた息を整えた。濡れて額に貼りつく髪をかきあげる。
そっと背中の傷にさわるが、幸い浅いようだ。
「やれやれ。変な病気にならないだろうな。まあいいさ。どうするかゆっくり考えよう。まさかあいつらだって石の扉を食い破ったりはするまい。そんな事ができるなら、あの親子は骨まで残さずいただかれてるだろうからな」
ハディスは周りを見回した。
「屋根は登るには高すぎる。それに窓もない。ハン、どこからも入る事はできま……」
シャグシャグシャグ。焦げてやたら固くなったクッキーをかじるような音が雨音に混じる。何やら扉の下の土がもこもこと動いている。
「なるほど。雨でゆるんだ地面掘るなんて。その手があったか。石畳、剥がれてる場所があったのか」
「頭でネズミに負けてますわハディス様!」
たぶん、無数のネズミに骨だけ残して喰われる所を想像してしまったのだろう。リンクスは毛を逆立ててブルッと身を震わせた。
「ち、仕方ない。破壊魔法でいったんブッ飛ばすしかねえか!」
ハディスは小さく呪文を唱えた。
呼び出された闇の力が、杖の柄に絡みついた。膨張しようとする力を、ハディスは無理に押さえつけ、圧縮する。狙うのは、扉の下辺り。群れ全体を吹き飛ばす爆発を引き起こそうと、頭の中に、爆音と、振動をイメージする。極限まで圧縮された魔力は――いきなりフッと四散した。
「へっ?」
「あ~!」
リンクスが、前足で壁を指していた。壁に魔術文字が彫りこまれている。この建物内での破壊魔法を封じる術式だった。
「ああ……」
妙に納得してしまい、魔術師と使い魔は小さく声をあげた。劇場と言っても、演劇だけでなく血生臭い試合のような事が行われていたとしても不思議はない。興奮した観客の中に破壊魔法が使える奴がいたとしても不思議ではない。
土を削る音が少しずつ大きくなっていく。
「骨格標本になるのはいやあああ!」
「うるさいぞリンクス! 封じられるのは破壊魔法だけだ」
ハディスは唇の端を吊り上げた。
「だとしたら、さほど問題じゃないさ」
ハディスは、一つの女神像の隣に立っていた。扉の下から、奇声を発しながら黒い波が押し寄せてくる。劇場の明かりに照らされて毛皮が黒銀色に輝き、美しいと言えなくもなかった。地面を覆うほどのネズミの群れが劇場に入り込んだ瞬間、ハディスは女神像に手を触れた。
女神像が掲げるランタンに、光が灯った。上をむくよう角度を調節されたランタンには、びっしりと解呪の術式書きこまれていた。緑色の文字が、夜空に投げかけられる。降り注ぐ雨が、その文字をすり抜け、エメラルド色の輝きを帯びて降り注ぐ。
「ヂュゥゥゥ!」
雨を浴びたネズミは普通の大きさのネズミに変わっていく。凶暴さもなくなったようで、縮んだ物から物陰へと消えて行った。
「ふん、今度は毒団子でもばら撒いてやろうか」
最後の一匹が逃げ失せたところで、ハディスはフンと鼻を鳴らした。
「まさか、空に術式を書き移して雨を解呪薬にするとは」
数日たって、再びハディスの部屋に訪れたロレンスの口調には、少し呆れたような含みがあった。
「相変わらず無茶するというかなんというか。まあ、とりあえず原因が分かったので、人を使わせて他に変化させられたネズミがいないかどうか調べる事ができました。もう他に危険な物はないようですね」
「まったく、インドア派の俺が雨の中駆けずりまわるハメになるとは思わなかったよ!」
くすくすとロレンスは笑うと、懐から何かを取り出し、ハディスに放り投げてきた。キャッチすると、それは銀貨だった。
「報酬はマイナスが減るだけ、じゃなかったのか?」
「埋葬代です。私には出来ない事をやってくれたので」
確かに、あのままハディスが何もしなかったら、立場上ロレンスは二人をバラバラの墓に葬るよう指示をするしかなかっただろう。そしてそれは彼の望む所ではなかったらしい。
