戦勝祭の夜に

三塚 章

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戦勝祭の夜に

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 窓の形に切り取られた陽射が床に降りそそいでいた。部屋の隅に置かれたカゴの中で、一匹の黒猫が寝息を立てている。
 時計台の鐘の音が、閉められた窓を擦り抜けて部屋の中に入り込んできた。猫の薄い耳がピクリと動く。猫は起き上がると体を伸ばし、人の言葉で呟いた。
「あーあ、よく寝ましたわ」
 もちろん、ただの猫がしゃべるはずはない。猫とよく似た妖精ケット・シー。それがこの生き物の正体だった。
「ハディス様。時間ですわ。起きてくださいな」
 返事の代わりか、ベッドで眠っている少年がうめく。琥珀色の髪を持つこの少年が、リンクスの主人だった。
 前脚で肩を揺さ振っているのに一向に起きようとしない主人に、使い魔はしばし考え込む。そしておもむろにハディスの胸の上に飛び乗り、ソファの上でするように丸くなる。
「う、どけリンクス! 重いわバカたれ!」
 リンクスはハディスが跳ね起きた勢いでベッドから転がり落ちる。しかし床に着く前に体勢を立直し、そのままひらりと着地した。
「おはようございます、ハディス様。といっても、今は昼の十二時ですけど」
「起こしてくれるのはありがたいが……あの起こし方だけは何とかならんのか」
「だって、普通に起こすには体重が足りないんですわ」
 ハディスは髪を適当に手櫛で整えながら、枕もとの置き時計に手を伸ばす。仕事の依頼料代わりに客からもらった時計は、やたら豪勢な装飾のついた針をせっせと動かしている。
「ん。まだ十二時三分前だぞ」
「え? だってさっき鐘の音が……」
「ち、また狂ったな、あの大時計。あんな古いの取り壊しちまえ」
「いいじゃありませんか。あの手の時計は、三分じゃ狂ったうちに入りませんわよ」
「ばかもの! この寒い冬、ベッドの中の三分間は貴重だぞ」
 ハディスはブツブツ言いながら時計を置くと、今度は机の上のビンを手に取った。
 普段、好きなだけ惰眠(だみん)を貪(むさぼ)るハディスが、わざわざリンクスに起こしてもらったのは、一重(ひとえ)にこの瓶の中身を観察するためだった。
「中身の様子は、いたって順調ですわ」
 リンクスの報告に、ハディスは「そのようだな」と満足気に応えた。
「ハディス様、そこまで育てばほっといても大丈夫ですわよ。ですから戦勝祭(せんしょうさい)に……」
 ノックの音で、リンクスは慌てて口を閉ざす。ハディスも素早く瓶を机に戻し、その上に布を被せた。
「めったに客なんか来ないのに、なんでよりにもよって今日に限って」
 ハディスは舌打ちすると玄関の扉を開けた。
「なんだ、お前か」
「なんだとは酷いですね、ハディス」
「その匂い……ロレンス様ですわね」
 リンクスがてててっと玄関に走り寄る。
 ドアのむこうに立っていたのは、ハディスよりも少し年上の青年だった。下層の修道服の、目元まで覆うフードを取ると白銀色の髪がこぼれた。紫の目が優しく弧を描く。
「久しぶりですね。元気にしていましたか、ハディス。リンクスも」
 リンクスはロレンスの足元に頭をこすりつけてごろごろ言っている。
「で、何の用だよロレンス」
 ハディスは部屋の奥に戻りイスに腰掛ける。
「それよりも……その机の上にあるのはなんですか?」
 部屋にあがりながら、ロレンスは言った。ハディスが舌打ちをする。
「相変わらず聡(さと)いねお前は。ちゃんと隠したつもりだったんだが」
 昔から、こいつに隠し事ができた試しがない。ハディスは苦笑し、観念して布を取る。
 瓶の中空に、半透明の球体が浮いていた。乳白色の淡い光をそのまま凝縮したような球には、かたまりかけた血のように赤黒い核があった。全体が、鼓動のように規則正しく明滅している。
「これは……人工生命体」
 ロレンスが軽く目を見開いた。
「すごいだろ。有機物を一切使わないで、純粋に俺の魔力と術式だけで造り出した疑似生命体。もっとも、意志も力もない。こうやってぴかぴか光だけしか能がない奴だがな」
