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第六章 音楽室と楽譜(後)
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「確かに、この人しかいないわ」
手を振り払った亜矢を、紅子がにらみつけた。そして小憎らしいほど冷静言う。
「私達は、悲鳴が聞こえたあとすぐに準備室にむかったのよ。文字の部分だけ白く残して、他を赤く塗るなんて、こんなの短時間でできるわけない。あなたは後から入って来たわよね」
「つまり、あんた達がいなくなった後で、私がこの字を書いてから準備室に行ったんだろって言いたいの?」
確かに、紅子達が亜矢に気がついたのは、亜矢が準備室に駆けつけたからしばらくしてからだ。勘違いされても仕方ない。
「冗談じゃない。私だって悲鳴が聞こえてすぐ行ったわよ」
「どうやってそれを証明するのよ。それに、誰がやったって言うの!?」
「え、そ、それは……」
どこかにヒントが隠れていないかと、亜矢は音楽室を見回した。その時見つけた――ジュウタンの切れ目。そういえば、雅はここを爪先でいじっていた。この切れ目を使えば、まくり上げるより早くジュウタンの下から楽譜を出入れできるはず。
「そう、雅がやったのよ!」
「はあ?!」
思い切り目を丸くしてから、雅は亜矢を睨み付ける。
「なんでそうなんのよ!」
「あんたはヒメカが持っているのと同じ楽譜を用意した。クラスメイトなら、何日もかけてスキを探して、ヒメカの楽譜をコピーする事もできるでしょ。そしてそれにあらかじめ字を書いておいたのよ。それをジュウタンの下に隠していた」
ビシッとジュウタンを指差す。
「そして、私達が悲鳴に気を取られた時にすり替えた! あんた、浦澤の事が好きなんでしょ? 動機が合って、ヒメカと同じクラスなのは、雅しかいない!」
束になった楽譜は、折り畳んでポケットに入れるにはかさばる。もし亜矢の予想が正しいなら、ここにヒメカの楽譜が隠されているはずだ。
亜矢は、ジュウタンをめくりあげた。
「あ、あれ?」
その下には、少し歪んだ木のタイルが並んでいるだけで、何も怪しい物はない。
「雅は一番最初に準備室へ着いたんだぜ? ごそごそやってる暇はなかったさ」
浦澤が呆れた口調で言った。
「それに、私今朝楽譜に色々書き込んだからすり替えらたら分かると思うけど」
ヒメカは少し申し訳なさそうに言った。
床を指差した格好で引っ込みがつかなくなった亜矢の横で、レイがどうどうと楽譜をのぞき込んでいる。
「なんか、これ湿ってるみたいだな」
それを聞いた途端、亜矢は急に犯人が分かってしまった。
(でも、まさか……そんな事ってありえるかしら)
公園で、ヒメカが言っていた言葉がよみがえった。
『浦澤君と別れるなんてできない』
ヒメカは本当に彼が好きなのに。
小声でレイを呼び寄せる。
「ねえ、レイ。前は関係ないと思って聞き逃しちゃってたけど、浦澤は何を買ったって言ったっけ?」
はっ、とレイが驚いて息を呑んだ。
「小さなスプレー、それに暗記用のペンだ! ほら、赤いマーカーで塗った奴を、緑の下敷きで隠すと塗り潰される奴! あれ!」
(やっぱりそうだ……!)