「ふん」
ハディスは銀貨を空中にはじくと、器用にキャッチしてみせた。
――『黒衣の魔術師』了――
「客か? 珍しいな」
ベッドから起き上がると、瞳と同じ色の髪を手グシでととのえながら戸口へむかった。
「誰だ?」
細く開けたドアのむこうに立っていたのは、茶色の地味なローブを着た青年だった。胸にはハルズクロイツ教会の聖印である月と太陽をあしらったペンダント。フードからはこぼれる髪は銀。女と間違えそうな唇が、優雅に弧を描いている。
「久しぶりですね、ハディス。元気にしてま……」
客の言葉が終わる前に、ハディスはパタンとドアを閉めた。
「久しぶりに会った親友に対する態度がそれですかハディス」
扉のむこうからロレンスの恨めしげな声が聞こえてくる。
「黙れロレンス。この腐れ聖職者め」
毒づきながらも、ハディスは戸を開ける。部屋に通されると、ロレンスは周りを見回した。
本棚に詰め込まれた本。上では標本の小動物が赤裸々に自分の中身を大公開している。机の上には、何やら実験器具。その隣には黒いネコ。
「相変わらず、女の子を連込もう物なら泣いて逃げ出されそうな部屋ですね」
「ほっとけよ」
部屋に一脚しかないイスをロレンスに譲り、ハディスはベッドに座る。
「あら。ハディス様は結構もてるんですのよ」
机の上のネコがくすくす笑った。
「ただ、女の機嫌を取るよりも、実験の方がお好きなんですわ」
「そういう事。で、わざわざお忍びの格好までして、何の用だ? どうせ、仕事の依頼だろ?」
しゃべるネコを使い魔にしている事からも分かるように、ハディスは薬の調合や解呪を行なう魔術屋をしていた。友人という事もあり、ロレンスはよく仕事を持ってくる。それはいいのだが、問題は奴が持って来た仕事が、何故か必ず厄介な物になる事だ。
護衛を兼ねて金持ちのパーティーに行ってみれば暗殺事件に巻き込まれる。教会から盗まれた物を魔法で捜し出したら、それにかかっていた魔法が暴走しそうになった事もあった。
「そう警戒しないでください。ただのお使いですよ」
ロレンスはポケットから地図を取り出した。
「カルセンの遺蹟。ここだけマークが付けてあるな?」
「はい。実は一ヵ月前辺りからここに何かが住み着いているらしいんです」
ロレンスの説明はこうだった。
ある旅人が、遺蹟の近くで道に迷った。日も暮れて来たので、そこで野宿する事にした。しかし、寝袋を広げる間もなく、そこから逃げ出すハメになった。
遺蹟から響く、不気味な声を聞いてしまったから……
「で、それを俺に調べて来いと」
「ええ。旅人は謎の声の主を魔物だと思ったらしくて。教会に連絡を入れたのです」
「だったら、僧兵でもむかわせればいいじゃねえか。なんだって俺に?」
「旅人は魔物だと言っていますが、実際にそうなのか分からないのですよ」
ロレンスは、後半部分に微妙に力を入れた。
「つまり、大事(おおごと)にするには根拠が薄弱すぎると」
「はい。それに相手がただの盗賊だったりしたら逆に厄介です。犯罪者とはいえ、僧兵が一般人を殺すわけには行きませんからね」
ロレンスはそこでいたずらっぽく微笑んだ。
「それに数十人の僧兵よりも、あなた一人の方が強いでしょう? ハディス」
「フン。おだてても金はもらうからな」
さっそく、壁にかかった上着に袖を通しながら、ハディスは窓の外に目をむけた。
空は曇りがちで、出掛けるのに最高の日、というわけにはいかないようだった。
目的地についた時には、すっかり夜になっていた。だが、怪しい声を調べるなら、旅人の証言と条件を合わせた方がいいだろう。そう考えれば、まあ悪くない。
魔術用の杖の先端に光を灯し、ハディスは自分の周囲をぐるりと照らし出した。
