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湖の看板
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あいつが良さそうだ。僕は隅に座る男に目を付けた。
高そうなスーツをだらしなく着た、背の高い青年だった。学生の時は勉強よりも彼女づくりと遊びに力を入れていたんだろうな、という感じ。
僕は、その男のもとに歩いていった。
二十四時間営業のレストランは、深夜だけあって人が少ない。疲れた様子の男女がぽつぽつと座っているだけだ。時折テーブルの間を通る店員の動きも、どこかゆっくりとしている気がする。
そんな、相席の必要もない状況なのに隣に座ってきた僕を、男が不審な目で見るのも仕方がなかった。
「あ? なんだよ」
敵意がないことを示すために、僕はにっこりと笑顔を浮かべてみせた。
「すみません、ちょっといいですか。少しお話を聞きたくて」
僕の笑顔と小柄な体つきを見て、害のない奴だと思ったか、男は少し警戒を解いたようだった。
もっとも赤い顔して酒臭いから、単純に酔っていて警戒心が死んでるだけかも知れないけど。
「実は俺、動画配信をやってまして。人から聞いた怖い話を動画にして、公開しているんですよ。それっぽい画像と音楽をつけて。何か、題材になりそうな話、ありますか? もしあったら、録音させてもらえれば嬉しいんですが」
といっても、録音したものをそのまま流すわけではない。人は長めの話をすると、時系列が前後したり、意味は通じても文法的にはおかしい文をしゃべったりするものだ。
僕は話の内容を一切変えないまま、一度そういったものを修正して文章を作る。そして、それを朗読して動画にする。作り話ではなく、本当にあった話だというのが生々しいと、ファンも結構いるのだ。どれだけ広告収入があるかは、内緒にしておこう。
「もちろん匿名にしてプライバシーは……」
「怖い話? おお、あるよ、あるよ」
俺の言葉を遮りそうな勢いで、男は話し出した。
「実は俺、最近再婚したんだよ。いい女ゲットしたと思ったら、こぶ付きでさ。こっちはそんなの聞いてねえっての。騙して寄生しようってんだから、女って怖いよな。しかもその子供ってのが生意気で……」
「ああいや、そういう話じゃなくて」
今度は俺が相手の言葉を遮る番だった。
「霊的に怖い話が聞きたいんです。幽霊とか祟(たた)りとか、そういう奴」
「ああ、ああ、そういう奴ね。あるよ」
「本当に?」
俺はワクワクしながらスマホで録音する準備をした 。
不思議なもので、俺が話を聞こうと思った人は、必ず何かしら動画におあつらえ向きのた話を持っている。ひょっとしたら俺はそういう能力を持っているのかもしれない。
「かなり昔の話だけど、あのな……」
そう言って男は話し始めた。
それは俺が大学生の夏のことだった。
友人三人と、ある湖までキャンプに行ったんだ。青春の思い出作りってやつ。
ところが、高速道路で死人が出るほどのでっかい事故があったらしくてな。ひどい渋滞で、なかなか進まねえの。ず~っと並ぶ車のケツが見えるだけでさ。
おお、その事故現場の横も通ったぞ。救急車やら警察の車が来てたな。
で、着いたころにはもう夕方になりかけてたよ。大急ぎでテントを張ってさ。
本来なら、湖のほとりでバーベキューするはずだったんだが、そんな時間じゃなくなってた。
まあ、そうなる事は予想できてたからな。とりあえずは折りたたみの椅子と机を広げて、サービスエリアで買い込んだ弁当やおにぎりで夕食を済また。まぁ、酒も買ってきてたし、飯食いながら馬鹿話するのはなんのかんので楽しかったよ。
周りに誰もいねえから、思う存分大騒ぎできたし。え? シーズン中のキャンプ場で、他に人がいないなんてありえるのかって? 鋭いねえ。本来はキャンプ禁止のとこだったんだよ。もう昔のことだし、いいだろ。
