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世界を超える腕時計
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「残念ですが、もう、奥様は……」
そう言って、白髪の混ざった頭の医者は首を横に振った。
「そんな、何かの間違いですよ」
白い部屋の中にぽつんと置かれた、白いベットの上に横たわっている彼女は、眠っているようだ。その口元には微笑みが浮かんでいる。「ああ、よく寝た」なんてのんびりとした声で、いつもの朝みたいに言い出しそうな顔をしているのに。
嘘だ。そんなの、絶対信じない。
「梨奈、起きてよ」
触れてしまったら、現実を受け入れなければいけなくなってしまうから、僕は梨奈の体に触れることが出来ないでいた。
もう、起きてこないだなんて。
これは、絶対になにかの間違いだ。
「昨日まであんなに元気そうにしていたのに、なんでこんな事になってしまうんだよ」
奥歯をギュッと噛み締めても、涙が次から次へこぼれてくる。
「現在の医療ではどうにもなりません。突発性のものですから、事前に察知できなかったことも」
「それでも!」
つい、大きな声で叫んでしまう。掴みかかりそうになるのをぐっとこらえて、もう一度言い直す。
「それでも、生きていてほしかったんです」
その言葉に医者は返さず、そのまま部屋を出ていった。脇に控えていた若い看護師が恐る恐る話しかけてくる。
「霊安室に移動させるのはもう少しあとにしましょうか」
「ああ、そうしてくれ」
白い箱の中には、僕と梨奈だけが取り残された。
灰色で埋め尽くされた空は、まるで今の僕の心の中のようだ。嵐のようにガラス窓に大粒の雨が叩きつけられる。
「ずっと一緒にいるって、約束してくれたじゃないか。なんで先に、しかもこんなに早くだなんて」
去年挙式を上げたばかりの僕らの左手の薬指には、よく磨かれているお揃いのプラチナの細いリングが嵌っている。梨奈が「このデザインが一番好きなの」って言って買ったリングは、僕らの永遠の証だった筈なのに。
お揃いのものといえば、この腕時計だってそうだ。
付き合って二回目の誕生日に梨奈が僕にくれたもの。文字盤の色は深い青緑。僕が大好きな色だ。その上にローマ数字で四つだけ数字が書いてある。針の色は文字の色と同じ、青がかった銀色。紺色の革でできた太めのベルトがついていたそれは、どこにでも売っていそうなアナログ式の腕時計。それでも、デザインが僕の好みにぴったりで、梨奈が選んで買ってくれたことが何よりも嬉しかった。「実は、同じものを買っちゃったの」って、全く同じデザインの腕時計がその白くて細くい手首に巻かれているのを自慢気に見せてくれたっけ。
その頃を懐かしむように、文字盤を覆うガラスをゆっくりと指でなぞる。
「パラレルワープモードを開始しますか?」
機械のような、感情の籠もっていない平坦な声がした。
「誰だ?」
「パラレルワープモードを開始しますか?」
その声はさっきと同じ言葉を繰り返した。
「誰がいるんだ!」
叫んでも、誰も出てこない。そして、僕の耳が間違っていなければ、その声はこの時計から聞こえた。なんの変哲もないアナログ式の腕時計がそんなことを話すはずがない。これが最新の電子時計なら話は違うが、そもそもこれをもらったのは今から十年近く前のことだ。当時は音声認識の精度も低かったし、そんなにあちらこちらに音声認識のものはなかった。勿論、腕時計に音声認識の何かがついているものなんて、あの頃はなかったはずだ。あったとしても、庶民である僕や梨奈の手元には届くはずがない。
「こちら、パラレルワープアシストシステムです。サポートガイドは次のリンクにアクセスしてください。すべて小文字で入力してくださいH、T、T」
なにかのウエブサイトだろうか。こんな変なことに付き合ってなんかいられない、と思ったが、僕はスマホを取り出してその言われたリンクをブラウザ上に打ち込んでいた。
もしかしたら、何かあるかもしれない。そう思わせてくるのはやはり、この腕時計をくれたのが梨奈で、梨奈とおそろいの腕時計だからだろうか。
「サポートガイドへのアクセスを確認しました」
スマホの画面上には、何かの説明書のようなものが出てきた。そのタイトルを見て僕は眉をひそめた。
「G-00 pirum sachika使用方法?」
この読み方もよくわからないし、もしかしたら何かの暗号なのかもしれない。でも、そんなことを気にしてはいられなかったので読みすすめる。