「こんな物を造るなんて。ばれたら極刑ですよ」
 人工的に命を造るなど、神を冒涜(ぼうとく)どころか完全に否定した行為だ。
 ハディスは瓶のふちを指で弾いた。
「平気さ。こんな不安定な生き物、一週間かそこらで消えちまうよ。そうそう、こいつの名はブレスレス。いい名だろ」
「祝福無き者、ですか」
 確かに、この世に生み出されても両親もなく、神からも祝福を受けない生命体に、これ以上ふさわしい名はないだろう。命名者を褒める気にはとてもなれないけれど。
「で、こいつの事は置いといて。ま~たお忍びで遊びにきたのか?」
 こう見えてもロレンスはハルズクロイツ教会の第二位、枢機卿の地位に着いているのだ。次期法王は、ロレンスを含め七人いる枢機卿の中から選ばれる。ロレンスはひょっとしたら、未来の法王になるかも知れない人物だ。それなのに、気軽に街へ遊びに出るのはどうした物かとハディスは渋い顔をした。
「実は、少し問題が起きまして。『賛美歌』が盗まれました」
「はあ?」
「失礼。説明が足りなかったようですね」
 小さく咳払いをして、ロレンスは続ける。
「ハディス。昔、魔界との狭間に穴が開いたのは知っているでしょう。そこから人ならぬ者達があふれ出た事も」
「ああ、それがどうかしたか?」
「その時に対魔族用に多くの武器が造られたのも、知っていますよね」
 人間よりも身体能力に優れている魔族の群れを完全に殲滅(せんめつ)するために古代人が造った武器の数々。魔族討伐(とうばつ)以後、その威力を恐れた人間は、その武器に禁じられし道具――フォビドゥンツール――の名をつけてハルズクロイツに封印した。その後に起きた人間同士の戦争でも、その封印は解かれることはなかった。
「知ってると言うか一般常識だろ。今更歴史のおさらいは必要ないぞ」
「まあ、そう言わずに。『賛美歌』はその武器の一つです。といっても、一枚の楽譜なのですが。力を持った言葉を、特殊な旋律に乗せる事で、魔力を持たない者にも魔法と同じ破壊の力を造り出せるのです」
「なるほど。呪歌の一種か。まずいな」
 爆発や業火を起こす破壊魔法は、術者の魔力を糧に、異界にたゆたっている破壊の力を呼び出し、具現化した物だ。そのため具現化させる時点で術者の技量や手加減等がからみ、威力はある程度変化するし、異界に干渉するために必要な魔力を持たない者は魔法が使えない。
 しかい、呪歌魔法は歌そのものに必要な魔力その他が、力ある言葉や意味ある旋律にすべて含まれている。歌い切った瞬間、それらは具現化し、効力を発揮する。しかも、素手に記された物を再生するだけだから、手加減は一切できない。
「盗まれたのはその道具の一つです。幸い、その中でも力の小さな物ですが。使われても街が半壊するだけです。
「十分おおごとだと思いますわ」
 言葉の割にさして興味はないのか、リンクスは前足で耳をこすった。
「そう言えば、あれって確か管理してんの枢機卿だろ? それって管理不行届きって事で七人全員責任とらされないか?」
「ええ、まあ。運が悪ければ……」
 ロレンスは自分の首を手刀で叩いて見せた。
「ギロチンか……」
「さすがに七人全員処刑なんて事になったら教会が成り立たなくなりますから、そこまではいかないでしょうけど。とにかく、何にしても一刻も早く盗まれた物を取り返さないと」
「うーん、追い詰められとるな。でもお前、万が一処刑なんて事になったらどうするんだ?」
「そうですね。そうなったらあの女性(ひと)を連れて逃げますか。逃げ切る自信はありますし。そして、どこか遠くの地で二人っきりでつましく暮らして。あ、結構いいかも……」
「リンクス、こないだ創った毒、こいつに試してみるか」
「冗談ですよ、冗談」
 ロレンスは手を振ってごまかす。
「そんで? 犯人は見当ついているのか?」
「グリンノヴァの民で名はオンツ。そこまでは分かったのですが、完全に姿を消されてしまいました。その他には今の所特に動きはないですね」
「馬鹿な奴。せっかくフォビドゥンツールを手に入れたならもっと有効に使えよ。小国を脅してうまいこと乗っ取るんでもいいし、戦争起こして……」