夕食が終わる頃には辺りが暗くなってた。
周りの木は風が吹くたび化け物みたいに揺れた。湖は墨みたいに真っ暗で、水面にさざ波が鱗みたいに立っているのが見えた。大きな湖だったよ。それぐらいの時間になると、向こうの岸が見えないの。海水じゃないんだけど、水がたくさんあるところ独特の潮っぽい匂いがしたよ。
小さな電池式のランタンをテーブルに置いて、みんな集まっていたんだけど、なんだかみんなの顔が作り物みたく見えたよ。暗い中、弱い光源が一つしかなかったせいかな。
外見はキャンパスで見るいつものA雄とS弥、U美なんだけど、中身は彼らのふりをしたまったく別の生き物なんじゃないか、なんて馬鹿なことを考えてみたりしてね。
しばらく進路のこととか、誰と誰とがデキてるとか話してたんだが、何時ごろの事だったのかな。急に雨が降りだしたんだ。おまけにゴロゴロ雷まで鳴りだしたんだ。
俺たちは慌ててテントに戻ろうとした。
どこかで「わあ」とも「ああ」ともつかない、薄くて軽い悲鳴がした。
こっちも突然の雨で、「ひゃー」だの「降ってきた!」だの騒いでいたんだけど、その悲鳴で会話がピタッと止まった。この辺りには自分たちだけだと思ってたからな。思わず全員で顔見合わせたよ。
今にして思えば、そんな小さな声なんて聞こえるはずもなかったんだ。
雷は鳴ってたし、こっちは大声上げてたし。
でも、あの悲鳴は確かに聞こえたよ。それに、魚が連続で跳ねるような、バシャバシャという音も。
「あれ」
A雄が湖を指差した。
最初は暗いし湖が広いしで、あいつが何を指しているのかわからなかった
よく見ると、闇の中を落ちてくる雨に逆らうように水しぶきが上がっている。
その飛沫(しぶき)の中、シルエットになった小さな両手が、空気をつかもうとするようにうごめいている。ヘンテコな踊りを踊っているようだったな。
「誰か溺れてる」
雨はひどくなって、だんだんと服も濡れてきたけど、気にするどころじゃなかった。
A雄に続いて、みんなも湖の際(きわ)まで駆け寄った。
稲光が溺れている者を一瞬照らし出した。
六歳くらいの男の子だ。丸い顔に貼りつく黒い髪。伸ばした腕と、水面から見える襟元から、着ているのは赤と黒のボーダーシャツ。時折弱々しい叫び声を上げている。
少年が溺れているのは、ロープや浮き輪をなげても届かず、泳ぎの得意な者なら行けるか行けないか、という微妙な位置だった。これがもっと湖の中央部だったら、無理せず人を呼ぶなりボードを探すなりしたんだろうけど。
「どうする?」
S弥が聞いた。
「どうするって、行くしかないだろう!」
A雄は池に向かって走っていく。
S弥と俺がとめたけれど、A雄は聞きゃしない。そういえばあいつは正義感の強いやつだったからな。
U美が悲鳴をあげた。
俺の腕をつかんで揺さぶってくる。
「あれ、あれ見て!」
U美はヒステリックに叫び、そばの木を指差している。
また稲光が走って、木の根本に木製の看板があるのに気づいた。
ランタンで、文面を照らしだす。
そこには長い時間でかすれた墨の字で、こう書かれていた。
『もしこの湖で赤と黒のボーダーシャツを着た、六歳ほどの男の子が溺れていても、決して助けに行かないでください。湖管理組合』
「この看板にあるの、あの男の子だよね」
U美はもう半泣きだったよ。
「俺に聞くなよ!」
パニックを起こしていたからな。俺はU美に八つ当たりしてそう怒鳴りつけた。
(あの男の子を助けるな? なんで? あの男の子って何者なんだ?)
いろいろな考えが頭の中をぐるぐる回った。
こういった看板があるということは、この湖ではたびたび同じ男の子が溺れていることになる。そして、助けに行った者はろくなことにならない、と。そんなことってあるものか?