*****
つまり、この時計は実は天才科学者だった今は亡き梨奈のお爺さんが、俺にもしものことがあったら梨奈が悲しむだろうと思ってつくった超トンデモシステムを備えた時計らしい。作動条件は所有者のどちらかが命を落としてから三十分後以降で、文字盤をなでた時。だからあの時、いきなり機械の声が流れ出したということだったらしい。
そして肝心の「パラレルワープ」とは、いくつもある並行世界の向こう側にワープできるとかいう機能らしい。どんなトンデモ機能だよ、と、心のなかでツッコんでしまう。
平行世界。それは、いくつもある「もしも」の分岐点を違う方向に曲がった世界。だからこの時計を使えば、「梨奈が突発性の病気なんて持っていなかった世界」に行くことが出来るのだ。
そこでもう一度やり直すことが出来るということらしい。
「使う、か……?」
今すぐ生きている梨奈に会いたい。そうしてまた、幸せな日々を送りたい。
おはようのキスをして、色違いのマグカップで朝ごはんのコーヒーを飲む。何もしないで手をつないだまま家の中で一日を過ごしたり、くだらない話で笑い合ったりしていたい。
梨奈はこのシステムのことを知っていたのだろうか。
もう一度画面に表示された説明書を読む。最後まで読んで、もう何も書いていないかと空白の部分をタッチすると、いきなり画面が切り替わった。この先に飛ぶことが出来るリンクでも貼ってあったのだろうか。
画像が表示される。それは、梨奈の筆跡で書かれたメッセージだった。
「トモくんへ。何かあったら使ってね。私はこの腕時計にパラレルワープのシステムをおじいちゃんに付けてもらってからトモくんに渡したの。黙っていてごめん。だって、私に何かあった時にトモくんが一人で悲しむのは嫌だもん。でも、私以外の人と仲良くなるのは乙女心的にアウトだからさ。でもね、私ならいいかなって。トモくんなら別の世界にいる私ともうまくやると思うんだ。だって、私は私だから絶対トモくんのこと好きになると思うんだよね。どうか、幸せになって。この世界の私と出会ってくれて、好きになってくれて、一緒にいてくれて、ありがとう。愛してる」
雨はいつの間にか上がっていて、雲の隙間から青空が見えていた。
「そうだ、僕は……」
涙を拭いて、動かない梨奈にキスをした。
そう言って、白髪の混ざった頭の医者は首を横に振った。
「そんな、何かの間違いですよ」
白い部屋の中にぽつんと置かれた、白いベットの上に横たわっている彼女は、眠っているようだ。その口元には微笑みが浮かんでいる。「ああ、よく寝た」なんてのんびりとした声で、いつもの朝みたいに言い出しそうな顔をしているのに。
嘘だ。そんなの、絶対信じない。
「梨奈、起きてよ」
触れてしまったら、現実を受け入れなければいけなくなってしまうから、僕は梨奈の体に触れることが出来ないでいた。
もう、起きてこないだなんて。
これは、絶対になにかの間違いだ。
「昨日まであんなに元気そうにしていたのに、なんでこんな事になってしまうんだよ」
奥歯をギュッと噛み締めても、涙が次から次へこぼれてくる。
「現在の医療ではどうにもなりません。突発性のものですから、事前に察知できなかったことも」
「それでも!」
つい、大きな声で叫んでしまう。掴みかかりそうになるのをぐっとこらえて、もう一度言い直す。
「それでも、生きていてほしかったんです」
その言葉に医者は返さず、そのまま部屋を出ていった。脇に控えていた若い看護師が恐る恐る話しかけてくる。
「霊安室に移動させるのはもう少しあとにしましょうか」
「ああ、そうしてくれ」
白い箱の中には、僕と梨奈だけが取り残された。
灰色で埋め尽くされた空は、まるで今の僕の心の中のようだ。嵐のようにガラス窓に大粒の雨が叩きつけられる。
「ずっと一緒にいるって、約束してくれたじゃないか。なんで先に、しかもこんなに早くだなんて」
去年挙式を上げたばかりの僕らの左手の薬指には、よく磨かれているお揃いのプラチナの細いリングが嵌っている。梨奈が「このデザインが一番好きなの」って言って買ったリングは、僕らの永遠の証だった筈なのに。
お揃いのものといえば、この腕時計だってそうだ。