やっぱり、ストーカーの犯人は浦澤だった。浦澤は、自分の事を好きだと言ってくれる奴を裏切って、嫌がらせをしていた。
「何をブツブツ言っているのよ」
雅に、亜矢は冷ややかな目をむけた。
「推理してたのよ。ホームズばりにね」
視線の温度を下げる事なく、亜矢は浦澤の方に目をむけた。
「ポケットの中、見せてくれない?」
「は? 何でだよ」
彼はギョッとした表情を隠そうとしなかった。
「何か、スプレーのような物があるはずよ。旅行の時に化粧水を入れて持って行くような物が」
亜矢はビシィッと浦澤を指差した。
「いい加減にして!」
声をあげたのはヒメカだった。
「彼がそんな事するわけないじゃない!」
「でも、それしか考えられないのよ。確かに文字を白抜きで残したまま楽譜を塗り潰すのは難しいわ。犯人は、やっぱりあらかじめ楽譜に文字を書いておいたのよ。でも、すり替えたわけじゃない」
「どういう事だ?」
レイを含めて五人は亜矢を見つめた。
探偵がなんでわざわざ大広間に全員を集めてから犯人を指摘するのか分かった気がする。きっと注目されて気持ちいいからだ。
「たぶん、スキを見てヒメカの楽譜に文字を書いたのよ。赤マーカーを消すための透明なペンの方で。よく考えれば、クラスメイトでなくてもつきあってる浦澤ならヒメカの楽譜に落書きできるでしょう」
浦澤は無言で亜矢を見つめた。
「そして赤いマーカーのインクを溶かしたスプレーに入れておくの。後は悲鳴で皆の注意がそれたのを見計らって、それを吹き付ければいい。そうすれば、あらかじめ透明ペンで塗ってある所だけ色が変わらず白抜きになるってわけ」
「でたらめよ!」
叫んだのはヒメカだった。
「どうして浦澤君がそんな事しなきゃならないのよ!」
「そうだよ」
しばらく黙って亜矢を見つめていた浦澤が、口を開いた。よくわかったな、とでも言いたそうに。
「まあ、ばれてしまったら仕方ないからな」
浦澤はポケットからスプレーを取り出した。亜矢の言った通り、赤い水が半分ほど入っている。
「どうして?」
怒るというよりも呆然としたようにヒメカが言った。
「なんでって、あれだけでかく書いてあれば分かるだろ」
浦澤は視線で楽譜を指した。そして、決定的な言葉を口にする。
「お前と別れたいんだよ!」
ヒメカの目から、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちた。そんなヒメカに心を動かされた様子もなく、浦澤は淡々と言った。
「他に好きな奴ができたからさ。それとなく分かれようと思ったけどさ、お前ニブいんだもん」
心当たりは一人しかいない。
(ユリの事か……)
「脅迫状を送ったのも、あんた?」
なんだか妙に疲れた気分で、亜矢は聞いた。
「知らない奴に脅されたら、恐がってヒメカの方から別れてくれって言ってくるかと思ったんだよ。俺から切り出したら恨まれそうだからな。それに、そんな理由でヒメカをフッったなんて事が広がったら、評判悪くなりそうだし」
(確か、ヒメカは辛い時にずっと一緒にいてくれたから浦澤が好きになったって言ってたっけ……風邪をひくくらいずっとそばにいてくれたって)
亜矢は改めて浦澤を見つめた。酷薄な、どこか人をバカにしているような笑顔を見ていると、そんなことをしたとは信じられない気がした。
浦澤の言葉を聞いた紅子が、浦澤に詰め寄った。
「自分が恨まれたくないから、脅して分かれようとしたっていうわけ?」
「ああ」
(もしも浦澤が犯人だったらおもしろいとは言ったけど……)
亜矢は、自分がどこかで浦澤が裏切っていない事を期待していたのに気がついた。やっぱり信頼とか愛みたいな物はそうそう壊れる物ではないんだと、納得させてくれるだけの証拠が欲しかった。