 ハディスの犯罪計画シュミレーションは枢機卿の剣呑な視線に中断させられた。
「とにかく。あなたはオンツとフォビドゥンツールを探して欲しいんですよ。確か魔術で物や人を探すのがあったと思うのですが」
「確かにあるが……何か片割れみたいなのが無いとダメだぞ。人なら髪の毛や爪、物だったらその欠けらとか」
 分かたれた物には、一つに戻ろうとする力が働く。それを魔術で増幅するのが捜し物を見つける魔法の理屈だ。
「これではどうですか?」
 ロレンスは手が切れそうなほど薄い紙を取り出した。中央に、注意しないと見えないほどの薄墨で何やら魔法陣が描かれている。
「なんだこりゃ。羊皮紙じゃないようだが」
「フレアリングの方で作られている、植物の繊維を使って作った紙ですよ。めずらしいでしょう?」
 ロレンスは、これが『賛美歌』の封印になっていると告げた。盗まれた楽譜は一見白紙にしか見えず、この紙を重ねる事で初めて内容が浮かび上がり、譜面を読み取る事ができるという。
「つまり、これがある限りとりあえずは安心なんだな」
「そういう事ですね。それにこれは楽譜と対の物ですから、検索にも役に立つでしょう。
「まあ、やってできない事はないだろうが、教会から人を出して探させた方が早いんじゃないか」
「一応人は出していますが、そう大っぴらにはできないのが現状です。フォビドゥンツールが外に出たと知れたら大混乱が起きるでしょう。とにかく危険な物だというイメージが選考していますから。使えないから大丈夫、と言っても信じる人はいないでしょう」
「まったく、手間のかかる……」
 ぶつぶつと文句を言いながら、ハディスは魔術を行なう準備を始めた。

 水晶の柱の中をくり抜いたような、先の尖った六角柱の入れ物に、筒状にまるめた紙を入れる。そしてテーブルの上に地図を広げると、その横にスタンドを置く。そこに先端を下にむけた水晶の柱をぶら下げれば準備完了だ。
 ハディスの呪文に応え、ふらふらと水晶柱が揺れる。そして普通ならありえない角度で揺れが止まり、地図の一点を指し示す。
「あとは縮尺を変えて行けばかなりの所まで絞れるぞ」
 ハディスが術を続けた結果、『賛美歌』を盗んだ犯人はまだハルズクロイツから出ていない事がわかった。
「さすがに隠れ家までは見つけ出せなかったな」
 家を出て、石畳の道を歩きながらハディスは言った。
「どうせ街を歩くなら、もっとのんびり歩きたかったですわ」
「どうしたんですかリンクス」
 リンクスの小さな呟きをロレンスは聞き逃さなかった。
「ああ、今日、戦勝祭だろ? こいつ、行けなくなってスネてるんだ。この瓶の中身を世話しないといけないから」
 そう言って、ハディスは人工生命の瓶を隠した懐を指で叩いた。
「何日か前から、『なんであんな手間のかかる物を創ったんだ』って文句言ってた」
 戦勝祭とは、魔族を駆逐(くちく)し異界の扉を閉ざした事を記念する祭りだ。通りの外灯や店の看板はリボンで飾り付けられ、ハルズクロイツの街は音楽と笑い声で満ちている。肉を焼くいい匂いがする食堂の前には、夜の本格的な賑わいにむけ、予備のテーブルが積み上げられている。
「でも、こうして瓶が持ち歩けるなら連れて行ってあげればいいのに」
「この瓶の中身は弱いですから。いつ消えるか分からないんですわ。持ち歩いていて、いつの間にか消えてたなんて事になったらイヤですし。なるべく、非常時でない時は動かしたくないんですわ」
 ロレンスの肩に飛び乗り、他ならぬリンクスが小声でハディスの弁護をした。
「部屋に置いて行ってもいいんだろうが、もし誰かに見つかったら事だしな。第一、これからどういう変化が起きるか観察したいし」
「祭りに行けなくて残念ですね、リンクス。でも、勝戦祭が終わる十二時に、たった一つだけ、世界のどこかで奇跡が起こると言われています。お祭りに行けなくても行いをよくしていれば、何かいい事があるかも知れませんよ」
「まさか」
 ハディスが軽く笑った時、一際冷たい風が吹いた。
「ハ、ハディス様!」
 リンクスが叫ぶ。
「バカ、そんな大声でしゃべるな。普通の猫じゃないって事がバレる」
