4 / 5
最後の一時間
しおりを挟む
この駅のホームには私と俊しかいない。何もなければ、今日この電車に乗るのは今の所、俊だけだからである。
足元には白い靄がかかり、ひんやりとした空気があたりを覆っていた。空は今にも雨の降り出しそうな雲がおしくらまんじゅうをしていた。
ベンチは硬くて、普段ならすぐにお尻が痛くなるのに今日は全く気にならなかった。多分、そんな事を気にしている余裕なんてないからだろう。
「あとどれくらい?」
そう聞いてくる俊の目は、少し悲しそうで、そして少し不安そうだった。
「あと一時間だよ」
私は泣きそうになるのをぐっとこらえて答えた。
あと一時間。それは、俊が乗る電車が来るまでの時間。さっきまでまだ時間はあると思っていたのに、あっという間だ。
私と俊の間には見えない壁があるかのように、文庫本一冊くらいの距離が空いていた。それは、私も俊も相手の体に触れることができなかったからである。
いや、触れられなかったのだ。今まで何度も手をつないできた。唇を重ねることだってあった。
でも最後である今は、いや、今、この場所だからこそ触れることができずにいた。本当のことに気がついてしまうのが怖かったのだ。
「ねえ、やっぱり私も行きたい」
そう何度言っても、帰ってくる答えは同じだった。
「だめだよ。ここにいなくちゃ」
「でも、俊がいないなら、もう意味なんてないもの」
両手にぐっと力を込めて私は言うが、
「大丈夫。かのんは、大丈夫だから」
ゆっくりと俊はそういうのだった。
「残り四十七分、か」
俊は電光掲示板に書かれた数字を読み上げた。行き先も、編成も書かれていない電光掲示板は、ここが普通の駅でないことを嫌でも教えてくる。
「俺は、この結果に一つだけ後悔していないことがあるんだ」
「後悔していないこと?」
「そう。かのんのことを守れたことだよ。もう側にいられないのは悲しい。できれば、ずっと側にいたかった。でもね、俺はだめだったけれど、かのんは守れた」
「でも私は」
私の言葉を遮って俊は話を続けた。
「最後に、約束してほしいんだ」
「約束?」
「そう。この駅から出たら、俺のことは忘れること」
まるで暗闇の中に落ちるような感覚がした。
「嫌だよ。忘れられないよ。だって、愛しているんだよ」
喉の奥から声を絞り出す。
「俺も愛しているよ。大好きだよ。かのんよりも大切なものなんて、どこにもなったよ」
「じゃあ、なんで」
「幸せになってほしいんだ」
その一言でぐっと現実に戻されたようだった。
「ねえ、ここに来る前のこと、どれくらい覚えている?」
「はっきりと覚えているよ。二人で散歩していて、これから二人でたまに行くイタリアンの店でランチにしようかって話していたんだよね。それで、横断歩道を渡っていたら白い車がいきなり突っ込んできて」
「そうじゃなくって」
あの瞬間の話をし始めた俊だったが、私が言いたいのはその話じゃなかった。
「そうじゃないの?」
「一番幸せだった時のこと、覚えている?」
ああ、最後だから泣かないと決めていたのに、何度も泣きそうになってしまう。
「かのんと過ごす毎日が幸せだったよ」
その一言で涙をせき止めていた何かが壊れた。
「じゃあなんで忘れてなんて言うの?なんで幸せになってほしいなんて、他人みたいに言うの?私は俊と一緒じゃなくちゃ、幸せになんてなれないの!」
「俺だって、本当はかのんと幸せになりたかったよ。かのんを幸せにしたかったよ。でもね、できないんだもん」
俊の瞳は今にも涙が溢れそうだ。
「だからね、せめてもう俺のことを忘れて、かのんのことを幸せにしてくれる人と、これからは過ごしてほしいの」
「嫌。ねえ、嫌だよ。私、俊じゃなくちゃ嫌だよ」
「ねえ、かのん。あと三分なんだ」
電光掲示板を指差して俊は言った。
「そんな……」