『こっちを信じている人間を、そうそう裏切ったりできないもんさ。きっと何か理由があるんだよ』
レイがそんな事を言っていたのを思い出す。どこかでその言葉が本当だと信じたかった。けれど。
「思った通りだわ」
どこか勝ち誇った口調で亜矢が言った。やっぱり、人なんて信じるものではない。
手が無意識に胸に伸びて、服の下のペンダントに触れた。レイを裏切るための札に。
「恋人ったって、そんなもんでしょう。結局、私の方が正しかったじゃないの」
ねえ、とレイに同意を求めたけれど、彼は黙って浦澤を見ているだけだ。しかも、何やら深刻そうに。
「じゃあな、そういう事なんで」
浦澤は軽く左手を振って廊下へ出て行った。ヒメカ達は、まるで石化の魔法でもかけられたように固まっている。
「ねえ、亜矢。アイツを追ってくれ」
浦澤から目を話さないまま、レイが言った。
「え?」
「いや、今まで見ていたんだけどさ……あいつ、ひょっとして……」
レイは自分の考えを亜矢に話した。
「え? それマジで?!」
レイに言われるまま、亜矢は廊下へ飛び出していった。それに気づいて浦澤が振り返る。
「ねえ、あんた。本当に好きな人ができたの?」
あ? なんで今更そんな事を聞くんだ?」
亜矢は、浦澤の手にちらりと目を走らせた。彼はお行儀悪くポケットに両手を突っ込んでいる。
「ねえ、右手、ちょっと見せてくれない?」
「え? どうしてだよ」
少したじろいだように浦澤はあとずさった。
「いいから!」
亜矢はむりやり浦澤の右手をポケットから引っ張り出した。
浦澤の人差し指の皮が、少しむけていた。蒼くあざにもなっているようで、痛々しい。
「ヒメカが驚いて楽譜を払いのけて、ピアノのフタが閉じた時、あんたとっさにかばったわよね。その時についた物でしょ? 普通、嫌いになった奴にそんな事する?」
「さあね。たまたまフタの下に俺の手があっただけ……」
「ふうん」
じいっと亜矢は浦澤をみつめる。
仕事とはいえ、ここまでかかわったのだから、ごまかした答えで満足する気はなかった。
亜矢の覚悟が伝わったのか、浦澤は諦めたようにため息をついた。
「あいつは、俺がいない方がいいんだ」
フッと自嘲気味に浦澤は笑った。
「あいつは、俺と一緒の高校に行くって言うんだ。音大付属諦めて」
「そういえば、そんな事言ってたわね。でも、それもったいない!」
ヒメカの弾いていた旋律がよみがえった。からまないのが不思議なほど華麗に動く指。
「だろ?」
思わず言った亜矢の言葉に、嬉しそうに浦澤が言った。
「あいつは俺が別れ話を切り出しても聞くような奴じゃないからな。わけの分からない奴に脅されれば、びびってむこうから別れて欲しい、と言ってくるかと思ったんだよ。あいつの才能を俺のせいでつぶしてたまるか」
その言葉に、亜矢はバカみたいにパチパチと目をしばたかせた。
「え、じゃあ、あんたヒメカのために……ヒメカが夢を追えるように?」
確かに、ヒメカを付け回したり脅迫状を送り付けていたのは浦澤だったのだ。ただし、その動機は彼女の事を想っての事だったけれど。
なぜか、胸にかけた『強制霊成仏機バイバイ君』がまた重くなった気がした。
レイが着物の裾を揺らしながらふわふわと近付いてきた。
「ユリとかいう女の子の事は?」
亜矢のその言葉に、浦澤は少しギョッとしたようだった。
「なんでユリの事を知ってるんだ? なんか気にいられたみたいで。言い寄られてちょっと迷惑してるんだよ」
「な、言った通りだろ」
妙に穏やかな口調だった。
「こいつの場合は極端だけど、仲良しこよしだけが愛情表現ってわけじゃないさ。信頼だって眼に見えるわけじゃないし」
「ふん、何よ偉そうに」
亜矢が鼻を鳴らした。
「それにしても、あの楽譜の仕掛け、あっさり見抜かれちまったな。ここ数日、ずっと家のこもってトリックを考えていたんだぜ」