 慌てて声のトーンを下げ、リンクスが続けた。
「恐ろしいほど、大きな魔力を感じます。鳥肌たってきましたわ」
「ええ、私も感じますよ」
 ロレンスが静かに言った。
 何かの術式を使っているのだろうか、その魔力は巧妙に隠されていた。現に、街にいる魔術師も気づいている者はいないだろう。しかし術に長けた二人と一匹には感じ取ることができた。
「これは人間が持てる魔力じゃねえ。間違いない。この辺に禁じられた道具がある」
「こっちですわ」
 リンクスが走り出した。
「いた…… アイツですわ」
 リンクスが視線で指したのは長身の男だった。短く切った黒い髪に、白い肌。前にロレンスが言った通り、髪の色からグリンノヴァの民だろう。
「リンクス。奴の居場所と状況だけ調べて一端戻って来い」
 主人の言葉にそれとわかる程度にうなずき、リンクスは男の後を追った。
「居場所がわかったら、夜を待って盗み出す」
「夜ですか。かなり時間がありますね」
「何か企んでるな、ロレンス」
「企んでるというかなんというか。オンツ一人の犯行のはずありませんから。祭りになれば、警備兵や僧兵も、一々街の出入りを把握することはできなくなります。何人か仲間も街に入り込んでいると考えて間違いないでしょう」
 重要な盗品を実行犯から組織の物に渡す時は、間に詳しい事情を知らない運び屋を何人か介する物だとロレンスは言った。万が一運び屋が警備兵に捕らえられたとしても、知らない情報は漏らしようがないからだ。
「当然、安全圏から盗品が無事に流れているか見張っている者がいるでしょう。間の仲介役ならともかくオンツにちょっかいを出せば、そいつらが襲ってくると見てまず間違いありません。ですから、何か手を打っておいた方がいいかと」
「じゃあ、こんなのはどうよ」
 ハディスが言った計画は、罠というよりにいたずらといえそうな物だった。
「面白いですね。やってみましょうか」
 ロレンスがくすくす笑った。

「男って、自分の部屋を汚す習性があるのかしら」
 オンツの部屋を見渡して、リンクスは溜め息をついた。床には酒の空きビンの林、服やボロ布の山。
 もうすっかり日は落ち、窓の向こうは闇に沈んでいる。部屋の主は、幸いベッドの上でイビキをかいている。ちょっとやそっとの事では起きないように、ハディス特製の眠り薬でもまいておきたい所だが、ただでさえ魔力で強化された薬を道具の魔力だらけの部屋にまいては何が起きるかわからない。
「ハディス様の部屋より散らかってますわね?」
 リンクスの額に、長いシッポのついた白い天道虫のような物が止まっている。ハディスが呼び出した使い魔だった。本来群れで行動するこの魔族は、すばやく敵から逃げるために、お互いの思考をテレパシーで繋いだ。魔術師は、そのネットワークに割り込む事ができる。つまりこの魔物を通してハディスとリンクスは互いの様子を知る事ができというわけだ。
「おい、いいから作業にかかれや」
 使い魔を通してハディスがせかす。

 建物の間の、道とも言えないほどの隙間に、ハディスとロレンスは立っていた。祭の音楽が薄く聞こえる中、ハディスは目の前に浮かんでいる魔族に指先を乗せ、意識を集中させていた。

「はいはい、わかりましたわ」
 リンクスは目を閉じて意識を中空に集中させた。体がしびれるような魔力に毛が逆立つ。その魔力の源は、隅にある机にあるようだった。
「ひょっとしたら罠が仕掛けられているかも知れませんわ」
 リンクスは小さく罠を見破る呪文を唱える。道具の魔力があふれる中で、かけられているかも知れない罠の術式を探し出すのは、海に落ちた一滴の香水をかぎわけようとするような物だ。しかし、なんとかその切れ端を捕まえる事ができた。
 緑色の綿菓子のように、かけられた術を現す光の文字が机を包んだ。
「おい、結構複雑だが、お前解けるか?」
「あら、魔術の基礎をハディス様に教えたのは私ですわよ」
 くすくすと笑いながら、前足の爪で解呪の術式を机に掘り込んでいく。一つ一つ文字を刻むにつれ、緑色の糸が解けてちぎれていく。
「ふう。ようやく解除できましたわ」