遺蹟は、もとは小さな集落だったらしい。箱のような形をした石作りの家が並んでいる。町の真ん中には、集会場らしい円形の建物が見えた。そしてそのどれもが枯れかけた草に覆われている。
「しかし、前時代の遺蹟ねえ。用がなければ入りたい所じゃねえな」
数百年前、人間は今とは比べ物にならないほどの魔法技術を持っていたという。そして、当時施された魔法が、しぶとく残っている可能性だってある。それこそ、屋根に飢えた旅人や人目を忍ぶ盗賊団でなければ踏み込みたいとは思わない。
誰からだったか、いつか聞いた話をハディスはうんざりと思い出した。
ある盗賊が前時代の遺蹟に入り込んだ。そして、財宝を見付け、入って来た門から出ようとした。瞬間、どこからともなく飛んできた火球に焼き尽くされた。泥棒よけのトラップが生きていたのだ。
「罠にはまって死にました、じゃお話にならねえよな、リンクス?」
使い魔に話し掛けると、黒猫は主人の足にすりよった。
「にしても、特に変わった物は見当らんが」
草に覆われた石畳、膝ほどの高さの給水柱に、割れた石の盆。そのどれもが、草に覆われている。
何気なく、砂岩でできた壁に手を付く。指先にザラリとした凹凸を感じる。見ると、壁にフォークで引っ掻いたような跡がついていた。
「何だ、これ? ひょっとして例の声の主の仕業か?」
ハディスがさらによく傷を調べようとした時。背後の暗闇で石畳に何かが擦れる音がした。ちょうど、長い爪を持つ獣が歩いているような。生暖かい息が背中にかかり、ハディスは体を強ばらせた。
恐る恐る、振り返る。暗闇の中に、ずんぐりとしたシルエットが浮かび上がっている。
「あのな、リンクス」
ハディスはボソリと呟いた。
「俺はこう見えても、名声なんてもんに興味ねえよ。ドラゴン倒して勇者の称号を得たいとも思わん。他人にちやほやされていい気になるのはバカの証拠だからな」
「はい」
「だがな、さすがにこれは無いだろう!」
大きな毛玉のような胴体に、細長い顔。ヒクヒクと動くヒゲ。意外と小さい耳に、長い尻尾。それは、ネズミだった。ただし、大きさはハディスがまたがれるほどだが。
「なんだよ巨大ネズミって! せめてグリフィンがベヒモスぐらい出て来いよ!」
「『ネズミ殺しのハディス』なんて二つ名なんてついた日には、バカにされてるとしか思いませんわね」
うんざりとした様子でリンクスが言った。
「よかったな、リンクス。うまく保存できれば三ヶ月はおやつに困らんぞ」
「喰えと言うのですか、これを? 絶対にイヤですわ!」
「じゃあ、なんかもう面倒だからロレンスに『ネズミしかいなかった』とでも報告しようか」
「間違ってはいませんが、正しくもないですわ。それにそんな事したら後で怖いですわよ。来ましたわ!」
チューというよりキシャーというかわいげのない声をあげ、巨大なネズミは板大のカミソリのような前歯でハディスにかじりかかった。
ハディスは真横に身をかわした。おかげで肉を削られはしなかったものの、太い胴がかすめた勢いでよろめいた。
「畜生! こんな家庭内害獣にやられてたまるか!」
杖の先端に灯っていた光がより白く色を変えた。ハディスは杖を横薙ぎに振る。
中空に描かれた光の弧は、消えずに刃となって中空を走った。軽いムチのような音をたて、ネズミの胴に血で赤い線が引かれる。
崩れ落ちるネズミに、ハディスはフンと鼻を鳴らす。
「ふん。皮はいで毛皮にしてやろうか」
ハディスが倒した敵に背をむけた時。
くぐもった呻き声とともに、灰色の毛玉が起き上がった。傷口からにじんだ血は、もうしたたるのをやめていた。
「馬鹿な! 致命傷だったはずだぞ!」
斬り付けられたのに怒ったのか、ネズミはハディスに突進してきた。
「ぬおっ!」
