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三十九、論理くん、鉄砲玉になる

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今日の部活もなんとか終わった。でも、相変わらず一部の人の態度は変わらない。まぁいいか。そのうちなんとかなるよね。さて、帰るか。論理が待ってるし!
「池田、ちょっと待ちな」
いきなり肩をつかまれて、振り向かされた。そこには、佐伯さんが、かわいい顔を怖くして立っていた。その後ろには、私のことを笑っていた、二年生や一年生が、数人いる。これは、やばい状況なんじゃ…。
「な、なに?」
佐伯さんが、私の肩を思い切りつかんでいて、痛い。
「なに?じゃねぇよ、部長面しやがって。いつもきーきーきーきー歌が耳障りなんだよ。こんな声のやつが部長になれんなら、あたしのほうがよっぽど適してんだ!」
ベビーボイスを甲高く響かせながら、佐伯さんはそう叫んで、私の肩を思いっきり突いた。
「きゃっ!」
私は、後ろに倒れそうになる。でも私の背中を、一緒にいた人たちが受け止め、「ひゃっひゃっひゃっ!」と、げらげら笑いながら佐伯さんに向けて突き返す。戻ってきた私の胸ぐらを、佐伯さんがつかむ。
「ざけんなよっ‼︎」
私の頬を、佐伯さんの平手が打つ。激痛が走った。私は一瞬何をされたのかわからなかったけど、段々と状況を把握した。
「な、なにするの…!私だって、一生懸命歌ってるし、一生懸命部長だってやってるんだけど!」
「一生懸命?笑わせるんじゃねぇ!」
佐伯さんはそう叫びながら、私の胸ぐらを激しく揺すった。頭がくらくらしてくる。かわいい顔を怒りに歪め、そして相変わらずかわいらしい声で、佐伯さんはこうまくし立てた。
「てめぇのその思い上がりに腹が立つんだ!世の中にはな、てめぇのお眼鏡に叶わなくても必死になってるやつもいるんだ!そんなやつの気持ちなど、てめぇはわかろうともしねぇだろ!そんなてめぇの部長面が、腹が立ってしょうがねーんだ!」
佐伯さんの平手が、また私の頬を打った。思い上がりって、私思い上がってなんかない!意味がわからないよ!でも、とにかく、ここは謝ったほうがいいかも…。
「ご、ごめんなさい…」
「うるせぇっ!ごめんで済むなら警察はいらねぇんだよ!」
台詞に不釣り合いな幼い響きのある声でそう怒鳴ると、佐伯さんはその拳を、私のお腹に撃ちこんだ。
「かはっ‼︎」
息ができない。凄まじい苦しさの中、胃の中の物が飛び出てきた。私は、その場に倒れ込んだ。
「こんな女に……こんな女に……どうして……‼︎」
その言葉を皮切りに、佐伯さんと一緒にいた人たちとが、私に蹴りを浴びせる。痛い。体がどんどん熱くなってくる。霞んだ意識の中で、『どうして……‼︎』って、声にならない叫びを上げる佐伯さんは、なんなんだろうって思う。そんな私の顔を、佐伯さんが、蹴る。鼻血が滲んできた。
「こらーーーっ‼︎なにしてんだぁーーーっ‼︎」
西山先生の声が聞こえる。
「あっ!やべっ!」
佐伯さんたちは、そう言って一目散に逃げていったようだった。私は、倒れ伏していることしかできない。
「池田!大丈夫か!」
先生は、手持ちのハンカチで私の鼻血を止めてくれる。
「佐伯たちか…なにやってんだあいつら…」
先生は、物も言えなくなっている私を抱いて、保健室に連れて行ってくれた。保健の丸山(まるやま)先生は、
「あらあら、池田さんどうしたの」
と、問いかけてくれながら、私を手当てしてくれた。私は、その優しさに涙が溢れ出てきた。
「文香‼︎」
いきなり保健室に響き渡る絶叫。動かしにくい首を動かして見ると、論理がいた。
「太田くん、どうしたの?」
「ずっと音楽室の下で文香を待っていたんですが、いつまで経っても来ないので、職員室の西山先生に尋ねたら、事情を説明してくださいました。なのでここに飛んできたんです」
論理は、私の顔をのぞき込んだ。顔が腫れていて目があまり開かないから、論理の顔がよく見えない。
「文香‼︎佐伯たちの仕業なんだな!俺が仇を取ってやる!あいつら…俺の手で二度と女でいられない体にしてやるんだ‼︎」
論理の言葉に、また私は涙が溢れる。でも、論理…一体どんな手を使うんだろう…。
「太田くん、まぁ落ち着きなさい。池田さんを少し休ませる必要があるわ。ベッドに運んであげて」
論理は、私の体をそっと抱いて、ベッドに連れて行ってくれた。
「論理…ぐっ…ううううっ、すはあああっ!えええ…えええん…すはあああっ!論理…」
口も切れて腫れているので、あまりよくしゃべれない。その口で、私は論理の名を呼び、そして泣いた。涙が傷口にしみて痛い。もう部長なんてやりたくない。私は、思い上がっていたのかもしれない。でも、こんな思いをしなくちゃならないほど、私はいけなかったの…?論理教えて…。私はベッドに横になって、泣いた。その間、論理は私の頭をずっと撫でていてくれた。論理、ありがとう。こんなときにも私のそばにいてくれて。

体の痛みがどうにか落ち着いたので、論理に抱かれて下校する。すると、その途中に、なんだかガラの悪そうな男の人たちが三人たむろしていた。
「論理、あそこの人たちなんだか怖いね…」
「そうだな、文香、気をつけて行こう」