 前足で額の汗をぬぐい、リンクスは机の前に置かれたイスに飛び乗る。そっと引き出しに前足をかけ、ゆっくりと引いていく。広がる引き出しから見える暗闇の中で、キラリと何かが光った。ケット・シーの敏感な耳がカチリという不穏な音を捉えた。何が危険なのか自分でも分からないうちに、リンクスはイスから避難する。カツッと乾いた音を立てて、引き出しから飛び出した銀色の針が壁に突き刺さっていた。
「二重トラップとは…… 針とバネのしかけじゃ解除の魔法に引っかかりませんわ」
「さすがリンクス。機敏(きびん)だな」
「当然ですわ」
 ピンと立ったしっぽを下ろす。その先が、床に置かれた酒ビンに触れた。適当に積み上げられたビンの山は、その衝撃だけでもガシャガシャとドミノのように崩れていった。静けさになれた耳に、痛いくらいの音を立てて。
「ああ! 申し訳ありませんハディス様!」
「前言撤回」
 「誰だ!」と声を上げ、オンツが飛び起きる。
「いいからリンクス逃げろ!」
「くっ」
 机に一瞬なごりおしそうな視線を向けたまま、リンクスは窓から逃げ出した。
「ちっ、失敗しやがった」
「まあ、そうそううまくは行きませんよ」
 思わず毒づいたハディスをロレンスがなだめた。
「おい、リンクス。気配を消さずに丘まで行け」
 むこうでも、せっかく盗んだ『賛美歌』に手を出して来た者を放っておくわけにはいかないだろう。持っているかも知れない『鍵』の情報狙って、リンクスを追って来るはずだ。
「こうなったら直接対決だ」
 ハディスが低く呟いた。

 丘の上には風が吹きわたり、頬が痛いほどだった。足元から寒気がはい上がってくる。
月は細く、地上を明るく照らし出してくれる、という程ではないが、闇に慣れた目ならば不自由はない。
 ロレンスはフードを目深にかぶり直した。こうすれば口元しか見えず、自分が何者か見破られる事はないだろう。
 ザワザワと、十数の影がロレンスを取り囲んだ。狭くなった視界でも、ざわめきが感じられた。やはり、オンツを見張っている仲間がいたらしい。
 男が立ち止まり、短剣を構えた。
「女……他の枢機卿の手の者か」
 女ではなく男、手の者ではなく枢機卿本人なのだが、わざわざ教える必要はないだろう。
 無視されていると思ったのか、捕らえて鍵の場所を吐かせようとしたのか、男達はロレンスを囲む輪を一辺に縮めようと駆け出した。
 なんて無警戒なのだろう。自分の敵が待つ場所に踏み込むとは。
 ロレンスは、ハディスから教えられた言葉を囁いた。闇に沈む芝生に、魔法陣が浮かび上がった。
「な、なん……」
 男達の驚きの言葉は途切れた。
 ズズッと丘が揺れた。地面に落ち窪んで、土が滝のように穴の中になだれ込む。夜の闇にも黒い土埃が舞い上がる。土の匂いと湿気が立ち昇った。
 掘られた穴の底から、うめき声がわき上がってくる。ハディスの魔術で創られた穴は深く、よじ登ろうとした所でそう簡単にいく物ではない。
「さて、ハディスの方はどうなったのでしょうか?」

 丘の上に立つリンクスを、オンツは憎々しげに睨んできた。そして、その後から来るハディスをも。
「あの猫、お前の使い魔か」
「その通り」
 ハディスは杖を構えた。
「賛美歌は返してもらうぞ!」
 宣言して、ハディスはオンツにむかって駆け出した。その唇から、異界の言葉が流れ出す。
 おそらく、ロレンスはこいつに訊きたい事があるだろう。口が利ける状態で、生け捕りにするような魔法がいい。相手の魂を感知し、その体を縛り付けるような物が。
 ハディスの呪文に、オンツの声が重なる。その内容を聞き取り、ハディスはニヤリと笑った。奴が唱えているのは、自分とまったく同じ呪文だ。このハディスに力比べを挑むとは。
 呪文を紡いでいくにつれて、溢れた魔力で空気がヒリついていく。
 力を込めたのだろう、オンツがわずかに顔をしかめた。
 吹き付ける風のように、オンツの魔力が押し寄せる。オンツは、フォビドゥンツールの魔力をうまく自分の物に転用していた。
 ハディスが操れる魔力は人よりも桁外れに多い。だが、さすがにフォビドゥンツールに匹敵するほどの量はない。
(やべ、押し負ける!)