浦澤がポケットから携帯を取り出して、肩の高さに掲げてみせる。
「まあ、後できちんとわけを話して謝っておくさ。こうなったらもう、恨まれないなんて無理だろうし。どうせ、お前の口からヒメカにはバレちまうだろ」
チャラッと音を立ててストラップが揺れた。模様化された花をかたどった銀のストラップ。
「あああああ!」
レイが急にあげた悲鳴で、亜矢までつられて声をあげそうになった。
「な、なに! どうしたの!」
「あのストラップ、見た事ある!」
「ええ?!」
亜矢は慌てて浦澤を追った。
「それ! そのストラップ見せて!」
いきなり携帯をむしり取った亜矢に、びっくりしたようだった。
「ヒメカからもらったんだよ。どこかの店でただでもらったものらしい。結構格好よかったんでつけてるんだけど、それがどうかしたか?」
手を振り払った亜矢を、紅子がにらみつけた。そして小憎らしいほど冷静言う。
「私達は、悲鳴が聞こえたあとすぐに準備室にむかったのよ。文字の部分だけ白く残して、他を赤く塗るなんて、こんなの短時間でできるわけない。あなたは後から入って来たわよね」
「つまり、あんた達がいなくなった後で、私がこの字を書いてから準備室に行ったんだろって言いたいの?」
確かに、紅子達が亜矢に気がついたのは、亜矢が準備室に駆けつけたからしばらくしてからだ。勘違いされても仕方ない。
「冗談じゃない。私だって悲鳴が聞こえてすぐ行ったわよ」
「どうやってそれを証明するのよ。それに、誰がやったって言うの!?」
「え、そ、それは……」
どこかにヒントが隠れていないかと、亜矢は音楽室を見回した。その時見つけた――ジュウタンの切れ目。そういえば、雅はここを爪先でいじっていた。この切れ目を使えば、まくり上げるより早くジュウタンの下から楽譜を出入れできるはず。
「そう、雅がやったのよ!」
「はあ?!」
思い切り目を丸くしてから、雅は亜矢を睨み付ける。
「なんでそうなんのよ!」
「あんたはヒメカが持っているのと同じ楽譜を用意した。クラスメイトなら、何日もかけてスキを探して、ヒメカの楽譜をコピーする事もできるでしょ。そしてそれにあらかじめ字を書いておいたのよ。それをジュウタンの下に隠していた」
ビシッとジュウタンを指差す。
「そして、私達が悲鳴に気を取られた時にすり替えた! あんた、浦澤の事が好きなんでしょ? 動機が合って、ヒメカと同じクラスなのは、雅しかいない!」
束になった楽譜は、折り畳んでポケットに入れるにはかさばる。もし亜矢の予想が正しいなら、ここにヒメカの楽譜が隠されているはずだ。
亜矢は、ジュウタンをめくりあげた。
「あ、あれ?」
その下には、少し歪んだ木のタイルが並んでいるだけで、何も怪しい物はない。
「雅は一番最初に準備室へ着いたんだぜ? ごそごそやってる暇はなかったさ」
浦澤が呆れた口調で言った。
「それに、私今朝楽譜に色々書き込んだからすり替えらたら分かると思うけど」
ヒメカは少し申し訳なさそうに言った。
床を指差した格好で引っ込みがつかなくなった亜矢の横で、レイがどうどうと楽譜をのぞき込んでいる。
「なんか、これ湿ってるみたいだな」
それを聞いた途端、亜矢は急に犯人が分かってしまった。
(でも、まさか……そんな事ってありえるかしら)
公園で、ヒメカが言っていた言葉がよみがえった。
『浦澤君と別れるなんてできない』
ヒメカは本当に彼が好きなのに。
小声でレイを呼び寄せる。
「ねえ、レイ。前は関係ないと思って聞き逃しちゃってたけど、浦澤は何を買ったって言ったっけ?」
はっ、とレイが驚いて息を呑んだ。
「小さなスプレー、それに暗記用のペンだ! ほら、赤いマーカーで塗った奴を、緑の下敷きで隠すと塗り潰される奴! あれ!」
(やっぱりそうだ……!)
