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帰還
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森の中にある占司殿は、いつでも木と香(こう)の匂いがする。都の雑踏もここまで届かず、鳥の鳴き声と、梢の揺れる音で満ちていた。玉砂利を敷き詰められた中庭には、きれいに掃き清められ、落葉一つない。
朱は頭を悩ませながら中庭を囲む廊下を歩いていた。おともの魁がおとなしく後に控えていた。
あれから、戻ってきた巫女達が次々と異変を訴えてくる。曰(いわ)く、荒ぶる神が多くなった。曰く、転じていない神の気も乱れている。明らかに、何かが起こっているのだ。だが、その何かが分からない。
都に残っていた巫女達の協力で、都の結界は一応完成した。占司殿を覆う清浄な気を術で留める。これで転じた神が都に侵入してくるのを防ぐ事ができるだろう。
しかし、それとて万能ではない。要である占司殿が汚されたら結界は効力を失う。それに原因をつきとめ対処しない限り、神の転じはおさまらず、荒ぶる神が増え続ける事になる。問題は山積みだ。
そのとき、戸のきしむような甲高い声を聞いて、朱は我に返った。人間の声ではない。もちろん隣を歩いている魁のものでもない。
「なんだ、ネズミかや」
廊下のすみで、小さな尻尾がうごめいていた。拳大のネズミが、黒いトリモチのようなものに捕まっている。朱でさえ見過ごしてしまいそうなほど微かな神気が、その泥のようなものから出ていた。その正体を知っている朱は思わず声をあげる。
「馬鹿な! ヒルコが出るなんて。ここは占司殿じゃぞ」
ヒルコとは、まだ核を得ず、神に成り切れていない力の塊だ。神の素と言ってもいい。普通なら、人のいない自然の気に満ちたところ、森の奥深くや海の底でひっそりと生じる。それが人里に、しかも占司殿にあるなど、異常だった。しかも、黒い物が。黒いヒルコが司るのは、滅び、飢え、腐敗。
ヒルコがゆらりと波打った。ネズミを完全に包み込む。小さな袋に入れられたように、ネズミはもがく。その動きもみるみる微かになっていく。
「えい!」
朱は印を結んだ。
銀色の火花がネズミを覆った。小さな爆発に巻き込まれたように、ヒルコは四散し、飛び散る。ようやく解放されたネズミは、悲惨な姿となっていた。毛並みは荒れ、所々肌と骨が見えている。負の力に触れた生き物は、強い酸をかけられたように朽ちていった。
「間に合わなかったか。しかたない、魁。どこか土に埋めてきやれ」
魁は床に落ちた亡骸を拾うと、すばらしい速さで廊下の角を曲がっていった。その姿を見送りながら、朱はさらに憂欝な気持ちになった。あんな小さなヒルコが、結界を通れるわけはない。とすれば、この占司殿の内部で生まれたのだ。もうすでに、ここは汚れ始めているらしい。
「きゃっ」
角のむこうに人がいたのか、突然現われた白い犬に悲鳴があがった。その声に聞き覚えがあって、朱は走りだした。
「その声、鹿子か!」
「朱様!」
鹿子は、小走りで駆け寄って来た朱に気がつき、ほっとしたような笑みを浮かべた。
朱は思わず鹿子に抱きついた。鹿子のほうが年上の姿をしているのに、何だかやっと見つかった迷子を抱き締める母親の気分だ。
「鹿子、無事でよかった。従者達は元気か」
「はい、淘汰も殺嘉も元気です。あ、すみません朱様、腕緩めてください。脇腹が少し痛いです」
「まったく、心配したのじゃぞ。でもよかった、神を殺したのはお前ではあるまい? あまりにもお主は変わっていない。優しそうな目もそのままじゃ」
「ありがとうございます」
じわりと鹿子の目に涙が浮かんだ。
安心させるように鹿子の背を撫でていた朱は、手の辺りに冷え冷えとした物を感じ、鹿子の腹に押しつけていた顔を離した。
「鹿子、御主呪いをかけられたな」
巫女の長の顔で鹿子の顔を見上げる。
いたずらを見咎められた子供のように鹿子は体をこわばらせる。
朱は鹿子の腕を上げさせ、わき腹に触れる。
鹿子は痛そうに顔をしかめた。
「図星のようだな。符で押さえているのか。かわいそうに、痛みは符で誤魔化せても、体から力が抜けるようであろ。本当なら立っているだけでもやっとだろうに、この体で荒ぶる神を狩りながら都へきたのか」
鹿子はうなずき、柚木が神を斬り、鹿子の命も狙ってきたことを話した。そのとき呪いをかけられたこと、燐音や禍刺、そして柚木の元従者、詩虞羅にあったこと。
「そうか、薙覇が…… 薙覇の事ならよく覚えている。外法を使い、よく柚木に仕えていた。おそらく、あ奴は柚木に惚れていたのだろう。鹿子。その薙覇はどこにいる」
「え? ええ。殺嘉達と一緒にいるはずですが」