 敵の手には、発動しかけた魔法の塊が黒く輝いている。
 呪文を中断すると、ハディスは懐に手を突っ込み、小さなビンを取り出した。ハディスの魔力のみで創られたた擬似生命体、自分の物に良く似た、仮初の魂が入ったビンを。そしてそれを思い切り放り投げる。
 黒い矢が、ハディスに向かって放たれた。墨を凍らせたような矢は、とまどったように一瞬震える。そしてきしんだ音をたて二つに分かれ、ハディスと宙を舞うビンに向かった。力を無理に分散させた矢は、幻のように淡くなっている。それぞれの標的の前で弾けた矢は、網のように形を変えた物の、千切れてバラバラになった。落ちたビンが、乾いた音を立てて割れる。
 消えかけの花火のように落ちていく黒い魔力のカケラの中をハディスはかけた。
「なっ!」
 オンツが身構えるより早く、ハディスは敵の懐に飛び込んだ。杖を大きく振りかぶり、オンツの鳩尾に叩きつける。
「さあ、『賛美歌』を返してもらおうか」
 くずおれたオンツに、ハディスは歩みよった。オンツの周りに、破壊魔法が発動する気配はない。
 しぶしぶといった感じでオンツは紙を取り出し、ハディスに差し出した。
「ハディス様!」
 リンクスが声を上げる。
 ハディスは伸ばしかけた手を止めた。オンツは何かを小さく呟いている。ハディスが警戒していても気付かないのも無理はない。それはただのありふれた魔法だった。無くした物を探し出すための。ただし、これもフォビドゥンツールの魔力で強化されている。
「しま……!」
 瞬きする間に、『鍵』はオンツの手に渡っていた。『鍵』が楽譜に重なる。男の口が開く。意味ある古代語が、何とも言えない旋律に乗り、夜風に響いた。
 崩れ去る家々。地面に小石が転がるだけの地面。高速でめくられる紙芝居のように、ハディスの頭の中に破壊のイメージが展開する。直後に来るはずの、圧倒的な破壊にそなえハディスは目を閉じた。

 ぼ~う ぼ~う。間の抜けたふくろうの声が暗闇に響いた。緊張で思わず閉ざしていた五感が、ゆっくりと回復するのをハディスは感じた。いつの間にか閉じていた瞼を開けると、紙を両手でもったまま呆然とした男が目に映る。
「おい、ロレンス」
 呆けている男に話かけても仕方がないので、いつのまにか傍らにいた友人に声をかける。
「どういうことだ、こりゃ」
「つまり……」
 軽く握った手を唇にあて、なぜか決まり悪そうにロレンスが言う。
「この『賛美歌』は歌詞と旋律に意味が有るんです。その両方、どちらかが少しでも欠けたら発動しない」
「それって要するに……」
 ロレンスとハディスの声が唱和する。
「「音痴には、使えない」」
 主人のこめかみが引きつるのを見て、リンクスが前足で耳を押さえた。
「くくく、くだら~ん!」
 夜のしじまに、ハディスの怒声が響き渡った。

 男をぼこぼこにしてもまだ腹の虫が収まらず、ハディスは冷えた地面に座り込んだ。
「あーっ、たく、やってられん!」
「そう言えば、この人なんで道具を盗みましたの?」
 リンクスは気を失っている男を前足で突っついた。
「ああ、私、理由を言ってなかったですか? 枢機卿の中にエダットという者がいて、この男と組んでいたのですよ」
 ロレンスはさらりと言ってのけた。