ハディスは体をひねってその攻撃をやり過ごした。その一瞬で傷が消えている事を見て取る。
目標を見失ったネズミはもろに壁に追突した。
「回復能力があるなんて、完全に魔法でいじくられてるじゃねえか!」
しかし、どうすればいいのだろうか。いっその事、回復が間に合わないように魔法で爆発でもさせればいいのだろうが、どんなにおきてやぶりの大きさでも、相手は生き物だ。あまり残酷なマネはしたくない。それに、魔法で回復能力が与えられているなら、木っ端微塵になった肉片が寄り集まって復活する、という一目みたら三日は肉が食べられない光景を目撃するハメになるかも知れない。
「仕方ない。しばらく眠ってもらおうか!」
ロッドの先端に、青白い雷が無数に現われる。まるで荒い綿飴のようだった。
頭をふり、意識をはっきりさせようとしているネズミのこめかみに、ハディスはロッドの先端を突き立てた。
電撃にさらされ、ネズミの毛が逆立つ。痙攣をして、ネズミはくずおれた。
「どうせすぐに回復するだろうからな。すぐここを離れよう」
ハディスはネズミの毛をぶちっとむしり取った。
「どうなさるんですか? ハディス様」
「どうするもこうするも、このいたずらのしかけを解くしかないだろう。そしてこのネズミをけしかけた奴に三指ついて謝ってもらおうか」
ふと、頬に冷たい物を感じ、ハディスは腕を伸ばす。手の中に、雨粒が落ちた。
「雨か。ついてないな。急ごうぜリンクス」
ハディスがとりあえずの拠点に選んだのは遺蹟の奥にある家だった。その大きさから、もとはかなり金持ちの物だったのだろう。長い年月で屋根は半分欠け落ちていたが、奥にいれば風はともかく雨は防げる。
まだしぶとく明かりの魔法は生きているらしく、ハディスが入ると部屋の隅にあった燭台に火が点った。
「さてと」
タイルの間から草の生える床にハディスは腰をおろした。パラパラと床にネズミの毛を散らす。そして、それに手をかざし、息を整えた。
毛の束と、ハディスの手の間に、緑色の光の球が現われる。ハディスは指の先でその光をつまんで一気に引っ張った。まるで編んだ毛糸をほどくように珠はほどけていく。よく見ると、その帯は半透明の文字の連なりで出来ている。一つ一つに物質を変化させるほどの力と意味が込められた文字の列。これは、このネズミにかけられた魔術の術式だった。
「ふうん、なるほど。ある程度魔術の基礎は知ってる奴の仕業か」
巻き物のように帯を広げ、ハディスはその光の文字を読んでいく。
「なんだ、これは。生物兵器でも造ろうとしてたのか」
のぞきこんできたリンクスに、問題の場所を指差した。
「ここで、細胞を活性化させる命令を入れたのはいいが、故意かミスか、どこまでやるという歯止めの命令がない。その結果があの大きさだ。細胞を変化させりゃ当然体に負担がかかるが、それを緩和する術式も抜けてる。これじゃあちこち激痛に襲われてるだろうよ。そりゃイラついて強暴化するってもんだ」
「なるほど。だから臆病なはずのネズミがあんな積極的に襲いかかってきてきましたのね。なんだか、かわいそうになってきましたわ」
「というわけで、なんとかしないとな」
ハディスが手を振ると、光の文字は消え去った。
懐から水筒代わりのビンと、携帯用の小さな皿を取り出す。水を皿に空け、その辺りに転がっていた小さな枝を手に取った。枝の先端が、淡い緑色の光を宿す。水面に触れるか触れないかの高さで、ハディスは尾を引く光で魔力を持つ文字を書き付けた。
しばらく浮かんでいた文字は、氷のように溶け失せる。透明な液体がエメラルドの輝きへと色を変えた。
「あんな大きなネズミにタッチなんてやってられないからな。この解呪薬をかければ普通のネズミに戻るぜ」
キシャアという音が風に乗り聞こえてきた。
「お、お目覚めだな」