やっぱり、ストーカーの犯人は浦澤だった。浦澤は、自分の事を好きだと言ってくれる奴を裏切って、嫌がらせをしていた。
「何をブツブツ言っているのよ」
雅に、亜矢は冷ややかな目をむけた。
「推理してたのよ。ホームズばりにね」
視線の温度を下げる事なく、亜矢は浦澤の方に目をむけた。
「ポケットの中、見せてくれない?」
「は? 何でだよ」
彼はギョッとした表情を隠そうとしなかった。
「何か、スプレーのような物があるはずよ。旅行の時に化粧水を入れて持って行くような物が」
亜矢はビシィッと浦澤を指差した。
「いい加減にして!」
声をあげたのはヒメカだった。
「彼がそんな事するわけないじゃない!」
「でも、それしか考えられないのよ。確かに文字を白抜きで残したまま楽譜を塗り潰すのは難しいわ。犯人は、やっぱりあらかじめ楽譜に文字を書いておいたのよ。でも、すり替えたわけじゃない」
「どういう事だ?」
レイを含めて五人は亜矢を見つめた。
探偵がなんでわざわざ大広間に全員を集めてから犯人を指摘するのか分かった気がする。きっと注目されて気持ちいいからだ。
「たぶん、スキを見てヒメカの楽譜に文字を書いたのよ。赤マーカーを消すための透明なペンの方で。よく考えれば、クラスメイトでなくてもつきあってる浦澤ならヒメカの楽譜に落書きできるでしょう」
浦澤は無言で亜矢を見つめた。
「そして赤いマーカーのインクを溶かしたスプレーに入れておくの。後は悲鳴で皆の注意がそれたのを見計らって、それを吹き付ければいい。そうすれば、あらかじめ透明ペンで塗ってある所だけ色が変わらず白抜きになるってわけ」
「でたらめよ!」
叫んだのはヒメカだった。
「どうして浦澤君がそんな事しなきゃならないのよ!」
「そうだよ」
しばらく黙って亜矢を見つめていた浦澤が、口を開いた。よくわかったな、とでも言いたそうに。
「まあ、ばれてしまったら仕方ないからな」
浦澤はポケットからスプレーを取り出した。亜矢の言った通り、赤い水が半分ほど入っている。
「どうして?」
怒るというよりも呆然としたようにヒメカが言った。
「なんでって、あれだけでかく書いてあれば分かるだろ」
浦澤は視線で楽譜を指した。そして、決定的な言葉を口にする。
「お前と別れたいんだよ!」
ヒメカの目から、ぽろぽろ涙がこぼれ落ちた。そんなヒメカに心を動かされた様子もなく、浦澤は淡々と言った。
「他に好きな奴ができたからさ。それとなく分かれようと思ったけどさ、お前ニブいんだもん」
心当たりは一人しかいない。
(ユリの事か……)
「脅迫状を送ったのも、あんた?」
なんだか妙に疲れた気分で、亜矢は聞いた。
「知らない奴に脅されたら、恐がってヒメカの方から別れてくれって言ってくるかと思ったんだよ。俺から切り出したら恨まれそうだからな。それに、そんな理由でヒメカをフッったなんて事が広がったら、評判悪くなりそうだし」
(確か、ヒメカは辛い時にずっと一緒にいてくれたから浦澤が好きになったって言ってたっけ……風邪をひくくらいずっとそばにいてくれたって)
亜矢は改めて浦澤を見つめた。酷薄な、どこか人をバカにしているような笑顔を見ていると、そんなことをしたとは信じられない気がした。
浦澤の言葉を聞いた紅子が、浦澤に詰め寄った。
「自分が恨まれたくないから、脅して分かれようとしたっていうわけ?」
「ああ」
(もしも浦澤が犯人だったらおもしろいとは言ったけど……)
亜矢は、自分がどこかで浦澤が裏切っていない事を期待していたのに気がついた。やっぱり信頼とか愛みたいな物はそうそう壊れる物ではないんだと、納得させてくれるだけの証拠が欲しかった。
『こっちを信じている人間を、そうそう裏切ったりできないもんさ。きっと何か理由があるんだよ』
レイがそんな事を言っていたのを思い出す。どこかでその言葉が本当だと信じたかった。けれど。
「思った通りだわ」
どこか勝ち誇った口調で亜矢が言った。やっぱり、人なんて信じるものではない。
手が無意識に胸に伸びて、服の下のペンダントに触れた。レイを裏切るための札に。
「恋人ったって、そんなもんでしょう。結局、私の方が正しかったじゃないの」
ねえ、とレイに同意を求めたけれど、彼は黙って浦澤を見ているだけだ。しかも、何やら深刻そうに。