「ああ!」
焦ったS弥の声に、湖に視線を戻すと、上っている飛沫はだいぶ小さくなっている。
少年の頭も腕も、前よりも沈んでいるように見えた。
稲光のなか、A雄の泳ぐ姿が見えた。
「おい、A雄、戻れ! 戻れって!」
S弥が片手で看板を指し、もう片手で手招きしながら叫ぶ。が、もちろん背を向けて泳いでいるA雄に見えるはずがない。まあ、もし見えていたとしてもA雄のことだ。目の前の溺れている子供を見捨てても戻るなんてしなかったんじゃないかな。あの看板の文章を読んでいたとしてもね。
A雄は、もう少しで少年に手が届くと言う所まで来た。男の子の位置がよく見えるようにするためか、クロールから平泳ぎに切り替え、男の子になおも近づいていく。遠いし、木の葉に落ちる雨の音で内容は聞こえなかったが、何か言ってるみたいだったな。
男の子をつかもうと、A雄は手を伸ばした。
その瞬間、男の子がニヤリと笑った。あの暗闇でどうしてその表情が見えたのかわからない。こう、片方だけ口を吊り上げてな。普通の子供がする表情じゃない。さんざん踏み付けにされたもんで、人の不幸を願うことしかできなくなった奴が浮かべるような顔だよ、あれは。不気味だった。
そしたら、男の子の姿が突然消えた。ほんとにもう、突然。テレビの電源を落としたっていうか、立体映像のスイッチを切ったみたいだった。
同時にA雄の姿が水面に沈んで姿が見えなくなった。
その時初めて催眠から覚めたみたいに、俺たちはハッとした。
そして今更ながらスマホを取り出して警察に連絡をしたんだ。本来だったら、溺れている子供を見つけたときにしてもよかったのに、なんで思いつかなかったんだろうな。
警察は捜索を開始してくれることになったが、夜の闇と雨が邪魔をして、なかなかはかどらないようだった。
湖に灯りを点(とも)した船が行き来しているのは、テレビで見たどこかの海の夜の漁みたいだったよ。
テントの中で、警察だかレスキュー隊だかから借りた毛布をかぶって、俺たちは震えていた。誰も、何も言わなかった。
ああ、S弥が「馬鹿が、馬鹿が」って時々呟いてたな。確かに本当に馬鹿だよな、A雄は。見ず知らずの子供助けたところで、せいぜいお礼の言葉をもらえるぐらいのモンで、いくらにもなりゃしないのに。
U美は、ずっとすすり泣いてたよ。
最初こそひょっとしたらと思っていたが、時間が経つにつれ、俺たちの間に諦めが広がっていった。
結局、A雄の死体は明け方に引き上げられた。
ダイバーがなんか合図してな。
察したU美が駆け寄ろうとしたんだが、警察に止められた。
俺は、A雄の死体がタンカに乗せられていくとき、ちらっと見たんだが、足首にあざがあったよ。ちょうど六歳くらいの男の子がつかんだような。
「あの、こんな時にすまないけど」
って声をかけてきたのは、おっさんの警官だった。
「なんでA雄君は湖に入って行ったんだい?」
俺が代表になって答えた。
子供が溺れているのを見つけたこと。A雄が助けに行ったこと。たぶん岸からそれほど遠いところではなかったから、いけると思ったんじゃないか、と。
それを聞いた警察は、(ああ、やっちまったな)って態度だった。
その態度にカチンときたのか、U美が詰め寄った。
「あの看板は一体何ですか? 男の子を助けちゃいけないって」
警官はくだらないことをするやつがいる、というように顔をしかめた。
「誰かのいたずらでしょう。このあたりの噂話ですよ。男の子の幽霊が出るって。バカらしい」
「バカらしい? A雄、足をつかまれてたじゃないか!」
俺は思わずそう叫んだ。
「あの湖の底には、流木や岩が沈んでいるんだよ。A雄君は溺れて足をばたつかせたせいで、ぶつけたんでしょ」
それが答えだった。
そんなことあるかと思ったよ。ばたつかせて足にぶつかる物があるなら、それに乗って顔を出しゃいいんだ。
そう思ったけど、それ以上何か言うのはやめた。警官の様子から、しらばっくれるのは分かり切っていたから。
え? 少年の死体?