「仕方ないですわねえ。行きますか」
リンクスがやれやれ、とノビをした。
数分後、大通りの真ん中にリンクスはポツンと座っていた。
「ううう、私がオトリだなんて。恨みますわ、ハディス様」
主人に聞こえるようにわざと大きく呟く。
「仕方ないだろ、この方法しか思いつかんのだから」
ハディスは、大通りに沿って並ぶ建物の一つにいた。ちょうどネズミの体高より少し高い二階に陣取っている。大きく開いた窓から、リンクスの背中と肩越しにこっちを見つめる恨めしげな目が見える。
「もしこれでネズミに食い殺されたら、一族の恥ですわ」
「大丈夫だって。ほら、来たぞ!」
建物の影から、ヌッと黒い毛並みが現われた。
今までネコに殺された全てのネズミの仇を取ろうとでもいうように、巨大ネズミはリンクスに突進した。
タイミングを見計らって、ハディスは窓からビンを放り投げた。ちょうどネズミの真上に来た瞬間、光の刃を放つ。
ちょっとした爆発音とともに、ビンが砕け散った。空を見上げたネズミの顔に、緑色の光が雨とともに降り掛かった。
「ヂュ~!」
ネズミはパニックを起こした馬のように後ろ足で立って前脚をバタつかせる。風船の口を解いたように、体が見る見る縮み、普通のサイズまで戻る。
「シャー!」
どうやら、凶暴性もなくなったようで、リンクスが威嚇(いかく)をするとどこかへと逃げていった。
「とりあえず、化物は退治したな。まだ仕事は残っているが」
ハディスは、町並みを眺めた。円形の劇場、壁のあちこちが壊れた町並み。この中に、きっと手がかりがあるだろう。
「一体誰がこんなふざけた事をしたのか、突き止めないとな」
ふざけた事をした誰かは、意外と早く突き止められた。数百年も前の遺蹟の中で、一部屋だけ現在の家具が持ち込まれている場所で。
「なるほどね。こういうわけか」
獣に食われ、ほとんど白骨化した人間の死体が床に転がっていた。骨の形と大きさから大人の男の物。そしてその前には実験器具が転がっている。
部屋の隅に置かれたベッドの上にも白骨死体。床に倒れている物よりうんと背が低く、枕に長い金髪を何本か遺していた。
ざあざあという雨の音が、部屋を包み込んでいる。とうとう、本格的に振り出してきたようだ。どこからか入り込んできた細い水の流れが、部屋の隅で小さな水溜まりを作っていた。
「別に生物兵器を作ろうとしていたわけではなさそうだな」
ホコリの積もりかけた机に歩み寄る。
そこには、紙がうず高い山を作っていた。術式の書かれた物、魔法陣の描かれた物、そしてまるで狂気に取り憑かれたような文字で書き付けられた心情。
「ベッドの娘は、不治の病に犯されていたんだ」
「それで、この魔術師は娘を治す術を作ろうとしていましたのね」
「だが、間に合わなかったという事か」
『なぜ私の娘が?』『返って来てくれ』『死神』『必ず』。乱れた文字が紙を埋めている。
「しつこく死んだ娘を蘇らせる術まで創り出そうとしていたようだが、結局できたのは、中途半端な回復能力を持つネズミだけってわけだ」
これで、ネズミが異様な力を備えている理由が分かった。
「失意で自殺したのか、ネズミに喰い殺されたのか分からんが…… なんて愚かな。死者を蘇らせる術がちょいと研究したぐらいでできるモノなら、とっくに誰か作り出しているさ。でもまあ、気持ちは分からんでもない。嗤わないでおいてやる」
メモをめくりながら、ハディスはリンクスに聞いた。
「もしこのまま、ロレンスに報告したらこの死体はどうなる?」
「そりゃあ、人を生き返らせるなんて、神に背く魔術を創ろうとしたんですから、父親の方は罪人の墓地に葬られるでしょうねえ。墓標には罪状を刻まれて。女の子はただの病死ですからきちんと葬ってもらえるでしょうが」
「娘とは別々か」