付き合って二回目の誕生日に梨奈が僕にくれたもの。文字盤の色は深い青緑。僕が大好きな色だ。その上にローマ数字で四つだけ数字が書いてある。針の色は文字の色と同じ、青がかった銀色。紺色の革でできた太めのベルトがついていたそれは、どこにでも売っていそうなアナログ式の腕時計。それでも、デザインが僕の好みにぴったりで、梨奈が選んで買ってくれたことが何よりも嬉しかった。「実は、同じものを買っちゃったの」って、全く同じデザインの腕時計がその白くて細くい手首に巻かれているのを自慢気に見せてくれたっけ。
その頃を懐かしむように、文字盤を覆うガラスをゆっくりと指でなぞる。
「パラレルワープモードを開始しますか?」
機械のような、感情の籠もっていない平坦な声がした。
「誰だ?」
「パラレルワープモードを開始しますか?」
その声はさっきと同じ言葉を繰り返した。
「誰がいるんだ!」
叫んでも、誰も出てこない。そして、僕の耳が間違っていなければ、その声はこの時計から聞こえた。なんの変哲もないアナログ式の腕時計がそんなことを話すはずがない。これが最新の電子時計なら話は違うが、そもそもこれをもらったのは今から十年近く前のことだ。当時は音声認識の精度も低かったし、そんなにあちらこちらに音声認識のものはなかった。勿論、腕時計に音声認識の何かがついているものなんて、あの頃はなかったはずだ。あったとしても、庶民である僕や梨奈の手元には届くはずがない。
「こちら、パラレルワープアシストシステムです。サポートガイドは次のリンクにアクセスしてください。すべて小文字で入力してくださいH、T、T」
なにかのウエブサイトだろうか。こんな変なことに付き合ってなんかいられない、と思ったが、僕はスマホを取り出してその言われたリンクをブラウザ上に打ち込んでいた。
もしかしたら、何かあるかもしれない。そう思わせてくるのはやはり、この腕時計をくれたのが梨奈で、梨奈とおそろいの腕時計だからだろうか。
「サポートガイドへのアクセスを確認しました」
スマホの画面上には、何かの説明書のようなものが出てきた。そのタイトルを見て僕は眉をひそめた。
「G-00 pirum sachika使用方法?」
この読み方もよくわからないし、もしかしたら何かの暗号なのかもしれない。でも、そんなことを気にしてはいられなかったので読みすすめる。
*****
つまり、この時計は実は天才科学者だった今は亡き梨奈のお爺さんが、俺にもしものことがあったら梨奈が悲しむだろうと思ってつくった超トンデモシステムを備えた時計らしい。作動条件は所有者のどちらかが命を落としてから三十分後以降で、文字盤をなでた時。だからあの時、いきなり機械の声が流れ出したということだったらしい。
そして肝心の「パラレルワープ」とは、いくつもある並行世界の向こう側にワープできるとかいう機能らしい。どんなトンデモ機能だよ、と、心のなかでツッコんでしまう。
平行世界。それは、いくつもある「もしも」の分岐点を違う方向に曲がった世界。だからこの時計を使えば、「梨奈が突発性の病気なんて持っていなかった世界」に行くことが出来るのだ。
そこでもう一度やり直すことが出来るということらしい。
「使う、か……?」
今すぐ生きている梨奈に会いたい。そうしてまた、幸せな日々を送りたい。
おはようのキスをして、色違いのマグカップで朝ごはんのコーヒーを飲む。何もしないで手をつないだまま家の中で一日を過ごしたり、くだらない話で笑い合ったりしていたい。
梨奈はこのシステムのことを知っていたのだろうか。
もう一度画面に表示された説明書を読む。最後まで読んで、もう何も書いていないかと空白の部分をタッチすると、いきなり画面が切り替わった。この先に飛ぶことが出来るリンクでも貼ってあったのだろうか。
画像が表示される。それは、梨奈の筆跡で書かれたメッセージだった。
「トモくんへ。何かあったら使ってね。私はこの腕時計にパラレルワープのシステムをおじいちゃんに付けてもらってからトモくんに渡したの。黙っていてごめん。だって、私に何かあった時にトモくんが一人で悲しむのは嫌だもん。でも、私以外の人と仲良くなるのは乙女心的にアウトだからさ。でもね、私ならいいかなって。トモくんなら別の世界にいる私ともうまくやると思うんだ。だって、私は私だから絶対トモくんのこと好きになると思うんだよね。どうか、幸せになって。この世界の私と出会ってくれて、好きになってくれて、一緒にいてくれて、ありがとう。愛してる」
雨はいつの間にか上がっていて、雲の隙間から青空が見えていた。
「そうだ、僕は……」
涙を拭いて、動かない梨奈にキスをした。
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