そんなのはもちろん上がらなかったよ。
それがその人の語った話だった。
おそらくその少年は、昔その湖で溺れ死んだ霊なのだろう。それが仲間欲しさに罠を仕掛けているのだ。
誰にでも考えつくことを僕も考えた。どんな理由があるのか知らないが、警官を含めた地元の人はそれを隠そうとしているのだろう。
「面白い話を、どうもありがとうございました。僕のチャンネルはここですので、よろしければ。しばらくしたら、あなたの話も公開されるはずです」
僕はQRコードの印刷された名刺サイズの紙を渡そうとした。
「ああ、せっかくだからもらっていくか。ありがと」
男は財布を取り出して広げると、そのカードを入れる。そのままレジに向かって歩きだす。
その時、財布から小さな白い紙がはらりと落ち、僕の足元まで床をすべってきた。
ほとんど反射的に広いあげると、それはレシートだった。
「あの…」
声をかけようとした僕は、そのレシートの内容に固まった。
『〇×屋 男児ボーダーシャツ 赤×黒 ××円』
はじかれたように顔を上げると、男はもういなくなっていた。
(出会ったとき、あの人はなんて言っていた?)
『こぶ付きだとは思わなかった』
『つれ子が生意気』
男が言っていた言葉が、頭の中で再生される
もし、そのつれ子が六歳ほどの男の子だったら。
密かに連れ出して、湖に投げ込んだとしたら。
その子が溺れている間、運よく地元の人が通りすがったとして、あるいはもっと大胆に、自分の子供であることを伏せたまま、地元の人に助けをもとめたとして――
――誰か助けてくれる人はいるだろうか――
(ああ……)
襲ってきたゾクゾクとした感覚に、僕はため息をついた。
高そうなスーツをだらしなく着た、背の高い青年だった。学生の時は勉強よりも彼女づくりと遊びに力を入れていたんだろうな、という感じ。
僕は、その男のもとに歩いていった。
二十四時間営業のレストランは、深夜だけあって人が少ない。疲れた様子の男女がぽつぽつと座っているだけだ。時折テーブルの間を通る店員の動きも、どこかゆっくりとしている気がする。
そんな、相席の必要もない状況なのに隣に座ってきた僕を、男が不審な目で見るのも仕方がなかった。
「あ? なんだよ」
敵意がないことを示すために、僕はにっこりと笑顔を浮かべてみせた。
「すみません、ちょっといいですか。少しお話を聞きたくて」
僕の笑顔と小柄な体つきを見て、害のない奴だと思ったか、男は少し警戒を解いたようだった。
もっとも赤い顔して酒臭いから、単純に酔っていて警戒心が死んでるだけかも知れないけど。
「実は俺、動画配信をやってまして。人から聞いた怖い話を動画にして、公開しているんですよ。それっぽい画像と音楽をつけて。何か、題材になりそうな話、ありますか? もしあったら、録音させてもらえれば嬉しいんですが」
といっても、録音したものをそのまま流すわけではない。人は長めの話をすると、時系列が前後したり、意味は通じても文法的にはおかしい文をしゃべったりするものだ。
僕は話の内容を一切変えないまま、一度そういったものを修正して文章を作る。そして、それを朗読して動画にする。作り話ではなく、本当にあった話だというのが生々しいと、ファンも結構いるのだ。どれだけ広告収入があるかは、内緒にしておこう。
「もちろん匿名にしてプライバシーは……」
「怖い話? おお、あるよ、あるよ」
俺の言葉を遮りそうな勢いで、男は話し出した。
「実は俺、最近再婚したんだよ。いい女ゲットしたと思ったら、こぶ付きでさ。こっちはそんなの聞いてねえっての。騙して寄生しようってんだから、女って怖いよな。しかもその子供ってのが生意気で……」
「ああいや、そういう話じゃなくて」