ハディスは懐から硬貨を二枚取り出した。それぞれの死者の胸に乗せる。死出の旅に使う金を持たせるのはこの辺りの風習だ。
「さすがに埋葬するのは手間だな」
メモを何枚か手に持ったまま、ハディスは呪文を唱えた。メモは青白い炎に包まれる。ハディスが手を放すと、メモは自分を包む炎の熱でふわりと浮き上がった。まるで数匹の蝶のように。群れから別れた二匹の炎が、親子の足に留まる。
「ま、遺った体がどうなろうと、当人達は何とも思っていないかもしれないがな」
魔性の火は骨すら残さず遺体を飲み込んでいく。炎は机の上まで走り、誤った実験結果を消していく。これで中途半端な知識が悪用されることは無いだろう。
炎をまとった紙が一枚、また一枚と舞い上がり、影を生き物のように揺らめかせる。熱い炎の中で、ガラス器具が涼し気な音を立てて割れていく。
「さあ、帰ろうぜリンクス」
炎が消えるのを待たず、ハディスは廊下へと出て行った。
外に出ると、雨はかなり激しさを増していた。
「ううむ、帰るとは言った物の、こんな雨の夜に歩いて村まで行きたかないなあ。しかたない。この遺跡で野宿するか。さすがに、火のついた建物で寝たくねえから、どこか他の場所ねえかな」
少し歩いただけで全身ずぶ濡れになってしまい、いまさら急いで建物の中に飛び込む気はしない。落ちた屋根ばかりの街並みで、少しでも居心地のいい場所はないかとハディスは歩みを進めた。
「そういえば、ハディス様」
リンクスが主人の後について歩きながら言う。
「あのネズミ、メスでした? オスでした?」
「さあ? どうでもいいだろ、そんな事」
「いや、もしも子供でもいたら大変な事になると思いまして」
「はっはっは、まさかそんな事……」
視線を感じ、ハディスは足を止めた。
かさこそと、小さな音があちこちから聞こえてくる。欠けた壁の穴の中、壁に施された彫刻の出っ張りの上。無数輝く、小さな目。
「まさか……」
木がきしるような鳴き声をあげ、子犬ほどの大きさのネズミが一匹飛び出して来た。悲鳴をあげて逃げ出すハディスを、他のネズミ達がぞろぞろと追って来る。
「ほら見ろ、手前が変な事言うから!」
「私のせいだとおっしゃるのですか?! それにしても「さすがはネズミ! 繁殖力半端ないですわ」
「感心してる場合か! あだだだだ!」
背中にかじりついた一匹を払い除けた時、一際大きな影が、建物の角からヌッと現われた。
「さっきのデカネズミの相方か!」
地響きすら立てて、規格外の生き物達はハディスを追い掛けはじめた。
バシャバシャと水溜まりを蹴立てるハディスの目に、円形劇場が飛び込んできた。長い年月でほとんど戸が崩れ落ちている建物が多いなか、幸いそこには仮面の彫刻が施された石の扉が残っていた。それに人が集まる所ならば頑丈に出来ているかも知れない。
中に飛び込み、全身の力を使って重い扉を閉める。その瞬間、ネズミの体当たりする音がドドドッと響いた。
数百年ぶりに訪れた客に反応して、所々据えられた照明灯に明かりが灯る。その光に照らされ、完全に抜け落ちた屋根から降り注ぐ雨が、無数の針のように輝く。
照らし出された観客席はツタと苔に覆われ、手入れをされていない墓石めいて見えた。客席に取り囲まれ、球技ができそうなほど広いむきだしの地面が円く広がっている。その中央には大きな平たい石が一枚おかれ舞台となっていた。その石を挟むように二対の女神像が置かれ、火の消えたランタンをかかげていた。
ハディスは壁に手をついて、切れた息を整えた。濡れて額に貼りつく髪をかきあげる。
そっと背中の傷にさわるが、幸い浅いようだ。
「やれやれ。変な病気にならないだろうな。まあいいさ。どうするかゆっくり考えよう。まさかあいつらだって石の扉を食い破ったりはするまい。そんな事ができるなら、あの親子は骨まで残さずいただかれてるだろうからな」