「鹿子。薙覇から目を離すなよ」
「え、ええ。でも、あの方は悪い人には思えませんが」
「悪い者ではないからといって、害がないとは言えん。優しさが事態を悪化させる事もある。柚木が付け入るとしたら、あの者以外ない」
朱は頭を悩ませながら中庭を囲む廊下を歩いていた。おともの魁がおとなしく後に控えていた。
あれから、戻ってきた巫女達が次々と異変を訴えてくる。曰(いわ)く、荒ぶる神が多くなった。曰く、転じていない神の気も乱れている。明らかに、何かが起こっているのだ。だが、その何かが分からない。
都に残っていた巫女達の協力で、都の結界は一応完成した。占司殿を覆う清浄な気を術で留める。これで転じた神が都に侵入してくるのを防ぐ事ができるだろう。
しかし、それとて万能ではない。要である占司殿が汚されたら結界は効力を失う。それに原因をつきとめ対処しない限り、神の転じはおさまらず、荒ぶる神が増え続ける事になる。問題は山積みだ。
そのとき、戸のきしむような甲高い声を聞いて、朱は我に返った。人間の声ではない。もちろん隣を歩いている魁のものでもない。
「なんだ、ネズミかや」
廊下のすみで、小さな尻尾がうごめいていた。拳大のネズミが、黒いトリモチのようなものに捕まっている。朱でさえ見過ごしてしまいそうなほど微かな神気が、その泥のようなものから出ていた。その正体を知っている朱は思わず声をあげる。
「馬鹿な! ヒルコが出るなんて。ここは占司殿じゃぞ」
ヒルコとは、まだ核を得ず、神に成り切れていない力の塊だ。神の素と言ってもいい。普通なら、人のいない自然の気に満ちたところ、森の奥深くや海の底でひっそりと生じる。それが人里に、しかも占司殿にあるなど、異常だった。しかも、黒い物が。黒いヒルコが司るのは、滅び、飢え、腐敗。
ヒルコがゆらりと波打った。ネズミを完全に包み込む。小さな袋に入れられたように、ネズミはもがく。その動きもみるみる微かになっていく。
「えい!」
朱は印を結んだ。
銀色の火花がネズミを覆った。小さな爆発に巻き込まれたように、ヒルコは四散し、飛び散る。ようやく解放されたネズミは、悲惨な姿となっていた。毛並みは荒れ、所々肌と骨が見えている。負の力に触れた生き物は、強い酸をかけられたように朽ちていった。
「間に合わなかったか。しかたない、魁。どこか土に埋めてきやれ」
魁は床に落ちた亡骸を拾うと、すばらしい速さで廊下の角を曲がっていった。その姿を見送りながら、朱はさらに憂欝な気持ちになった。あんな小さなヒルコが、結界を通れるわけはない。とすれば、この占司殿の内部で生まれたのだ。もうすでに、ここは汚れ始めているらしい。
「きゃっ」
角のむこうに人がいたのか、突然現われた白い犬に悲鳴があがった。その声に聞き覚えがあって、朱は走りだした。
「その声、鹿子か!」
「朱様!」
鹿子は、小走りで駆け寄って来た朱に気がつき、ほっとしたような笑みを浮かべた。
朱は思わず鹿子に抱きついた。鹿子のほうが年上の姿をしているのに、何だかやっと見つかった迷子を抱き締める母親の気分だ。
「鹿子、無事でよかった。従者達は元気か」
「はい、淘汰も殺嘉も元気です。あ、すみません朱様、腕緩めてください。脇腹が少し痛いです」
「まったく、心配したのじゃぞ。でもよかった、神を殺したのはお前ではあるまい? あまりにもお主は変わっていない。優しそうな目もそのままじゃ」
「ありがとうございます」
じわりと鹿子の目に涙が浮かんだ。
安心させるように鹿子の背を撫でていた朱は、手の辺りに冷え冷えとした物を感じ、鹿子の腹に押しつけていた顔を離した。
「鹿子、御主呪いをかけられたな」
巫女の長の顔で鹿子の顔を見上げる。
いたずらを見咎められた子供のように鹿子は体をこわばらせる。
朱は鹿子の腕を上げさせ、わき腹に触れる。
鹿子は痛そうに顔をしかめた。
「図星のようだな。符で押さえているのか。かわいそうに、痛みは符で誤魔化せても、体から力が抜けるようであろ。本当なら立っているだけでもやっとだろうに、この体で荒ぶる神を狩りながら都へきたのか」
鹿子はうなずき、柚木が神を斬り、鹿子の命も狙ってきたことを話した。そのとき呪いをかけられたこと、燐音や禍刺、そして柚木の元従者、詩虞羅にあったこと。
「そうか、薙覇が…… 薙覇の事ならよく覚えている。外法を使い、よく柚木に仕えていた。おそらく、あ奴は柚木に惚れていたのだろう。鹿子。その薙覇はどこにいる」
「え? ええ。殺嘉達と一緒にいるはずですが」
「鹿子。薙覇から目を離すなよ」
「え、ええ。でも、あの方は悪い人には思えませんが」
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