「じゃあな、そういう事なんで」
浦澤は軽く左手を振って廊下へ出て行った。ヒメカ達は、まるで石化の魔法でもかけられたように固まっている。
「ねえ、亜矢。アイツを追ってくれ」
浦澤から目を話さないまま、レイが言った。
「え?」
「いや、今まで見ていたんだけどさ……あいつ、ひょっとして……」
レイは自分の考えを亜矢に話した。
「え? それマジで?!」
レイに言われるまま、亜矢は廊下へ飛び出していった。それに気づいて浦澤が振り返る。
「ねえ、あんた。本当に好きな人ができたの?」
あ? なんで今更そんな事を聞くんだ?」
亜矢は、浦澤の手にちらりと目を走らせた。彼はお行儀悪くポケットに両手を突っ込んでいる。
「ねえ、右手、ちょっと見せてくれない?」
「え? どうしてだよ」
少したじろいだように浦澤はあとずさった。
「いいから!」
亜矢はむりやり浦澤の右手をポケットから引っ張り出した。
浦澤の人差し指の皮が、少しむけていた。蒼くあざにもなっているようで、痛々しい。
「ヒメカが驚いて楽譜を払いのけて、ピアノのフタが閉じた時、あんたとっさにかばったわよね。その時についた物でしょ? 普通、嫌いになった奴にそんな事する?」
「さあね。たまたまフタの下に俺の手があっただけ……」
「ふうん」
じいっと亜矢は浦澤をみつめる。
仕事とはいえ、ここまでかかわったのだから、ごまかした答えで満足する気はなかった。
亜矢の覚悟が伝わったのか、浦澤は諦めたようにため息をついた。
「あいつは、俺がいない方がいいんだ」
フッと自嘲気味に浦澤は笑った。
「あいつは、俺と一緒の高校に行くって言うんだ。音大付属諦めて」
「そういえば、そんな事言ってたわね。でも、それもったいない!」
ヒメカの弾いていた旋律がよみがえった。からまないのが不思議なほど華麗に動く指。
「だろ?」
思わず言った亜矢の言葉に、嬉しそうに浦澤が言った。
「あいつは俺が別れ話を切り出しても聞くような奴じゃないからな。わけの分からない奴に脅されれば、びびってむこうから別れて欲しい、と言ってくるかと思ったんだよ。あいつの才能を俺のせいでつぶしてたまるか」
その言葉に、亜矢はバカみたいにパチパチと目をしばたかせた。
「え、じゃあ、あんたヒメカのために……ヒメカが夢を追えるように?」
確かに、ヒメカを付け回したり脅迫状を送り付けていたのは浦澤だったのだ。ただし、その動機は彼女の事を想っての事だったけれど。
なぜか、胸にかけた『強制霊成仏機バイバイ君』がまた重くなった気がした。
レイが着物の裾を揺らしながらふわふわと近付いてきた。
「ユリとかいう女の子の事は?」
亜矢のその言葉に、浦澤は少しギョッとしたようだった。
「なんでユリの事を知ってるんだ? なんか気にいられたみたいで。言い寄られてちょっと迷惑してるんだよ」
「な、言った通りだろ」
妙に穏やかな口調だった。
「こいつの場合は極端だけど、仲良しこよしだけが愛情表現ってわけじゃないさ。信頼だって眼に見えるわけじゃないし」
「ふん、何よ偉そうに」
亜矢が鼻を鳴らした。
「それにしても、あの楽譜の仕掛け、あっさり見抜かれちまったな。ここ数日、ずっと家のこもってトリックを考えていたんだぜ」
浦澤がポケットから携帯を取り出して、肩の高さに掲げてみせる。
「まあ、後できちんとわけを話して謝っておくさ。こうなったらもう、恨まれないなんて無理だろうし。どうせ、お前の口からヒメカにはバレちまうだろ」
チャラッと音を立ててストラップが揺れた。模様化された花をかたどった銀のストラップ。
「あああああ!」
レイが急にあげた悲鳴で、亜矢までつられて声をあげそうになった。
「な、なに! どうしたの!」
「あのストラップ、見た事ある!」
「ええ?!」
亜矢は慌てて浦澤を追った。
「それ! そのストラップ見せて!」
いきなり携帯をむしり取った亜矢に、びっくりしたようだった。
「ヒメカからもらったんだよ。どこかの店でただでもらったものらしい。結構格好よかったんでつけてるんだけど、それがどうかしたか?」
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