ハディスは周りを見回した。
「屋根は登るには高すぎる。それに窓もない。ハン、どこからも入る事はできま……」
シャグシャグシャグ。焦げてやたら固くなったクッキーをかじるような音が雨音に混じる。何やら扉の下の土がもこもこと動いている。
「なるほど。雨でゆるんだ地面掘るなんて。その手があったか。石畳、剥がれてる場所があったのか」
「頭でネズミに負けてますわハディス様!」
たぶん、無数のネズミに骨だけ残して喰われる所を想像してしまったのだろう。リンクスは毛を逆立ててブルッと身を震わせた。
「ち、仕方ない。破壊魔法でいったんブッ飛ばすしかねえか!」
ハディスは小さく呪文を唱えた。
呼び出された闇の力が、杖の柄に絡みついた。膨張しようとする力を、ハディスは無理に押さえつけ、圧縮する。狙うのは、扉の下辺り。群れ全体を吹き飛ばす爆発を引き起こそうと、頭の中に、爆音と、振動をイメージする。極限まで圧縮された魔力は――いきなりフッと四散した。
「へっ?」
「あ~!」
リンクスが、前足で壁を指していた。壁に魔術文字が彫りこまれている。この建物内での破壊魔法を封じる術式だった。
「ああ……」
妙に納得してしまい、魔術師と使い魔は小さく声をあげた。劇場と言っても、演劇だけでなく血生臭い試合のような事が行われていたとしても不思議はない。興奮した観客の中に破壊魔法が使える奴がいたとしても不思議ではない。
土を削る音が少しずつ大きくなっていく。
「骨格標本になるのはいやあああ!」
「うるさいぞリンクス! 封じられるのは破壊魔法だけだ」
ハディスは唇の端を吊り上げた。
「だとしたら、さほど問題じゃないさ」
ハディスは、一つの女神像の隣に立っていた。扉の下から、奇声を発しながら黒い波が押し寄せてくる。劇場の明かりに照らされて毛皮が黒銀色に輝き、美しいと言えなくもなかった。地面を覆うほどのネズミの群れが劇場に入り込んだ瞬間、ハディスは女神像に手を触れた。
女神像が掲げるランタンに、光が灯った。上をむくよう角度を調節されたランタンには、びっしりと解呪の術式書きこまれていた。緑色の文字が、夜空に投げかけられる。降り注ぐ雨が、その文字をすり抜け、エメラルド色の輝きを帯びて降り注ぐ。
「ヂュゥゥゥ!」
雨を浴びたネズミは普通の大きさのネズミに変わっていく。凶暴さもなくなったようで、縮んだ物から物陰へと消えて行った。
「ふん、今度は毒団子でもばら撒いてやろうか」
最後の一匹が逃げ失せたところで、ハディスはフンと鼻を鳴らした。
「まさか、空に術式を書き移して雨を解呪薬にするとは」
数日たって、再びハディスの部屋に訪れたロレンスの口調には、少し呆れたような含みがあった。
「相変わらず無茶するというかなんというか。まあ、とりあえず原因が分かったので、人を使わせて他に変化させられたネズミがいないかどうか調べる事ができました。もう他に危険な物はないようですね」
「まったく、インドア派の俺が雨の中駆けずりまわるハメになるとは思わなかったよ!」
くすくすとロレンスは笑うと、懐から何かを取り出し、ハディスに放り投げてきた。キャッチすると、それは銀貨だった。
「報酬はマイナスが減るだけ、じゃなかったのか?」
「埋葬代です。私には出来ない事をやってくれたので」
確かに、あのままハディスが何もしなかったら、立場上ロレンスは二人をバラバラの墓に葬るよう指示をするしかなかっただろう。そしてそれは彼の望む所ではなかったらしい。
「ふん」
ハディスは銀貨を空中にはじくと、器用にキャッチしてみせた。
――『黒衣の魔術師』了――
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