今度は俺が相手の言葉を遮る番だった。
「霊的に怖い話が聞きたいんです。幽霊とか祟(たた)りとか、そういう奴」
「ああ、ああ、そういう奴ね。あるよ」
「本当に?」
俺はワクワクしながらスマホで録音する準備をした 。
不思議なもので、俺が話を聞こうと思った人は、必ず何かしら動画におあつらえ向きのた話を持っている。ひょっとしたら俺はそういう能力を持っているのかもしれない。
「かなり昔の話だけど、あのな……」
そう言って男は話し始めた。
それは俺が大学生の夏のことだった。
友人三人と、ある湖までキャンプに行ったんだ。青春の思い出作りってやつ。
ところが、高速道路で死人が出るほどのでっかい事故があったらしくてな。ひどい渋滞で、なかなか進まねえの。ず~っと並ぶ車のケツが見えるだけでさ。
おお、その事故現場の横も通ったぞ。救急車やら警察の車が来てたな。
で、着いたころにはもう夕方になりかけてたよ。大急ぎでテントを張ってさ。
本来なら、湖のほとりでバーベキューするはずだったんだが、そんな時間じゃなくなってた。
まあ、そうなる事は予想できてたからな。とりあえずは折りたたみの椅子と机を広げて、サービスエリアで買い込んだ弁当やおにぎりで夕食を済また。まぁ、酒も買ってきてたし、飯食いながら馬鹿話するのはなんのかんので楽しかったよ。
周りに誰もいねえから、思う存分大騒ぎできたし。え? シーズン中のキャンプ場で、他に人がいないなんてありえるのかって? 鋭いねえ。本来はキャンプ禁止のとこだったんだよ。もう昔のことだし、いいだろ。
夕食が終わる頃には辺りが暗くなってた。
周りの木は風が吹くたび化け物みたいに揺れた。湖は墨みたいに真っ暗で、水面にさざ波が鱗みたいに立っているのが見えた。大きな湖だったよ。それぐらいの時間になると、向こうの岸が見えないの。海水じゃないんだけど、水がたくさんあるところ独特の潮っぽい匂いがしたよ。
小さな電池式のランタンをテーブルに置いて、みんな集まっていたんだけど、なんだかみんなの顔が作り物みたく見えたよ。暗い中、弱い光源が一つしかなかったせいかな。
外見はキャンパスで見るいつものA雄とS弥、U美なんだけど、中身は彼らのふりをしたまったく別の生き物なんじゃないか、なんて馬鹿なことを考えてみたりしてね。
しばらく進路のこととか、誰と誰とがデキてるとか話してたんだが、何時ごろの事だったのかな。急に雨が降りだしたんだ。おまけにゴロゴロ雷まで鳴りだしたんだ。
俺たちは慌ててテントに戻ろうとした。
どこかで「わあ」とも「ああ」ともつかない、薄くて軽い悲鳴がした。
こっちも突然の雨で、「ひゃー」だの「降ってきた!」だの騒いでいたんだけど、その悲鳴で会話がピタッと止まった。この辺りには自分たちだけだと思ってたからな。思わず全員で顔見合わせたよ。
今にして思えば、そんな小さな声なんて聞こえるはずもなかったんだ。
雷は鳴ってたし、こっちは大声上げてたし。
でも、あの悲鳴は確かに聞こえたよ。それに、魚が連続で跳ねるような、バシャバシャという音も。
「あれ」
A雄が湖を指差した。
最初は暗いし湖が広いしで、あいつが何を指しているのかわからなかった
よく見ると、闇の中を落ちてくる雨に逆らうように水しぶきが上がっている。
その飛沫(しぶき)の中、シルエットになった小さな両手が、空気をつかもうとするようにうごめいている。ヘンテコな踊りを踊っているようだったな。
「誰か溺れてる」
雨はひどくなって、だんだんと服も濡れてきたけど、気にするどころじゃなかった。
A雄に続いて、みんなも湖の際(きわ)まで駆け寄った。
稲光が溺れている者を一瞬照らし出した。
六歳くらいの男の子だ。丸い顔に貼りつく黒い髪。伸ばした腕と、水面から見える襟元から、着ているのは赤と黒のボーダーシャツ。時折弱々しい叫び声を上げている。
少年が溺れているのは、ロープや浮き輪をなげても届かず、泳ぎの得意な者なら行けるか行けないか、という微妙な位置だった。これがもっと湖の中央部だったら、無理せず人を呼ぶなりボードを探すなりしたんだろうけど。
「どうする?」
S弥が聞いた。
「どうするって、行くしかないだろう!」
A雄は池に向かって走っていく。
S弥と俺がとめたけれど、A雄は聞きゃしない。そういえばあいつは正義感の強いやつだったからな。
U美が悲鳴をあげた。
俺の腕をつかんで揺さぶってくる。
「あれ、あれ見て!」
U美はヒステリックに叫び、そばの木を指差している。
また稲光が走って、木の根本に木製の看板があるのに気づいた。
ランタンで、文面を照らしだす。
そこには長い時間でかすれた墨の字で、こう書かれていた。
『もしこの湖で赤と黒のボーダーシャツを着た、六歳ほどの男の子が溺れていても、決して助けに行かないでください。湖管理組合』
「この看板にあるの、あの男の子だよね」
U美はもう半泣きだったよ。
「俺に聞くなよ!」
パニックを起こしていたからな。俺はU美に八つ当たりしてそう怒鳴りつけた。
(あの男の子を助けるな? なんで? あの男の子って何者なんだ?)
いろいろな考えが頭の中をぐるぐる回った。
こういった看板があるということは、この湖ではたびたび同じ男の子が溺れていることになる。そして、助けに行った者はろくなことにならない、と。そんなことってあるものか?
「ああ!」
焦ったS弥の声に、湖に視線を戻すと、上っている飛沫はだいぶ小さくなっている。
少年の頭も腕も、前よりも沈んでいるように見えた。
稲光のなか、A雄の泳ぐ姿が見えた。
「おい、A雄、戻れ! 戻れって!」
S弥が片手で看板を指し、もう片手で手招きしながら叫ぶ。が、もちろん背を向けて泳いでいるA雄に見えるはずがない。まあ、もし見えていたとしてもA雄のことだ。目の前の溺れている子供を見捨てても戻るなんてしなかったんじゃないかな。あの看板の文章を読んでいたとしてもね。
A雄は、もう少しで少年に手が届くと言う所まで来た。男の子の位置がよく見えるようにするためか、クロールから平泳ぎに切り替え、男の子になおも近づいていく。遠いし、木の葉に落ちる雨の音で内容は聞こえなかったが、何か言ってるみたいだったな。
男の子をつかもうと、A雄は手を伸ばした。
その瞬間、男の子がニヤリと笑った。あの暗闇でどうしてその表情が見えたのかわからない。こう、片方だけ口を吊り上げてな。普通の子供がする表情じゃない。さんざん踏み付けにされたもんで、人の不幸を願うことしかできなくなった奴が浮かべるような顔だよ、あれは。不気味だった。
そしたら、男の子の姿が突然消えた。ほんとにもう、突然。テレビの電源を落としたっていうか、立体映像のスイッチを切ったみたいだった。
同時にA雄の姿が水面に沈んで姿が見えなくなった。
その時初めて催眠から覚めたみたいに、俺たちはハッとした。
そして今更ながらスマホを取り出して警察に連絡をしたんだ。本来だったら、溺れている子供を見つけたときにしてもよかったのに、なんで思いつかなかったんだろうな。
警察は捜索を開始してくれることになったが、夜の闇と雨が邪魔をして、なかなかはかどらないようだった。
湖に灯りを点(とも)した船が行き来しているのは、テレビで見たどこかの海の夜の漁みたいだったよ。
テントの中で、警察だかレスキュー隊だかから借りた毛布をかぶって、俺たちは震えていた。誰も、何も言わなかった。