一時間なんてあっという間だった。
そして、あと三分しか俊と一緒にいることができないなんて、信じられなかった。
「ねえ、かのん」
「なあに?」
「笑って」
もうこれが最後なんだ。覚悟なんてこれっぽっちもできていなかったけれど、私は涙を拭いて無理やり笑った。
「かのんはやっぱり、笑った顔が一番かわいいね。その顔、大好きだよ。俺、かのんと一緒に入られて、幸せだった。今まで、ありがと」
立ち上がる俊につられて、私も立ち上がる。
「わたしも、幸せだった」
俊は一歩私に近づく。
「愛してる」
そう言って俊の唇が私の唇に重なるが、そこに俊の唇の感触はなく、ただ、風が通り過ぎただけだった。
*****
「先生!!かのんさん、目が覚めました!!」
「かのん、かのん!!よかった!!」
そこには知らない顔がずらっと並んでいた。そして口々に「かのん」と言う。だけれども、それがなんなのか私にはわからなかった。
足元には白い靄がかかり、ひんやりとした空気があたりを覆っていた。空は今にも雨の降り出しそうな雲がおしくらまんじゅうをしていた。
ベンチは硬くて、普段ならすぐにお尻が痛くなるのに今日は全く気にならなかった。多分、そんな事を気にしている余裕なんてないからだろう。
「あとどれくらい?」
そう聞いてくる俊の目は、少し悲しそうで、そして少し不安そうだった。
「あと一時間だよ」
私は泣きそうになるのをぐっとこらえて答えた。
あと一時間。それは、俊が乗る電車が来るまでの時間。さっきまでまだ時間はあると思っていたのに、あっという間だ。
私と俊の間には見えない壁があるかのように、文庫本一冊くらいの距離が空いていた。それは、私も俊も相手の体に触れることができなかったからである。
いや、触れられなかったのだ。今まで何度も手をつないできた。唇を重ねることだってあった。
でも最後である今は、いや、今、この場所だからこそ触れることができずにいた。本当のことに気がついてしまうのが怖かったのだ。
「ねえ、やっぱり私も行きたい」
そう何度言っても、帰ってくる答えは同じだった。
「だめだよ。ここにいなくちゃ」
「でも、俊がいないなら、もう意味なんてないもの」
両手にぐっと力を込めて私は言うが、
「大丈夫。かのんは、大丈夫だから」
ゆっくりと俊はそういうのだった。
「残り四十七分、か」
俊は電光掲示板に書かれた数字を読み上げた。行き先も、編成も書かれていない電光掲示板は、ここが普通の駅でないことを嫌でも教えてくる。
「俺は、この結果に一つだけ後悔していないことがあるんだ」
「後悔していないこと?」
「そう。かのんのことを守れたことだよ。もう側にいられないのは悲しい。できれば、ずっと側にいたかった。でもね、俺はだめだったけれど、かのんは守れた」
「でも私は」
私の言葉を遮って俊は話を続けた。
「最後に、約束してほしいんだ」
「約束?」
「そう。この駅から出たら、俺のことは忘れること」
まるで暗闇の中に落ちるような感覚がした。
「嫌だよ。忘れられないよ。だって、愛しているんだよ」
喉の奥から声を絞り出す。
「俺も愛しているよ。大好きだよ。かのんよりも大切なものなんて、どこにもなったよ」
「じゃあ、なんで」
「幸せになってほしいんだ」
その一言でぐっと現実に戻されたようだった。
「ねえ、ここに来る前のこと、どれくらい覚えている?」
「はっきりと覚えているよ。二人で散歩していて、これから二人でたまに行くイタリアンの店でランチにしようかって話していたんだよね。それで、横断歩道を渡っていたら白い車がいきなり突っ込んできて」
「そうじゃなくって」
あの瞬間の話をし始めた俊だったが、私が言いたいのはその話じゃなかった。
「そうじゃないの?」
「一番幸せだった時のこと、覚えている?」
