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いい匂い
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しばらくの間、支社から本社に手伝いに行くことになり、ユカコはいつもと違う電車に乗ることになった。通勤時間が長くなり、家を早く出ることになることも大変だが、疲れた体で長い間電車に揺られるのも大変だ。
スマホでゲームをする気も起きず、ユカコは帰りの電車でぼうっとしていた。
「波白(なみしろ)、波白」
アナウンスが駅の名を告げ、扉が開く。
新鮮な空気が車内に流れ込んでくる。ふわりといい香りがして、思わずユカコは顔を上げた。
(なんていい匂いなんだろう)
なんだか疲れが和らぐような、心がほのぼのとするような、そんな甘い香りだった。
きっと、誰かの香水だろう。どんな素敵な女性(ひと)がつけているのだろう? 扉の方に顔を向ける。だが、電車には誰も乗ってこない。暗いホームが見えるだけだ。その人は他のドアから入ったのだろうか?
どんな人か見られなくて、ユカコは少し残念に思った。
それから、ユカコの頭からあの香りが放れなくなった。もう一度、あの香りをかいでみたい。できれば自分もつけてみたい。
休みを利用してユカコはデパートに通い、同じ香水がないか探してみた。けれど、どれだけテスターを試しても見つからなかった。店員に聞こうにも、匂いの説明するのは難しい。
その間も、波白駅に泊まるとたびたびその香りがする。相変わらず、誰も乗っても来ず、ただその駅のホームに人がいた気配だけが残っている。そのたびに、ユカコはその誰かに香水を見せびらかされているような気分になった。「まだ同じのを買えないの?」とバカにされているような。
(そうだ、売ってないなら作ればいいんだ!)
ネットで調べてみると、調香の体験をさせてくれるカルチャースクールがあるらしい。
ユカコはそういったスクールに通い、材料になる香料を買い集めた。狭いユカコの部屋は、香料のビンで実験室のようになった。隣近所の迷惑にならないよう、消臭剤を大量に用意する必要があったほどだった。
そしてとうとう記憶にある香りとほとんど変わらないものができた。
出来上がった物をつけたときは嬉しかった。道行く人に、「この香り、どうですか?」と聞きたくなったほどだ。
初めてその香水をつけて行った日、同僚からの評価は上々で、ユカコはご機嫌で帰りの電車に乗った。
波白駅で電車が停まる。音を立てて扉が開いた。外のホームは闇に沈んで見えた。ユカコは椅子に座ってそれを見ながら、自分が同じ香水をつけているのを誰かさんが気づけばいいと思った。
冷たい風が吹き込んで来る。ふわりといい匂いがした。そして、べちゃりという音。
背の高い、素足の女が電車に乗り込んで来た。赤いトレンチコートを着て、うつむきかげんの顔は垂れた髪で隠されている。その異様な姿に、ユカコの目は吸い寄せられた。
女の背後で扉が閉まり、電車が走り出す。
女は、またべちゃりと音をたて、ユカコの方へと歩み寄ってくる。女が赤くたびねっとりとした足跡が床についた。それでようやくユカコは気付いた。女は赤いトレンチコートを着ているのではない。そう見えるほど、全身血にまみれているのだ。
「ヒッ」
思わず驚いて息を呑むと、喉笛がおかしな音を立てた。周りの乗客は女の姿が見えないのか、それぞれスマートフォンや本から顔をあげない。
ユカコは逃げ出そうとしたが、まるで縛り付けられたようにシートから立ち上がることもできない。
女が口を開いた。
「どうして?」
ポタポタと体のいたる所から血が垂れる。
「どうして、あなたが私の香水を持ってるの?」
ふうっとあの香りがした。
女はぬっと手を伸ばした。
「そういえばさあ、知ってる? この路線の波白って駅で前自殺があったんだって」
「マジで?」
「女の人が、恋人にフラれてホームから飛び降りたんだってさ。昔恋人が自分のために作ってくれたオリジナルの香水をつけて」
「うわあ……」
「でね、今でも、その波白駅でたまに香水の香りがするんだって」
「……」
「なに、どうしたの? そんなに怖かった?」
「いや、そうじゃないの。ちょっと変なこと思いついちゃって」
「変なことって?」
「この路線で、最近女の人が死んでたの、知ってる? 自殺じゃなくて」
「え? 何それ」
「終点になったのに下りない女の人がいたから、駅員さんが声をかけたんだって。そうしたら、その女の人、座ったまま死んでたんだって」
「うわ、それ駅員さん嫌だな」
「でね? その場にいた人がSNSで呟いてたんだけど……その女性、香水を付けてたんだって。ひょっとして、自殺した女の人と関係があるんじゃないかと思って」
「まさか!」
「でもさあ、少し考えちゃったんだよね。その死んじゃった女の人が、自殺した女の人がつけたのと似た香水をつけていたらって。自分が彼氏に贈られた物を他の女がつけてるんだよ。嫉妬して殺したくなっても無理なくない?」
「考えすぎだって。香水を付けてる人なんてたくさんいるでしょ。それに、同じ香水をつけてるかどうかも分からないし。ただの偶然だよ」
「そうかもね。でも、いいことを考えちゃった」
「なあに?」
「もしも、その香水を手に入れられたらって。なんとかそれっぽい理由をつけて、殺したい奴にそれをつけさせて、この電車に乗せれば完全犯罪のできあがり!」
「それ、相当ハードル高いでしょ! それに、そんなことを考えるあんたの方が怖いわ!」
「あははははは!」
スマホでゲームをする気も起きず、ユカコは帰りの電車でぼうっとしていた。
「波白(なみしろ)、波白」
アナウンスが駅の名を告げ、扉が開く。
新鮮な空気が車内に流れ込んでくる。ふわりといい香りがして、思わずユカコは顔を上げた。
(なんていい匂いなんだろう)
なんだか疲れが和らぐような、心がほのぼのとするような、そんな甘い香りだった。
きっと、誰かの香水だろう。どんな素敵な女性(ひと)がつけているのだろう? 扉の方に顔を向ける。だが、電車には誰も乗ってこない。暗いホームが見えるだけだ。その人は他のドアから入ったのだろうか?
どんな人か見られなくて、ユカコは少し残念に思った。
それから、ユカコの頭からあの香りが放れなくなった。もう一度、あの香りをかいでみたい。できれば自分もつけてみたい。
休みを利用してユカコはデパートに通い、同じ香水がないか探してみた。けれど、どれだけテスターを試しても見つからなかった。店員に聞こうにも、匂いの説明するのは難しい。
その間も、波白駅に泊まるとたびたびその香りがする。相変わらず、誰も乗っても来ず、ただその駅のホームに人がいた気配だけが残っている。そのたびに、ユカコはその誰かに香水を見せびらかされているような気分になった。「まだ同じのを買えないの?」とバカにされているような。
(そうだ、売ってないなら作ればいいんだ!)
ネットで調べてみると、調香の体験をさせてくれるカルチャースクールがあるらしい。
ユカコはそういったスクールに通い、材料になる香料を買い集めた。狭いユカコの部屋は、香料のビンで実験室のようになった。隣近所の迷惑にならないよう、消臭剤を大量に用意する必要があったほどだった。
そしてとうとう記憶にある香りとほとんど変わらないものができた。
出来上がった物をつけたときは嬉しかった。道行く人に、「この香り、どうですか?」と聞きたくなったほどだ。
初めてその香水をつけて行った日、同僚からの評価は上々で、ユカコはご機嫌で帰りの電車に乗った。
波白駅で電車が停まる。音を立てて扉が開いた。外のホームは闇に沈んで見えた。ユカコは椅子に座ってそれを見ながら、自分が同じ香水をつけているのを誰かさんが気づけばいいと思った。
冷たい風が吹き込んで来る。ふわりといい匂いがした。そして、べちゃりという音。
背の高い、素足の女が電車に乗り込んで来た。赤いトレンチコートを着て、うつむきかげんの顔は垂れた髪で隠されている。その異様な姿に、ユカコの目は吸い寄せられた。
女の背後で扉が閉まり、電車が走り出す。
女は、またべちゃりと音をたて、ユカコの方へと歩み寄ってくる。女が赤くたびねっとりとした足跡が床についた。それでようやくユカコは気付いた。女は赤いトレンチコートを着ているのではない。そう見えるほど、全身血にまみれているのだ。
「ヒッ」
思わず驚いて息を呑むと、喉笛がおかしな音を立てた。周りの乗客は女の姿が見えないのか、それぞれスマートフォンや本から顔をあげない。
ユカコは逃げ出そうとしたが、まるで縛り付けられたようにシートから立ち上がることもできない。
女が口を開いた。
「どうして?」
ポタポタと体のいたる所から血が垂れる。
「どうして、あなたが私の香水を持ってるの?」
ふうっとあの香りがした。
女はぬっと手を伸ばした。
「そういえばさあ、知ってる? この路線の波白って駅で前自殺があったんだって」
「マジで?」
「女の人が、恋人にフラれてホームから飛び降りたんだってさ。昔恋人が自分のために作ってくれたオリジナルの香水をつけて」
「うわあ……」
「でね、今でも、その波白駅でたまに香水の香りがするんだって」
「……」
「なに、どうしたの? そんなに怖かった?」
「いや、そうじゃないの。ちょっと変なこと思いついちゃって」
「変なことって?」
「この路線で、最近女の人が死んでたの、知ってる? 自殺じゃなくて」
「え? 何それ」
「終点になったのに下りない女の人がいたから、駅員さんが声をかけたんだって。そうしたら、その女の人、座ったまま死んでたんだって」
「うわ、それ駅員さん嫌だな」
「でね? その場にいた人がSNSで呟いてたんだけど……その女性、香水を付けてたんだって。ひょっとして、自殺した女の人と関係があるんじゃないかと思って」
「まさか!」
「でもさあ、少し考えちゃったんだよね。その死んじゃった女の人が、自殺した女の人がつけたのと似た香水をつけていたらって。自分が彼氏に贈られた物を他の女がつけてるんだよ。嫉妬して殺したくなっても無理なくない?」
「考えすぎだって。香水を付けてる人なんてたくさんいるでしょ。それに、同じ香水をつけてるかどうかも分からないし。ただの偶然だよ」
「そうかもね。でも、いいことを考えちゃった」
「なあに?」
「もしも、その香水を手に入れられたらって。なんとかそれっぽい理由をつけて、殺したい奴にそれをつけさせて、この電車に乗せれば完全犯罪のできあがり!」
「それ、相当ハードル高いでしょ! それに、そんなことを考えるあんたの方が怖いわ!」
「あははははは!」
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