俺とつくも神。

三塚 章

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第五章 悪はざわめく

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  そこは、タバコの臭いが満ち溢れていた。大きな窓にはブラインドが下ろされ、薄暗い。
黒瀬は、木目の美しい机についていた。机の上には重たげなバカラの灰皿が、たっぷりと灰をためていた。
黒瀬は細い顔に、白髪混じりのオールバックの髪。がっしりとした体格で、四十にしては若々しい。薄暗い部屋の中なのに、なぜかサングラスをしている。
「で、鎮乃目センセ。随分ごぶさただったが、何の用だい?」
 黒瀬は正面に立っている男が何をたくらんでいるのかを見抜こうとした。
「何、なんてことありませんよ。ただ、仕事をもらおうと思って」
 鎮乃目は、細身の男で黒いジーパンに濃紫のワイシャツを着ている。そしてその上に白衣を引っ掛けている。
 サングラスの下にある唇が愉快そうに笑った。
「仕事? 一応私の会社は貿易商だ。法に触れる物も流しているが、そうそう流血沙汰は起きないよ。医者の必要はない。それとも、センセが街で薬でも流してくれるってのか?」
「おや、これは意外だ。喜んでくれると思ったんですが」
 鎮乃目はふところから取り出した紙をつまむとぴらぴらと振って見せた。カルテだった。
「ほら、これもありますよ」
 いたずらっぽく片目をつぶって、今度は黄色い封筒を取り出す。その封筒には女性の名前が書かれていた。黒瀬正美。
 鎮乃目はその封筒を開け、中身を取り出した。
「あなたの奥さんですね。いやあ、綺麗な人だ」
 黒瀬はグッと鎮乃目を睨みつけた。
「この肺のふくらみ、鎖骨……」
「レントゲンをしまえ! 何フェチだお前は!」
 鎮乃目は肩をすくめた。黒瀬は、半分呆れたように鎮乃目をにらみつける。
「鎮乃目。まったく。いつの間に妻の医療記録を盗み出したんだ」
「外科の私には専門外ですが、わかりますよ。貴方の奥さんの病はステージ4…… 末期の状態だ。担当の栄医師に、なるべく奥さんの好きにさせてあげるように言われませんでした?」
 黒瀬はグッと息を詰まらせた。
「墓石を買えといわれたよ。いい店を知っていると」 
「ああ、栄医師の実家は石屋さんなんですよ。患者に宣伝するのはやめろと何度も忠告しているんですけど」
黒瀬は引き出しから銃を取り出すと、鎮乃目にむけた。
「俺の連れ合いまで引っ張り出してきて、何のつもりだ? 脅迫だったらいくらセンセとはいえ容赦しないぞ」
「脅迫! とんでもない!」
 鎮乃目は細身の体を自分で抱いて、ぶるぶると震えてみせた。
「警察だって手を出さない天下の黒瀬さんにそんなことはしませんよ。ただ、取引をしたいだけで」
「取引?」
「ええ。実は、私には一人、娘がいましてね」
 黒瀬も、そのことは知っている。第一、数分前に部下から『鎮乃目医師と娘さんがおいでになりました』という報告を受けたのだから。自分と面会している間、鎮乃目は娘をどこか別の場所で待たせているのだと考えていたのだが。
「娘は、私以上の医者なのですよ。さあ、おいで」
 鎮乃目は分厚い扉を開けた。黒瀬は慌てて拳銃を引出しの中に隠す。
 しばらくの間を空け、キイ、とか細い音が部屋に入ってくる。毛足の長い絨毯を、車椅子の車輪がゆっくりと踏んでいった。
「ミコト様をお連れしました」
 黒いスーツに腰まである黒髪という黒ずくめの女性が、車椅子を押していた。
「どうです? なかなかかわいい娘でしょう?」
 そう言われても、黒瀬には鎮乃目の娘がどんな顔をしているのか分からなかった。
彼女は、黒いベールでしっかりと顔を隠していたからだ。着ている物も黒いドレスで、貴族の喪服のような格好だ。
 鎮乃目はまるで行儀の悪い子供のように黒瀬の机に腰を下ろす。吸殻が膝にかかるのも気にしないで、ガラスの灰皿を両手で抱えてもてあそび始めた。
「ふざけるのもいいかげんにしろ。そんな小娘に何ができる!」
 叫んでしまってから、黒瀬はミコトを連れてきた部下がまだ部屋の隅に控えているのに気がついた。ハエでも追い払うように手を振る。
「もういい。聞き耳を立てていないで、下がりたまえ」
 部下は慌てて礼をして、回れ右をする。
「あ、ちょっと!」
 呼び止めたのは鎮乃目だった。
彼女が振り返った瞬間、鎮乃目の手から灰皿が放たれた。鈍器にちょうどいい重さの灰皿は、見事に彼女の顔面に命中した。
「ぷ、は、はあ!」
 彼女は顔を両手で押さえ、うずくまった。口から血の混じったツバを吐き捨てる。
「お、おい。なんだ、いきなり」
 黒瀬が、少し怯えた視線を鎮乃目に向けた。理解できない行動をする者は、たまに酷く恐ろしく見えることがある。
「いやあ、やりたくなかったし、良心が痛んだんですがね。どうしても娘の力を信じてもらいたかったもので」
 鎮乃目は机の上から飛び降りると、女王の前に進みでるようにうやうやしく娘の傍へと近寄っていった。後にまわって背もたれごと抱きしめるように、娘の両肩に手を乗せた。耳元でささやく。
「さあ、ミコトちゃん。このお姉さんを治してさしあげなさい」
 鎮乃目はミコトの手首を取った。そしてまだうずくまって苦しそうに息をしている女性の頭に、ミコトの手をふれさせた。
熱湯に水を差したような、もやもやとしたものがミコトの手から立ち上る。その陽炎に溶かされるように、傷が消えていく。数分もしないうちに、まるで新品の顔に取り替えた某菓子パンヒーローのように部下の傷は完全に癒えた。
 黒髪の女性はぺたぺたと自分の顔を撫で回す。体が、ぶるぶる震えていた。恐る恐る視線を上げて、窓に映った自分の顔を確認する。
「いやああ!」
 ミコトにお礼も言わず部屋から逃げ出した。足音が遠ざかって消えていく。壁にかけられた時計が、こちこちと音を立てた。
残された黒瀬が、大きく息を吸う。そして呟いた。
「見返りは?」
 声がかすれていた。
「さすが。話がはやい」
 鎮乃目の目は穏やかな弧を描いていた。
「私は、もっと彼女に人助けをさせてあげたいのですよ」
 ミュージカルのように両手を広げ、くるりと一回転する。
「ですから、どこか新しい病院を建てる土地がないか、探してくれませんか? できるなら、そう、島のような場所がいい。政界のお偉方や金持ちの方が密かに来られるような」
「なるほど。たしか、倉庫代わりに使おうとしていた島があったな」
「もちろん、土地代…… ショバ代っていうんですか? それは払いますよ。結構、あなた方にもいい収入になると思います。あと、念の為に、武器を持ったSPが欲しいですね。娘にもしものことがあったら恐いですので」
「そうだろうな」
「それから、もう一つ。ひょっとしたら、こんな奴がうろつくかもしれません」
 そういって鎮乃目が取りだしたのは、少年の映った写真だった。切れ長の目に、最近流行りの長めの髪。
「なかなか格好いい少年じゃないか。娘の彼か?」
「僕が向かえにいったすぐ後、この少年が必死でミコトを探していたそうなんです。近所のおばさんが教えてくれました。僕は心配性なもので」
「で、もしコイツがいたらどうすれば?」
「方法は問わない。とにかく、娘に近寄らせないでください。永遠に。嫁入り前のかわいい娘に、変な虫をつけたくないんですよ。もっとも、相手が誰でもお嫁にいかせるつもりはないですけどね」
 ごきげんでクスクスと笑う鎮乃目と対照的に、黒瀬は渋い顔で考え込んだ。
「わかった。ただし、条件がある」
「条件?」
 鎮乃目はこの部屋に来て初めて不愉快そうな顔をした。人の娘の能力で金を稼がせてやろうというのに、何を条件にするつもりかとでも思っているのだろう。
「ただし、その灰皿だけは自分で血をぬぐって、綺麗にしておいてくれ。バカラなんだ」
「何をケチ臭いことを。あなたなら新しいのをいくらでも買えるでしょうに」
「妻と新婚時代に一緒に買った、思い出の品なんだ」
「そうですか。奥さんに先立たれた私にしてみたら、いやみにしか聞こえませんな。ふふ、ふふふ」
 爪を立てられたクリスタルの灰皿が、キュウっと耳障りな悲鳴を上げた。

「なんなのよ、一体……」
 ルリは長い黒髪を耳に引っ掛けて、女子トイレの鏡に自分の顔を映した。オレンジ系のルージュを塗った唇に、大きな目。太めの眉毛。悔しいくらいにもと通りだ。
「確かに、鼻の骨ぐらい折れたと思ったんだけど……」
 ルリはそっと頬を撫でる。まだ指先が微かに震えていた。
「ありえない。アレだけの速さで傷が治るなんで。にきびまで…… チクショー! どうせだったら、そばかすも治してくれればいいのに」
 黒瀬が密輸をしているという噂をスクープするために社員として会社に潜入したものの、超能力者に会うことになるとは思わなかった。何より悔しいのは、この事を誰かに話をしても絶対に信じてもらえないことだ。普通に友達に話しても呆れられるのはもちろん、怪我させられたのを訴えようとした日には、えらいことになる。
『聞いてください、裁判長! 鎮乃目医師に灰皿をぶつけられたんです! 鼻も折れちゃいました!』
『で、その傷は?』
『一瞬で治っちゃいました!』
「だめだ…… 逆に私が捕まるって。法廷侮辱罪とか、そんな感じので」
 たぶん、鎮乃目もそれを計算して灰皿をぶつけてきたのだろう。鎮乃目がもっと娘の力を宣伝して、同じ体験をした人が増えたら、信じてもらえるかも知れない。もっとも、その頃には鎮乃目は神様扱いされているのに違いない。傷を癒す聖女の父親として。とうぜん、文句を言って、鎮乃目の気分を損ねたらこっちが消される。聖女の奇跡と作り出される金目当てに、物騒な味方も増えるだろうし。
「『スクープ! 傷を治す聖女』だめね、うさん臭すぎる。巨大企業の闇を決死の潜入ルポで暴くつもりが、とんだオカルトネタだわ」
 はあ、と溜息をつく。
 トイレにOLが入ってきたのも気にしないで、ルリは鏡を睨みつけた。
「ただじゃおかないわよ、鎮乃目…… 私のキュートな顔に灰皿を投げつけられた屈辱、晴らさでおくべきか」
ルリは、肩まである黒髪を引き剥がした。かつらの下から、灰色のメッシュの散ったオレンジ色のショートヘアが現れる。
「ああ、もう。ズラの中まで灰が入ってるわあ」
 手櫛で髪を整えながら、ルリは呟く。
「ねえ、ちょっと、あなた、ええ?」
OLの視線は床に投げ捨てられた黒髪とルリの間を行ったり来たりした。
「気にしないで。ただ変装してただけだから」
 ルリはぽかんと口を開けている女性にヒラヒラと手を振って外へ出ていった。
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