ああ、S弥が「馬鹿が、馬鹿が」って時々呟いてたな。確かに本当に馬鹿だよな、A雄は。見ず知らずの子供助けたところで、せいぜいお礼の言葉をもらえるぐらいのモンで、いくらにもなりゃしないのに。
U美は、ずっとすすり泣いてたよ。
最初こそひょっとしたらと思っていたが、時間が経つにつれ、俺たちの間に諦めが広がっていった。
結局、A雄の死体は明け方に引き上げられた。
ダイバーがなんか合図してな。
察したU美が駆け寄ろうとしたんだが、警察に止められた。
俺は、A雄の死体がタンカに乗せられていくとき、ちらっと見たんだが、足首にあざがあったよ。ちょうど六歳くらいの男の子がつかんだような。
「あの、こんな時にすまないけど」
って声をかけてきたのは、おっさんの警官だった。
「なんでA雄君は湖に入って行ったんだい?」
俺が代表になって答えた。
子供が溺れているのを見つけたこと。A雄が助けに行ったこと。たぶん岸からそれほど遠いところではなかったから、いけると思ったんじゃないか、と。
それを聞いた警察は、(ああ、やっちまったな)って態度だった。
その態度にカチンときたのか、U美が詰め寄った。
「あの看板は一体何ですか? 男の子を助けちゃいけないって」
警官はくだらないことをするやつがいる、というように顔をしかめた。
「誰かのいたずらでしょう。このあたりの噂話ですよ。男の子の幽霊が出るって。バカらしい」
「バカらしい? A雄、足をつかまれてたじゃないか!」
俺は思わずそう叫んだ。
「あの湖の底には、流木や岩が沈んでいるんだよ。A雄君は溺れて足をばたつかせたせいで、ぶつけたんでしょ」
それが答えだった。
そんなことあるかと思ったよ。ばたつかせて足にぶつかる物があるなら、それに乗って顔を出しゃいいんだ。
そう思ったけど、それ以上何か言うのはやめた。警官の様子から、しらばっくれるのは分かり切っていたから。
え? 少年の死体?
そんなのはもちろん上がらなかったよ。
それがその人の語った話だった。
おそらくその少年は、昔その湖で溺れ死んだ霊なのだろう。それが仲間欲しさに罠を仕掛けているのだ。
誰にでも考えつくことを僕も考えた。どんな理由があるのか知らないが、警官を含めた地元の人はそれを隠そうとしているのだろう。
「面白い話を、どうもありがとうございました。僕のチャンネルはここですので、よろしければ。しばらくしたら、あなたの話も公開されるはずです」
僕はQRコードの印刷された名刺サイズの紙を渡そうとした。
「ああ、せっかくだからもらっていくか。ありがと」
男は財布を取り出して広げると、そのカードを入れる。そのままレジに向かって歩きだす。
その時、財布から小さな白い紙がはらりと落ち、僕の足元まで床をすべってきた。
ほとんど反射的に広いあげると、それはレシートだった。
「あの…」
声をかけようとした僕は、そのレシートの内容に固まった。
『〇×屋 男児ボーダーシャツ 赤×黒 ××円』
はじかれたように顔を上げると、男はもういなくなっていた。
(出会ったとき、あの人はなんて言っていた?)
『こぶ付きだとは思わなかった』
『つれ子が生意気』
男が言っていた言葉が、頭の中で再生される
もし、そのつれ子が六歳ほどの男の子だったら。
密かに連れ出して、湖に投げ込んだとしたら。
その子が溺れている間、運よく地元の人が通りすがったとして、あるいはもっと大胆に、自分の子供であることを伏せたまま、地元の人に助けをもとめたとして――
――誰か助けてくれる人はいるだろうか――
(ああ……)
襲ってきたゾクゾクとした感覚に、僕はため息をついた。
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