ああ、最後だから泣かないと決めていたのに、何度も泣きそうになってしまう。
「かのんと過ごす毎日が幸せだったよ」
その一言で涙をせき止めていた何かが壊れた。
「じゃあなんで忘れてなんて言うの?なんで幸せになってほしいなんて、他人みたいに言うの?私は俊と一緒じゃなくちゃ、幸せになんてなれないの!」
「俺だって、本当はかのんと幸せになりたかったよ。かのんを幸せにしたかったよ。でもね、できないんだもん」
俊の瞳は今にも涙が溢れそうだ。
「だからね、せめてもう俺のことを忘れて、かのんのことを幸せにしてくれる人と、これからは過ごしてほしいの」
「嫌。ねえ、嫌だよ。私、俊じゃなくちゃ嫌だよ」
「ねえ、かのん。あと三分なんだ」
電光掲示板を指差して俊は言った。
「そんな……」
一時間なんてあっという間だった。
そして、あと三分しか俊と一緒にいることができないなんて、信じられなかった。
「ねえ、かのん」
「なあに?」
「笑って」
もうこれが最後なんだ。覚悟なんてこれっぽっちもできていなかったけれど、私は涙を拭いて無理やり笑った。
「かのんはやっぱり、笑った顔が一番かわいいね。その顔、大好きだよ。俺、かのんと一緒に入られて、幸せだった。今まで、ありがと」
立ち上がる俊につられて、私も立ち上がる。
「わたしも、幸せだった」
俊は一歩私に近づく。
「愛してる」
そう言って俊の唇が私の唇に重なるが、そこに俊の唇の感触はなく、ただ、風が通り過ぎただけだった。
*****
「先生!!かのんさん、目が覚めました!!」
「かのん、かのん!!よかった!!」
そこには知らない顔がずらっと並んでいた。そして口々に「かのん」と言う。だけれども、それがなんなのか私にはわからなかった。
2
お気に入りに追加
4
あなたにおすすめの小説
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
10 sweet wedding
国樹田 樹
恋愛
『十年後もお互い独身だったら、結婚しよう』 そんな、どこかのドラマで見た様な約束をした私達。 けれど十年後の今日、私は彼の妻になった。 ……そんな二人の、式後のお話。
ずぶ濡れで帰ったら置き手紙がありました
宵闇 月
恋愛
雨に降られてずぶ濡れで帰ったら同棲していた彼氏からの置き手紙がありーー
私の何がダメだったの?
ずぶ濡れシリーズ第二弾です。
※ 最後まで書き終えてます。
私と彼の恋愛攻防戦
真麻一花
恋愛
大好きな彼に告白し続けて一ヶ月。
「好きです」「だが断る」相変わらず彼は素っ気ない。
でもめげない。嫌われてはいないと思っていたから。
だから鬱陶しいと邪険にされても気にせずアタックし続けた。
彼がほんとに私の事が嫌いだったと知るまでは……。嫌われていないなんて言うのは私の思い込みでしかなかった。
君想う、故に我あり
篠原怜
恋愛
エタニティブックス・ロゼより刊行の「アグレッサー」「あなたの愛につつまれて」のスピンオフです。過去に作者WEBサイトに掲載していた作品で、主人公は「アグレッサー」にも登場している千秋(美緒の幼馴染)と蓮(秀人の元家庭教師)となります。
★ストーリー★ある年の夏、葉浦。父を知らずに育った少年・蓮は、母がいなくなり途方に暮れる。妹の真由を連れて街をさまよっていると、千秋という少女に出会う。無邪気な千秋の笑顔に心を癒される蓮と真由だが・・・。
注1「アグレッサー」既読という前提で書いているため、やや設定がつかみにくいかもしれません。
注2 2006年ごろ公開した作品なので、現在とは社会情勢や常識などが異なります。
誤字脱字ご容赦ください。以上ご理解のうえお進みください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる