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自殺の理由
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ドッペルゲンガーというのを聞いたことがあるだろうか。『もう一人の自分』と言われることも多い。
有名なのはゲーテのエピソードだ。
ある日、ゲーテは、ある通りを馬車で走っていた。そしてむかいから来た、スーツを着た男が乗る馬車とすれ違った。
そして八年後、ゲーテは自分があの日と同じ時間、同じ通りを、あの日見た紳士とまったく同じ服装で同じ方向に走っているのに気がついた。では、むかいから来る馬車に乗っているのは……
なんでこんなことを長々と記したかというと、この知識を持っていてくれた方が、これから語る俺の話がわかりやすいと思ったからだ。
俺は、会社を首になり、それがもとで恋人と別れ、骨の髄まで絶望していた。
なけなしの金で訪れたのは、ある自殺の名所の崖だった。
その場所を選んだのは、子供のころ家族で旅行に来た楽しい思い出があったからかもしれない。
遺書を書く相手もいない俺は、荷物を旅館に置きっぱなしにするとすぐ崖の縁(ふち)に立った。二時間ドラマのクライマックスで、犯人が追い詰められそうなところだな、と我ながらのんきなことを考えた。夏の暑い時期で、旅館からそう遠くもないのにもう額には汗が流れている。
見下ろすと、崖下では岩に砕けた波が真っ白に泡立っている。ここから落ちればまず助からないだろう。死ぬのは怖くなくても、痛みが好きなわけではない。岩にぶつかり、皮膚が切れ、潮に飲み込まれることを考えるとさすがに憂鬱になった。
このあたりは潮の流れの関係で、死体は意外とすぐに見つかると聞いている。ぶよぶよの肉塊になるまで水の底、という見苦しいことにはならないはずだ。
そこまで考えて、俺は少し笑った。死んでしまえば遺体がどうなろうと関係だろうに。
理由は分からないものの、自殺者は靴を脱ぐのが礼儀らしい。俺も靴を脱ぎかける。思えば、小さいときからろくな人生ではなかった。
砂を踏む音がすぐ傍で鳴った。
いつの間に近づいてきたのか、小さな男の子が後ろに立っている。子供用のスニーカーに、半ズボンをはいて、ロボットアニメのTシャツ。そして……
彼の顔を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。俺はもう少しでその場にしりもちをつくところだった。突然に、昔の記憶が蘇った。
あの子は、俺だ。
昔、ここに旅行に来たとき、みやげ屋に飽きた俺は、両親を残したままこっそり外へ出た。そして近くにあったこの場所にたどり着いた。時間帯なのか、それともたまたま珍しくなのか、辺りに人はいなかった。
ただ、崖のふちに立っている男一人をのぞいて。
虚ろな表情で崖下の海を見下ろす男。ちょうど、俺と同じ年頃の。
その光景がなんだか怖くて、このままこの場所に立っていたら何かとても恐ろしいことが起きそうで、俺は両親の待つみやげ屋に走って戻っていったのだった。
そんなはずはない。自分の目の前に過去の自分が立つなんてありえない。でも、あのときにみた男の服装は、今の自分と一緒じゃなかったか? ストライプのシャツと、グレーのズボン。
まるで催眠術をかけようとするように、遠くで波の音が繰り返し聞こえる。俺は頭を振り、目を凝らして、目の前の少年の正体を見極めようとした。
写真でみた子供の時の自分とそっくりの顔。お気に入りだった、ロボットアニメのTシャツ。もちろん、アニメがリメイクされたという話は聞かないから、現在売っているものではない。そして何より、その少年には自分と同じ位置に傷跡があった。
鳴り続ける、波が岩で砕け散る音。
飛び降りるのは怖い。けれど、他人を殺すのはそれよりも怖くない。いや、殺すのは他人ではなく自分だ。ここでこの子を殺せば、自分も消え失せる。他殺よりも罪は軽いだろう。それにきっと、痛みも感じるのは子供の自分で、今の自分ではないはず。
何かただならない雰囲気を感じたのだろう、少年は逃げ出した。
俺は、子供の自分にむかって走り出す。
同一人物だとしても大人と子供の差がある。俺の手は、あっという間に子供の俺の襟首を捕まえた。
片手で子供の俺を押さえつけ、片手で転がっていた石を拾う。
俺は、小さな頭に石を何度も振り下ろした。飛び散った血が、腕に、服にまだら模様を作る。
男の子は最初、悲鳴をあげていたが、それも少しの間だった。真っ赤な血を流して、子供の俺は動かなくなった。
俺はその子を抱き上げると、そのまま崖へと放り投げた。べったりと血のついた上着を脱ぐ。夏だし、海水浴場が近くにあるはずなので、男なら上半身裸でうろついても、それほど変に思われないはずだ。俺はその場から離れながら、自分が消えるのを待った。
それから?
それだけだ。消えると思っていたのに、いつまでたっても俺は消えなかった。
ひょっとしたら、あの子供自体、死のうと思っていた極限状態が見せた幻かと思ったが、そうではない証拠に血まみれのシャツは手元に残ったままだった。「大量の血だまりが見つかったため、なんらかの事件、事故の可能性を視野に入れて警察が捜査をしている」というニュースもあった。
では、ただの通りすがりの子供? いや、それならなんで死体があがらないんだ? その後のニュースにも、死体が発見されたというものはなかった。
あいつが流れ着いている先で生きている、というのもありえない。あの崖から飛び降りるだけでもアウトなのに、俺は頭蓋を砕いた感触を確かに感じたのだ。
それとも俺があの子を殺した時点で、未来が枝分かれして、『自分自身を殺さなかった世界』に修正されたのだろうか? でもそれならなぜ血が残っていたのだろう?
俺が殺したのは、一体なんだ?
怖い。現実世界の絶望に、今度はその恐怖がプラスされた。問題が起こったせいで、自殺はいったん延期になったが、再び試みないといけなくなるのもそう遠い話ではないだろう。
有名なのはゲーテのエピソードだ。
ある日、ゲーテは、ある通りを馬車で走っていた。そしてむかいから来た、スーツを着た男が乗る馬車とすれ違った。
そして八年後、ゲーテは自分があの日と同じ時間、同じ通りを、あの日見た紳士とまったく同じ服装で同じ方向に走っているのに気がついた。では、むかいから来る馬車に乗っているのは……
なんでこんなことを長々と記したかというと、この知識を持っていてくれた方が、これから語る俺の話がわかりやすいと思ったからだ。
俺は、会社を首になり、それがもとで恋人と別れ、骨の髄まで絶望していた。
なけなしの金で訪れたのは、ある自殺の名所の崖だった。
その場所を選んだのは、子供のころ家族で旅行に来た楽しい思い出があったからかもしれない。
遺書を書く相手もいない俺は、荷物を旅館に置きっぱなしにするとすぐ崖の縁(ふち)に立った。二時間ドラマのクライマックスで、犯人が追い詰められそうなところだな、と我ながらのんきなことを考えた。夏の暑い時期で、旅館からそう遠くもないのにもう額には汗が流れている。
見下ろすと、崖下では岩に砕けた波が真っ白に泡立っている。ここから落ちればまず助からないだろう。死ぬのは怖くなくても、痛みが好きなわけではない。岩にぶつかり、皮膚が切れ、潮に飲み込まれることを考えるとさすがに憂鬱になった。
このあたりは潮の流れの関係で、死体は意外とすぐに見つかると聞いている。ぶよぶよの肉塊になるまで水の底、という見苦しいことにはならないはずだ。
そこまで考えて、俺は少し笑った。死んでしまえば遺体がどうなろうと関係だろうに。
理由は分からないものの、自殺者は靴を脱ぐのが礼儀らしい。俺も靴を脱ぎかける。思えば、小さいときからろくな人生ではなかった。
砂を踏む音がすぐ傍で鳴った。
いつの間に近づいてきたのか、小さな男の子が後ろに立っている。子供用のスニーカーに、半ズボンをはいて、ロボットアニメのTシャツ。そして……
彼の顔を見た瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。俺はもう少しでその場にしりもちをつくところだった。突然に、昔の記憶が蘇った。
あの子は、俺だ。
昔、ここに旅行に来たとき、みやげ屋に飽きた俺は、両親を残したままこっそり外へ出た。そして近くにあったこの場所にたどり着いた。時間帯なのか、それともたまたま珍しくなのか、辺りに人はいなかった。
ただ、崖のふちに立っている男一人をのぞいて。
虚ろな表情で崖下の海を見下ろす男。ちょうど、俺と同じ年頃の。
その光景がなんだか怖くて、このままこの場所に立っていたら何かとても恐ろしいことが起きそうで、俺は両親の待つみやげ屋に走って戻っていったのだった。
そんなはずはない。自分の目の前に過去の自分が立つなんてありえない。でも、あのときにみた男の服装は、今の自分と一緒じゃなかったか? ストライプのシャツと、グレーのズボン。
まるで催眠術をかけようとするように、遠くで波の音が繰り返し聞こえる。俺は頭を振り、目を凝らして、目の前の少年の正体を見極めようとした。
写真でみた子供の時の自分とそっくりの顔。お気に入りだった、ロボットアニメのTシャツ。もちろん、アニメがリメイクされたという話は聞かないから、現在売っているものではない。そして何より、その少年には自分と同じ位置に傷跡があった。
鳴り続ける、波が岩で砕け散る音。
飛び降りるのは怖い。けれど、他人を殺すのはそれよりも怖くない。いや、殺すのは他人ではなく自分だ。ここでこの子を殺せば、自分も消え失せる。他殺よりも罪は軽いだろう。それにきっと、痛みも感じるのは子供の自分で、今の自分ではないはず。
何かただならない雰囲気を感じたのだろう、少年は逃げ出した。
俺は、子供の自分にむかって走り出す。
同一人物だとしても大人と子供の差がある。俺の手は、あっという間に子供の俺の襟首を捕まえた。
片手で子供の俺を押さえつけ、片手で転がっていた石を拾う。
俺は、小さな頭に石を何度も振り下ろした。飛び散った血が、腕に、服にまだら模様を作る。
男の子は最初、悲鳴をあげていたが、それも少しの間だった。真っ赤な血を流して、子供の俺は動かなくなった。
俺はその子を抱き上げると、そのまま崖へと放り投げた。べったりと血のついた上着を脱ぐ。夏だし、海水浴場が近くにあるはずなので、男なら上半身裸でうろついても、それほど変に思われないはずだ。俺はその場から離れながら、自分が消えるのを待った。
それから?
それだけだ。消えると思っていたのに、いつまでたっても俺は消えなかった。
ひょっとしたら、あの子供自体、死のうと思っていた極限状態が見せた幻かと思ったが、そうではない証拠に血まみれのシャツは手元に残ったままだった。「大量の血だまりが見つかったため、なんらかの事件、事故の可能性を視野に入れて警察が捜査をしている」というニュースもあった。
では、ただの通りすがりの子供? いや、それならなんで死体があがらないんだ? その後のニュースにも、死体が発見されたというものはなかった。
あいつが流れ着いている先で生きている、というのもありえない。あの崖から飛び降りるだけでもアウトなのに、俺は頭蓋を砕いた感触を確かに感じたのだ。
それとも俺があの子を殺した時点で、未来が枝分かれして、『自分自身を殺さなかった世界』に修正されたのだろうか? でもそれならなぜ血が残っていたのだろう?
俺が殺したのは、一体なんだ?
怖い。現実世界の絶望に、今度はその恐怖がプラスされた。問題が起こったせいで、自殺はいったん延期になったが、再び試みないといけなくなるのもそう遠い話ではないだろう。
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