「フォビドゥンツールを盾に教会を混乱させようとしたのです。もっとも、道具の中でも一番威力の少ない『賛美歌』を選んだ所、度胸はいまいちみたいですが」
「おい……何でそこまで知っているんだよ」
 ぎりっと唇を噛んだあと、ハディスは一辺にまくしたてた。
「てめえ、ロレンス! お前、こいつとエダット枢機卿との繋がり、もっと前から知ってたろ!」
 結局、この事件で一番得をしたのはロレンスだった。奪われた道具を取り返し、犯人を捕らえたという実績ができた。しかも告発すれば位を剥奪されるであろうエダット枢機卿は法王の座を奪い合う競争相手だ。
 殺人事件の犯人を探す時、最初に考えなければいけないのは殺された人物がいなくなって一番得をする人間は誰かだという。
「そもそも、『賛美歌』だけ盗まれて、『鍵』が無事なのがおかしいんだ! お前、先回りして『鍵』だけ避難させてたな!」
「さあ、何の事だか」
「~!」
 ハディスが言うべき言葉をさがしている時、丘から見える時計等から、十二時を告げる鐘の音が風に乗って流れて来た。結局、祝うべき聖なる一日は、このまま終わりそうだった。
「はあ、今日は何だったんでしょう結局。人工生命体の瓶は割れたし、ろくな事がありませんわ! 何が戦勝祭の奇跡なんですの!」
 悔しまぎれにリンクスがガシガシと岩をひっかいた時。ふわりと淡く白井光がリンクスの視界に入った。弾かれたように振り返り、その光源に目を疑う。
「は、は、は、ハディス様!」
 リンクスは思わず叫んでいた。
 壊れた瓶の上、大きな蝶ほどの生き物がゆっくりと円を描いている。
「フェアリーだと?! まさか、生命体が変化を? 道具の魔力のせいか?」
「考えられませんわ! 確かに人工生命体が性質を変えるっていうのはありえますが、フェアリーになるなんて! 霊質もその複雑さもぜんぜん違いますのよ」
 すっかり混乱したハディスとリンクスの事など知らぬげに、フェアリーは宙を舞っている。人間の少女に似た体に、透けた虹色の羽を広げて。
「ハディス様、まさか本当に奇跡が」
 ゆっくりと林に消えて行く妖精を見送りながら、リンクスが呆然と言う。
「……いや、違うぞリンクス」
 うめくようにハディスが言った。
「忘れたか? ここの大時計は三分ほど早いんだ」
「あ……」
 今朝の出来事を思い出して、リンクスは息を飲んだ。
「三分。大体、この鐘が鳴り止んだくらいですね」
 皆、自然と口を閉ざす。鐘の音はまだ鳴り続いていた。すでに二回鳴ったので、残りは十回。九回。八回……
 すべて鳴り終わり、響く余韻もじょじょに細くなっていく。そして途切れた。その跡に聞こえるのは風が木々を揺らす音。夜行性の鳥の羽ばたきと、鳴き声。
「ふん、結局何も起きねえじゃ……ひっ」
 ハディスの言葉が不自然に途切れた。襟首になにか冷たい物が当たる。反射的に空を見上げた。
 漆黒の空に振り始めた、無数の白。
「雪……」
 ロレンスは腕をのばし、雪をひとひら手に受ける。そしてふっと微笑んだ。
「なるほど。この雪が奇跡なのかも知れませんね。こんなに早くに振るなんて珍しい」
「けっ、こんなのあと一ヵ月もすればイヤでも見られるぜ」
 白く染まったハディスの溜息が空気中に消えて行った。
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