論理は守ってくれるかのように、私の体をぎゅっと抱いてくれた。私たちは、三人に警戒しながら歩き、三人に近づいていく。じろじろ見ると何かされそうで怖いので、あまり目を合わせないように歩くけれど、私は、三人をちらりとだけ見た。月影中で有名な不良の先輩たちだった。詳しいことは知らないけれど、確か、浦野(うらの)先輩と、桑島(くわしま)先輩と、飛上(ひかみ)先輩とか言ったっけ。三人の前を通り過ぎるとき、
「おい」
と、浦野先輩から、声をかけられた。
「お前、合唱部長の池田文香だな?」
私は、びっくりして顔を上げた。見ると、浦野先輩は、なんだかニヤニヤと笑っている。な、なんだろう…なんで私の名前知ってるんだろう…。
「そ、そうですけど…」
私は少し怯えながら答える。
「余分な話は無用だ。ちょっと一緒に来てもらおうか」
桑島先輩が、私の腕をつかんで乱暴に連れて行こうとする。え、ちょ、ちょっと待って…。
「おい!待て!」
論理が、三人の前に立ちはだかった。
「なんだ貴様、どけ、邪魔だ」
飛上先輩がそう言って、論理を押し退けようとする。その腕を、論理は逆に握る。
「なんだ貴様というなら答えてやるが、文香の恋人の太田論理だ」
「そうか、恋人か。その恋人が、俺たちになんの用だ」
浦野先輩が、論理を睨みつけて言った。
「文香をどこへ連れて行くんだ」
「そんなこと、お前に言う必要もないね」
桑島先輩が、論理を見下げる。
「どちらにしても、文香を勝手にどこかへ連れて行こうと言うのなら、俺の屍を乗り越えていけっ‼︎」
論理…嬉しいけど、この先輩たちに挑むのはちょっと無謀だよ…。論理の威勢のよすぎる言葉を聞いた三人は、ゲラゲラと笑った。
「よぉし、面白い!それなら望み通り、屍にしてやろう!」
浦野先輩が、拳を手の平に打ち付けて、楽しそうに言う。
「この屍は、骨があるぜっ!くらえっ‼︎」
論理は、バックスイングを付けて飛上先輩の頬に思いきりパンチを打ち込んだ。でも、飛上先輩は、ピクリとも動かない。
「俺は今、殴られたのか?それとも、蚊でも止まったのか?」
飛上先輩はそうつぶやき、三人はまた、ゲラゲラと笑った。
「めんどくせぇ、一分でこいつを屍にしてやろうぜ!」
桑島先輩が私の腕を離し、論理に近づいて行く。論理…!このままじゃやられちゃうよ!どうしよう…!
「やっちまえっ‼︎」
浦野先輩の掛け声と共に、拳と蹴りと膝が、土砂降りのように論理に襲いかかった。論理はもう、何もできない。みるみるうち、論理は泥にまみれ、その顔は腫れ上がり、鼻血が飛び始めた。それでも三人は、手を緩めない。これじゃあ論理死んじゃうよ‼︎
「やめてぇぇっ‼︎」
私は泣き叫びながら、いちばん近くにいた浦野先輩に飛びかかった。でも、簡単に弾き返されてしまう。
「おめーは待ってろ。メインディッシュは最後だろ」
あぁ、私には何もできない…。このまま、論理は屍にされて、私はどこかへ連れて行かれるのだろうか…。誰か助けて…誰か…!そのとき──‼︎
「もうそのくらいにしておけ」
桑島先輩の振り上げた腕を、誰かがつかんでそう言う。誰⁉︎夕闇の中のその人影は、どこかで見たことがある。あれは……。
「おい、誰だ貴様は!」
飛上先輩が、人影に向かって乱暴に尋ねる。
「二年一組。坂口秀馬(しゅうま)だ。よろしくたのむ」
坂口くん…‼︎まさか助けに来てくれたの⁉︎
「坂口だぁ?聞かねー名前だな。てめぇも屍になりに来たのか!」
桑島先輩は、そう言って坂口くんを指差す。
「いや、俺は屍にはならない。友と生きる者になりに来た」
坂口くんは、地面に倒れ込んでいる論理を見つめながら、言った。
「てめぇ、言ってることが意味わからねーぞ!てめぇも一緒に屍にしてやる‼︎」
浦野先輩のその言葉を合図に、三人は、坂口くんに向かって行った。やばい!坂口くんもやられちゃう!桑島先輩の素早いパンチが、坂口くんの顔めがけて繰り出される。ところが坂口くんは、それを一瞬で見切って避ける。坂口くんの背後には、浦野先輩がいた。桑島先輩のパンチは、浦野先輩の顔に深々と決まってしまう。
「てめぇ‼︎なにしやがる‼︎」
「い、いや、こいつが避けたから!」
「おい、喧嘩してる場合じゃないぞ。早く始末するんだ!」
飛上先輩はそう言って、坂口くんのお腹めがけて蹴りを放とうとする。でも坂口くんは、その足を取り、ぽいっと地面に投げ出した。飛上先輩が、転がる。
「なんだお前たち、この程度か」
坂口くんは、余裕の表情を見せる。
「くそっ!なかなかやるな!」
浦野先輩は、坂口くんに立ち向かって、右、左と必死のパンチを繰り出した。でも、ことごとく坂口くんに見切られて、一発も当たらない。坂口くん、す、すごい…。
「遅いな。どこを殴っている」
「てめぇぇっ‼︎」
浦野先輩は、渾身の力で蹴りを坂口くんに浴びせようとする。すると坂口くんは、高々とジャンプしてそれを避け、空中から神速の蹴りを、浦野先輩の顔面に決めた。
「ぐわぁっ‼︎」
先輩は地面に転がり、失神した。
「浦野っ!浦野を倒すとは…つ、つえぇ…」
桑島先輩の顔に焦りの色が見え始める。
「怯えるな桑島!」
飛上先輩が、坂口くんに向かって行く。全力を込めたパンチを、坂口くんに向ける。でも坂口くんは、誰のパンチも蹴りも全部予知しているかのようにそれらを避けてしまう。飛上先輩のパンチも見切られて、坂口くんの手で軽々と払われてしまう。無防備になった先輩の顔に、坂口くんのもの凄まじいパンチが入った。
「うぐぁっ‼︎」
飛上先輩も、地面に倒れ伏して、失神してしまう。つ、強い…強いよ坂口くん!
「ひ、飛上まで…お、俺だけになっちまった…」
桑島先輩は、震えていた。
「最後はお前か」
「ゆ…許してくれ…」
「あぁ、許してやろう。だが、最後にこれを受けろ‼︎」
坂口くんの渾身の右ストレートが、桑島先輩の顔面にヒットする。二メートルほど吹き飛ばされて、先輩は、地面に転がった。ものの一分で、先輩たちは坂口くんに倒されてしまった。坂口くんは、倒れている浦野先輩の胸ぐらをつかみ上げる。
「おい、どうしてこんなことをする」
坂口くんが聞くと、浦野先輩は、目を開けた。
「た、頼まれたんだ…」
「誰に」
「二年の…さ、佐伯…佐伯遥(はるか)にだ…」
佐伯さん⁉︎佐伯さん、こんなことまでしてくるなんて…。
「佐伯…遥…だと…?」
坂口くんの顔に、不審な色が走った。どうしたんだろう?
「何故遥がお前たちにこんなことを頼むんだ」
遥…?坂口くん、佐伯さんのこと名前で呼んでる?もしかして佐伯さんと仲いいの?
「そ、そこの女が生意気だから…輪姦(まわ)してくれって頼んで…俺と一緒に寝たんだ」
寝たって…佐伯さん、そこまでして私に…私のこと、よっぽど恨んでるんだ…。
「そんな馬鹿馬鹿しい理由で遥はお前と寝たのか。まあその程度の女か」
坂口くんは、悲しげに地面を睨み付けた。
「まあいい、お前たち、俺を屍にできないことはわかっただろう。なら早くここから立ち去れ。そして今後二度とこいつらには手を出すな。出したら、今度はお前たちが屍になる番だ。地獄で会おうぜ」
先輩たち三人は、よろよろと言葉もなく帰っていった。坂口くんは、私に振り返る。
「文香、大丈夫か。文香もやられているじゃないか」
「…いや、これは、佐伯さんたちにやられたの」
私がそう言うと、坂口くんは顔を怒りで歪めた。
「なに⁉︎遥のやつ、文香に直接手を出したのか…あいつ…」
「坂口くん、佐伯さんと知り合いなの?」
「ああ、ちょっとな…。詳しいことはまた話す。今は論理をなんとかしよう。俺の家の診察室で多少の手当てはできると思う」
あ、そっか、坂口くん家医者なんだった。坂口くんは、論理を抱きかかえた。論理は、薄っすらと目を開けて、なんとか立ち上がる。
「坂口……お前、何故、ここにいる」
「野暮用だ。とにかく、俺の家に来い。歓迎してやる」
私たち三人は、すっかり暮れた道を、坂口くんの家に向けて歩き出した。

「うん、二人とも、どこも骨は折れていないようだ」
坂口くんのお父さんは、論理と私の体を丁寧に診て、そう言った。
「秀馬、ここにある薬を適当に使って、二人を手当てしてあげなさい。じゃあ、父さんは奥にいるからな」
「ありがとう、父さん」
坂口くんは、診察室の戸棚からいろいろ引き出してきて、私の顔や腕、足などに薬を塗っていってくれる。丸山先生に手当てはされたけれど、あれは応急処置だったので、改めて坂口くんは私に手当てをしてくれた。
「うっ」
「しみるか?」
ずいぶんしみた。
「少しね。でも、ありがとう、坂口くん。坂口くんがいなかったら、私たち、どうなってたかわからないよ」
「そうだな。特に、論理とかいう鉄砲玉は、もう死んでるだろうな」
えっ…論理が死んでたなんて…考えるだけで涙が出てきそうになる。
「なん…だと…」
後ろから、論理が瀕死の声で坂口くんに噛み付く。
「まぁ待て、お前の手当てはすぐにしてやる。それにしても、文香をここまで痛めつけるとは…遥のやつ…」
坂口くんは、顔に怒りを滲ませた。
「坂口くん、さっきも聞いたけど、佐伯さんと知り合いなの?」
私が聞くと、坂口くんは、ふぅ…、とうんざりとしたため息をついた。
「元カノだ」
「えーっ‼︎」
あまりのことに私は叫んでしまい、薬がさらにしみた。坂口くんと、佐伯さんかぁ…佐伯さん(乱暴だけど)顔も声もかわいいし、お似合いかも…。
「元カノって、いつ付き合ってたの?」
「小六の夏から、中一の夏まで。一年ほど付き合っていたが、俺に好きな人ができたので、俺が振った。向こうは俺のことがまだ好きなようだがね」
「へぇ…好きな人ができたって…」
「文香、お前のことだよ」
坂口くんは、慣れた手つきで包帯を巻きながら、こともなげにそう言った。ドキっ。いけない、でもまた、ポーっとしてきてしまう。坂口くん、ずるいよ…。
「おい…何か…言ってるのか…」
論理のその言葉に、ハッと我に返る私。そうか、あのときの佐伯さんの『どうして……‼︎』って、坂口くんのことだったのかな。私、佐伯さんの側から見れば、泥棒猫なんだ。それは憎まれても当然だよね。あぁ…これから私、佐伯さんにどう接すればいいんだろう…。
「心配するな。遥には、俺が厳しく言っておく。もう、文香を傷つける真似は、俺がさせない」
坂口くんが、私の心を見透かしたように、そう言ってくれる。
「坂口くん…ありがとう…」
「礼には及ばないさ。次、論理を手当てするぞ。論理!」
坂口くんは、ちょっと勢いよく論理に薬を擦りこんだ。
「ぎえぇぇっ‼︎」
「泣くな、これくらいで」
叫び続ける論理に、坂口くんは、手早く手当てをしていく。そのうちに、論理もまともに口が聞けるようになってきた。
「坂口…ひょっとして、お前が俺たちを助けてくれたのか」
「あぁ、そうだ。礼の一言でも聞きたいものだな」
論理は、腫れた目で、坂口くんをずいぶん長いこと見つめていた。そしてその目から、一筋の涙が溢れた。
「…………ありがとう、坂口」
「だから泣くな、これくらいで」
坂口くんは、泣いている論理の頭を手で撫でて、優しく微笑んだ。論理が、坂口くんにありがとうだなんて…論理、よっぽど嬉しかったんだなぁ。
「お前には、三つ目の借りを作ってしまったな。何で返せというんだ」
論理がそう言うと、坂口くんは、快い笑顔を見せた。
「そうだな…、それじゃあこういうのはどうだ。俺のことを、下の名前で、つまり『秀馬』と呼ぶ、というのは」
「文香がか」
「いや、二人ともだ」
論理は、唇を噛んだ。その目から、また、一筋涙が溢れた。
「わかった。ありがとう、秀馬」
「だから泣くなと言っているだろう」
坂口くんも照れくさいのか、論理から目を逸らし、包帯を巻くのに集中する様子だった。論理と坂口くんが、仲良くなれたみたいで、私は心の底から嬉しく思い、二人をニコニコと見ていた。あ、坂口くんじゃなかった、秀馬くんだった。

帰りは、秀馬くんのお父さんの車で、それぞれ送ってもらった。家に帰ると、お母さんが急いで出てくる。
「お姉ちゃん、遅かったわ…はっ‼︎どうしたのお姉ちゃんその顔‼︎」
お母さんが叫んだので、後ろから、お父さんも、正志も飛び出してきた。
「文香どうした⁉︎誰に何をされた⁉︎」
「お姉、顔がアンパンマンみたい‼︎」
「アンパンマンで悪かったな!合唱部で、ちょっと喧嘩したんだよ」
私がそう言うと、お母さんは、両手を口に添えて言葉を無くしていたけど、やっとのことで口を開いた。
「と、とにかく、居間に入りなさい」
私は、居間に通された。そして、三人から尋ねられるままに今までのことを話した。
「どういうことだ!」
お父さんが、拳を握る。
「ならその秀馬という子が助けてくれなかったら、あ、あぁぁぁ…」
お父さんは、両手で頭を抱え込んでしまった。
「お母さん、秀馬くんの家にお礼の電話をしてくるわ」
そう言ってお母さんは、秀馬くんの家に電話を繋ぎ、お母さんらしき人に何度も深々とお辞儀をしている。
「お姉、論理さん、こてんぱんにやられちゃったんだろ?俺、論理さんのこと、かっこいいと思ってたけど、ガッカリだぜ。その、秀馬さんって人に乗り換えようかな。今度連れてきてよ!」
「そんなこと言うもんじゃないよ。論理だってがんばってくれたんだから!私は嬉しかったんだよ。でも、秀馬くんは今度連れてきてあげる!」
そう正志と話している間に、電話を終えたお母さんが戻ってきた。
「この一件はよくわかったわ。お姉ちゃん、お姉ちゃんが部長になったと聞いて嬉しかったけれど、人の上に立てば、大なり小なりこういうことはあるわ。平穏な話し合いで解決する場所ならいいけれど、こんなことをする人がいるのなら、部長を続けるべきではないわ。本当なら、合唱部そのものもやめてほしいくらい」
「それは嫌!だって論理が聞いてくれるもん!」
「文香、いい加減にしなさい!秀馬という子が助けてくれなかったら、文香は…あ、あぁぁぁぁぁ…」
お父さんがみっともなくまた頭を抱えてうずくまってしまう。
「大丈夫だよ!結局助かったんだし!これから一生懸命やったら、きっとみんなわかってくれるし、なんとかなるよ!」
しかし、そんな私の考えは誰にも届いていないみたいで、三人とも私を見る目は変わらない。
「お姉のなんとかなるって、意味不明なときが多いからな」
「バカ正志!世の中はなんとかなるようにできてるの!私の歌を論理に聞いてもらって、私も実力が上がってきて、それで部長にしてもらったんだから私絶対最後までやり抜く!」
私は、そう宣言した。でもお母さんは、呆れたように、ふぅ、とため息をつく。
「文香、いい?いつでも秀馬くんが助けに来てくれるということはないのよ?論理くんも、腕力は期待できないし、今度こういうことがあったら、どうすればいいと思ってる?文香、あなただけが傷つくんじゃないのよ。私たち家族も傷つくし、なんたって文香のいちばん大事な論理くんが傷つくのよ」
お母さんの真剣な言葉が、私の心に響いた。そっか…論理だって傷つくんだ…そもそも今日論理があんなに傷ついたのは、私のせいなんだ…私のせいで、論理は…。ぷるるるるるる。電話が鳴った。お母さんが、
「嫌な予感がするわね」
と言いながら、電話を取った。嫌な予感って、まさか…。
「はい。太田さんですか…」
論理くんのお母さんだ。
「はい……ご迷惑をおかけしております……はい……いえ、お言葉ですが、うちの娘が一方的に悪いと言われても困ります……論理くんから事情をお聞きになっ……そんなに声を荒げられても困るんです!……論理くんはうちの娘を身を捨てて守ってくれたんです。うちの娘に陥れられたわけでもありません……あーだから貴方のその言い方が気にくわない!あなたねぇ……」
あとは、私のお母さんと、論理のお母さんのいつもの言い合いだった。はぁ…私のせいでみんな不幸になる。私は、それが決定打となって、もう部長を辞めることを決意した。お母さんは、ずいぶん長いこと喧嘩して受話器を叩きつけると、肩で息をしながら戻ってきた。
「あー相変わらずだわ、あの人は!」
お母さんは、両手のひらで自分の頬をパンパンと張った。
「お母さん、私、部長辞めるよ」
私は、落ち込みを隠せずに、そうつぶやいた。ゴーン、ゴーン。時計を見ると、もう十二時になっていた。

沈んだ気分で、夜中のベッドに横たわる。今日一日を思い返す。大変な一日だった。私にとっても、論理にとっても。そうだ、論理起きてるかな。どうしてるだろう。私はスマホのライン画面を開けた。
『論理、まだ起きてる?』
既読はすぐに付いて、論理のリプライが返ってくる。
『文香か。うん、そろそろ寝ようかと思ってたところ。でもあちこち痛くて眠りにくい』
そうだろうな…。骨は折れてなかったみたいだけど、論理、全身やられるだけやられたからなぁ。
『論理…。私のせいでごめんね』
『何を言ってる。愛する人のために戦えたんだ。名誉なことだ』
『ありがとう…』
そう言ってくれる論理が、心から嬉しい。ああ、論理の顔が見たい。
『文香、愛してるよ』
ハートの絵文字を三つつけてくれる論理。
『論理、愛してる』
私は四つ。
『大好きだよ』
論理が五つ。
『私も大好き』
六つつけてあげる。
『ずーっと一緒だよ』
ハートが七つ。
『うん、ずーっと一緒っ』
数えきれないくらい何行もハートを連ねる私。ケガは痛むけど、私たちの熱い夜が更けた。

翌朝。私は、まだ腫れて痛む顔で、論理と待ち合わせの公園へと向かった。一応、部活には出るつもりで、いつもの時間に出た。昨日ラインはしたけど、ちゃんと顔を合わせてお礼がしたい…。あと、私のせいでごめんねって謝らなくちゃ…。でも、これから合唱部はどうなるんだろう…。私は頭がパンクしそうだった。公園に着くと、もう論理は私を待っていてくれた。論理の顔は結構腫れていて、あざができている。私は、申し訳なさに胸が痛んだ。
「おはよう、論理」
「おはよう、文香。お互いまだ怪我がひどいな」
「うん…。昨日は、守ってくれてありがとう。嬉しかった」
「嬉しかっただなんて…」
論理はそう言って、唇を噛んだ。
「守るどころか、あんな無様なことになっちまって、文香のみならず秀馬にまで迷惑をかけた」
「そんなことないよ。論理は私を捨て身で守ってくれた。それに、迷惑をかけたのは私のほうだよ。私のせいで、論理まで巻き込まれちゃって、こんな酷い怪我までして…うっ…すはあああっ、えええ…ん…」
泣けてきた。こんな怪我を論理に負わせるなんて、私のせいで…。でも私の頭から、論理くんの「はあああっ」というブレス音。
「巻き込まれただなんて思ってはいない。彼女のピンチを救うのは彼氏の役目だ。それに、今回の一件は文香のせいなんかじゃまったくない。勝手に文香に嫉妬をして、悪巧みをした佐伯に全責任がある。文香は自分を責める必要はないんだよ」
論理はそう言いながら、私のうつむく頭を優しく撫でてくれた。
「うっ…ありがとう、論理…でも、私、思い上がってたのかもしれない…。もう、部長は辞めるよ…」
「文香は、文香なりに一生懸命やってたじゃないか。それを気に入らないやつがいるからと言って、文香が思い上がっていると言うことにはならないさ。でも、こんなことになって、部長を続ける気力はなくなってきたかもしれないね。俺は、文香が部長から降りても、そのソプラノを聞き続けられれば、なんの引っかかりもないよ」
「はあっ」と何度も肩を上げて息を吸いながら、丁寧に優しい言葉をかけてくれる論理。ただの空気が、論理の大きな口に吸い込まれると、こんなに温かい言葉になって流れ出てくるんだ…。また涙が溢れ出てくる。
「ううう…ありがとう、論理…私、部長を辞めても、論理のために一生懸命歌うからね…」
私たちは、よろよろと学校へ向かい始めた。
「それにしても、今回のことで合唱部はどうなるんだろうな。佐伯たちの処分だけで済むことを願っているが…」
「どうだろう…。西山先生や校長先生が決めることだから、私にはわからないけど…」
「今まだ早い時間じゃないか。学校に着いたら、職員室に行って、西山先生や校長先生に直訴しようぜ」
「ダメだよ!そんなことしたら、もっと悪くなっちゃうよ。先生たちに任せよう」
私がたしなめると、論理は、悔しそうに顔を歪めた。
「今回の一件では、文香も俺も秀馬も、被害者なのにな…」
しばらく、私たちは無言で歩き続ける。まぁ、私はなんとかなるとは思っているけれど…。
「昨日、論理のお母さんから家に電話があったけど、論理、お母さんたちに何か言われた?」
論理は、不快感を丸出しにして舌打ちをした。
「あのババア、こんなときだけ息子を大事にする面しやがって。俺が帰ると、『論理くん、どうしたの?どうしたの?』とか泣き出してさぁ」
「お父さんやお姉さんは?」
「俺は事情を話すつもりはなかったけれど、親父に、『その体では俺たちも捨て置けない。何があったか話してみなさい』と言われて、渋々話した。すると案の定、ババアが暴れ出して、『電話持ってきなさい!電話!』。あとは、文香知っての知っての通りさ」
「そっか…そのあと何か言われなかった?」
「姉貴のやつ、人を見下した笑いを浮かべて、『馬鹿だね、自分の身の程を知らないやつは』とか抜かしやがる。そのあとババアには、……好き勝手言われた」
「なんて言われたの?」
論理は、痛々しい顔をさらに歪めていたけど、やがて、絞り出すように一言言った。
「………言いたくない」
論理が私に言いたくないなんて…。よっぽど嫌なことを言われたんだな。私は、これ以上論理に詮索しなかった。
「文香、これから音楽室まで一緒に付いて行っていいか?文香のことが心配で」
「え…」
私は、不安になる。また、論理が佐伯さんたちにやられたら…もうこれ以上論理を傷つけたくはない。
「その気持ちは嬉しいけど、いいよ、私一人で行く。また論理がやられたらって思うと、つらい。論理を傷つけたくない」
「昨日はやられたが、佐伯たちにまでやられるほど、俺はそこまで弱くはない。音楽室で何があるかと思うと、いても立ってもいられない。いざとなったら、ひと暴れする覚悟はある。行かせてくれ」
佐伯さんたちも結構強いんだけどな…でも、こう言い出すと論理聞かないよねぇ…。
「わかった。一緒に音楽室まで来てくれる?」
「ありがとう」
私たちは、学校の昇降口までやってきた。靴を履き替え、廊下を歩く。音楽室へと続く階段を昇る。プールで歩くみたいに足がやけに重くて疲れる。はぁ、佐伯さんたち、また仕掛けてくるかな…そしたら、今度は私が論理を捨て身で守らなくちゃ!でも、秀馬くんが厳しく言っておくって言ってくれてたから大丈夫かなぁ…。何にしても不安しかなくて、お腹が痛くなってきた。
「………したかわかってんのかあぁぁっっっ‼︎」
と、上の音楽室のほうから、何か怒鳴り声が聞こえた。この声は、もしかして…!論理と私は、顔を見合わせ、駆け足で階段を昇った。音楽室の前で、数人が集まっていて、何人かが床に倒れていた。倒れているのは、昨日私に暴行を加えた人ばかりだった。そしてその中央には、秀馬くんが佐伯さんの胸ぐらをつかんでいる。秀馬くんは、私の見たことのない怒りの表情で顔を覆っていた。もしかして、みんな秀馬くんがやってくれたの?
「お前、文香になにしたかわかってんのかって聞いてんだ‼︎答えろ…答えろぉっ‼︎」
秀馬くんが、吠える。こんな秀馬くん見たことない…あの温厚な秀馬くんが…秀馬くんも怒るときは怒るんだ…。佐伯さん、好きな人にこんなふうに怒鳴られて、悲しいだろうな…。でも、佐伯さんの顔は、何故か恍惚としていた。
「はぁあああっ!秀馬、もっと殴ってください!はあぁ…秀馬があたしを見てくれてる…怒鳴ってくれてる…嬉しい…嬉しいぃぃ…!」
佐伯さん?ど、どうしちゃったんだろう…なんだか様子がおかしい…。
「てめぇっ‼︎ふざけるのもいい加減にしろっ‼︎」
秀馬くんの拳が、佐伯さんの顔にヒットする。痛そう…。でも、佐伯さんの淫靡な表情は変わらない。
「痛い!痛いよぉっ!でもこれがすごく気持ちいいですぅ!秀馬、もっと殴って!もっと殴ってあたしを気持ちよくしてください!」
佐伯さんは、秀馬くんに殴られて何故か喜んでいる。殴られて気持ちいいって…どういうこと?
「相変わらずイかれてやがる‼︎」
秀馬くんは、佐伯さんを思い切り突き放した。
「え?秀馬、もう怒鳴ってくれないの?もう殴ってくれないの?秀馬、秀馬ぁ、お願い、あたしを殴って!殴ってくださいいいっ‼︎」
佐伯さんは絶叫しながら、秀馬くんの足にしがみつく。
「お前は、文香を傷つけた。そうだろ?」
「はい!そうです!あたしは文香を傷つけた悪い雌豚です!だから秀馬、殴ってください!」
佐伯さんは、まるで、主人が餌をくれるのを待つ犬のような姿で秀馬くんにそう縋る。佐伯さんの知られざる一面を見て、私は唖然としていた。秀馬くんは、道路の脇の下痢便を見るかのような目で、佐伯さんを見る。
「いいか雌豚、よく聞け。今後文香に手を出したら、てめぇのことは徹底して無視してやるからな!わかったかっ‼︎」
秀馬くんがそう怒鳴ると、佐伯さんの顔は、みるみるうちに青くなった。
「秀馬!そ、それだけはやめてください!構ってください!あたしを一人にしないでください!秀馬!秀馬ぁ!あうっ!」
秀馬くんは、足に泣きついて懇願している佐伯さんを蹴り飛ばし、私と論理のもとへと歩いてきた。
「よ、二人ともおはよ。これでもう多分遥たちは何もしてこないだろう。安心して過ごせ」
「お、おはよう、秀馬くん。ありがとう」
私の言葉に、秀馬くんは頬を染めた。
「秀馬くんと呼んでくれるか、ありがとう」
論理が、一歩前に出る。
「おはよう、秀馬。すまない」
論理がそう言うと、秀馬くんは、一瞬驚いた顔を見せたけれど、そのあと嬉しそうに微笑んだ。
「初めて挨拶してくれたな、論理。ありがとう」
「お前には挨拶したい気持ちだ」
論理くんはそう言って、照れ臭そうに笑った。そのあと、先生たちが来て大騒ぎになった。秀馬くんは、担任の倉橋先生に連れていかれ、こっぴどく怒られたみたいだけど、事情をわかってくれた先生は、許してくれたみたいだった。佐伯さんは、一週間の自宅謹慎を言い渡された。そして合唱部は、部員全員の連帯責任という形で、一週間の活動停止ということになった。そのあと、私と論理が教室に入ると、クラスのみんなは私たちの顔を見て、どうしたのどうしたのと聞いてきた。事情を話すと、みんなは驚いていた様子だった。そして、秀馬くんはみんなに褒め称えられていたけれど、秀馬くんは、「大したことはしていない」と言って、平然としていた。
「それにしても、私がいないときにこんな大変なことになってたなんて…副部長として失格だわ…」
「あはは、優衣は昨日さっさと帰っちゃったもんね。朝は来なかったし」
その日の休み時間。いつもの四人と、秀馬くんとで、昨日と今日の騒動のことを話していた。
「不覚にも寝坊したのよ…。ぶんちゃん…こんな酷い顔になっちゃって…かわいそうに…私がその場にいれば助けられたかもしれなかったのに!佐伯のやつ、一週間の謹慎だけじゃ済まされんぞ!退部しろ退部!」
優衣は、私のために怒ってくれて、私の頬を撫でてくれた。
「論理も大変だったな」
沢田くんが論理に声をかける。
「たださぁ、こう言っちゃ悪いけど、論理、俺の目から見てもお前が喧嘩が強そうには到底見えねぇ。それで浦野先輩たち三人組に向かってったとあっては、そりゃほら、あれだよ、昨日国語でならったやつ」
「『蟷螂の斧』ね」
私が沢田くんの言葉を補うと、論理は顔を伏せた。
「自分がカマキリ並みだということはわかっていた。だけど、カマキリでも文香を少しでも守りたい一心だった。こういう結果にはなったが」
そういう論理に、優衣がうなずいて見せた。
「その論理の心意気はすごいと思う。でも、それほどの心意気でぶんちゃんを思っている論理と、論理に歌を聴かせたい一心で部長にまで昇ったぶんちゃんを、佐伯はここまで傷つけたのよ。許せない!」
「もういいよ、秀馬くんが私たちの代わりに佐伯さんたちを黙らせてくれたから…ね、論理」
「俺は、向坂さんと同じで佐伯たちを許せない。文香の大事な顔をこんなにしやがって…佐伯のやつ…!」
論理は私の頬を撫でながら、怒りに顔を歪ませた。
「論理、ありがとう。昨日も私を守ってくれてありがとう。嬉しかった。みんなもありがとう、心配してくれて。でも私は大丈夫だからもう佐伯さんたちを怒らないで。…でも、これからの合唱部が心配だけど」
私は、頬を撫でてくれた論理の手を握りながら言う。
「だーいじょうぶいっ!頼りになる副部長がいるでしょー!それを忘れるなっ!」
優衣が、右手でVサインを作りながら笑う。
「優衣…」
「池田、俺も相談くらいなら乗ってやるから、いつでも言うんだぞ」
沢田くんも、ニカっと笑う。
「沢田くん…」
「また遥が何かしてきたら、俺に言え。必ずなんとかする」
秀馬くんも心強い笑顔を見せてくれる。
「秀馬くん…」
「今度こそ俺が文香を守る…と言いたいところだが……、文香には俺を含めてみんなが付いてる。それを忘れないでほしい」
論理が、優しく笑った。私は、目頭が熱くなるのを感じながら、みんなを見た。
「論理…ありがとう。みんな、ありがとう。私、みんながいるから大丈夫なような気がするよ。部長は辞めるけど、合唱は続けたいから!」
その私の言葉に、優衣と沢田くんと秀馬くんが、口を揃えて小さく「えっ」とつぶやいた。論理は、悲しそうにうつむいている。
「部長辞めるって、どういうことよ⁉︎まさか、佐伯のために部長辞めるって言うの⁉︎そんなことしなくていいわよ!」
「そういうわけじゃないよ、優衣…やっぱり私には部長やれるだけの器が無かったってだけの話だよ」
「ぶんちゃん!」
優衣の叫びを、秀馬くんが制する。
「向坂、文香もいろいろ考えての苦渋の決断だろう。その決断を認めてやれ。だがな文香、一言言っておくが、後悔だけはするなよ」
後悔なんて…ない…と、思う…。
「……うん」
私は、消えるような声で答えた。
「ふぅ…この一件で文香が部長を辞めるだなんて、あのドM…」
「どえむ?」
秀馬くんの言葉に、私はキョトンとした。
「あ、ああ…遥のことな。いろいろあって遥は殴られたりして喜ぶドMになったもんだから、救いようがない。可哀相なやつだ、まったく…」
殴られたりして喜ぶ人のことをドMって言うんだ…。それにしても、なんだか秀馬くん、佐伯さんに何か思うところがありそうだなあ…。
「えー、なにそれキモぉ!とにかくぶんちゃん、部長辞めるなんて私は許さないんだからね!あ、もうすぐ休み時間終わっちゃう。私トイレ行ってくるね」
優衣は、トイレに向かって小走りで駆けていった。
「あ、じゃあ私も」
私も優衣のあとを追いかける。まあいろいろあったけど、なんとかなりそう。優衣はああ言ってくれるけど、私は…部長を辞めると思う…。悲しいけど、しかたないよね…。

合唱部の謹慎が終わり、今日からまた練習が始まる。朝、私は不安を抱えながらも、論理とともに音楽室へ向かった。佐伯さんたちと、私うまくやっていけるのかな…。会うのがつらかった。論理は、何かあったらいつでも助けに飛び込む、と言ってくれて、音楽室の外で待っていてくれることになった。
「おはようございます…」
恐る恐る音楽室の扉を開くと、私をいじめた佐伯さんたちがもういて、集まって何か話していた。私は、あまりそちらを見ないように、他の人たちのほうへ向かう。
「池田、ちょっと来な。話がある」
ドキ。佐伯さんが、ぶっきらぼうに私に話しかけてきた。相変わらずのアニメ声のベビーボイス。声優さん当てたら誰になるのかな。でも佐伯さん、なんの用だろう…。
「は、はい…」
何故か敬語になってしまった。佐伯さんを見ると、怒っているような、でも困っているような、複雑な表情をしていた。
「この前は、悪かったよ。あたしたちもやりすぎた」
意外。佐伯さんが謝ってきた。佐伯さんの取り巻きの、安田さん、中小路さん、小林さんも、口々に私に謝ってくれる。
「い、いや、私もちょっと思い上がっていたところあったと思うし…ごめんなさい。もう、部長は辞めるつもり」
「はぁ⁉︎」
いきなり佐伯さんが声を荒げた。えっ?私は、ビビって竦みあがってしまう。
「てめぇ、あたしたちがちょっといじめたくらいで部長辞めんなよ!最後までやり通せよ!それとも、てめぇの部長の心意気はその程度だったんか⁉︎」
佐伯さんの意外な言葉に、私は少し驚く。
「佐伯さん…でも、私が部長なの気に食わないんじゃ…」
すると佐伯さんは、目を泳がせた。
「あたしが気に食わないのは、てめぇが部長だからじゃなくて……しゅ、しゅ、…うぅぅ…」
何故か佐伯さんは、そう言ったまま顔を赤くしてうつむいてしまった。
「え?なに?佐伯さん」
「…しゅ、秀馬がてめぇのことを好きだからだよ!」
佐伯さんは、顔を真っ赤にしてそう言った。あ、そっか、佐伯さん、まだ秀馬くんのこと好きだったんだ。佐伯さんからしたら、私は泥棒猫なんだよね…ちょっと気まずい…。
「ご、ごめんね…佐伯さんは秀馬くんの彼女だったのに、私のせいで別れちゃって…私、泥棒猫だよね…本当にごめん…」
私がそう言うと、佐伯さんは、いきなり私の胸ぐらをつかんだ。
「てめぇっ‼︎喧嘩売ってんのか⁉︎」
え?私佐伯さんのこと怒らせた?また殴られるのは嫌だよぉ…。
「え、え…私、そんなつもりじゃ…」
「まぁいいよ…」
佐伯さんは、手を放してくれた。
「秀馬の心は変えられねぇし…あたしもそろそろ諦めなくちゃいけねぇんだけどさ…でも、好きなのに諦めるなんてできねぇよ…」
「佐伯さん…」
私のせいで、佐伯さんがつらそうにしているのを見るのはつらかった。秀馬くん、どうにかまた佐伯さんとよりを戻してくれないかなぁ。
「まぁ!とにかく、あたしらはこれからちゃんとてめぇに従うから、しっかり部長の役目を果たせよ!応援してやるから、がんばれ!」
佐伯さんはそう言って私のもとから離れていった。他の人たちも離れていく。
「ちょっと待って佐伯さん」
「なに?」
「どうして応援してくれるの?」
私がそう聞くと、佐伯さんは口をへの字口に曲げた。その表情はまるで、小さな子どものように見えた。
「だって…、てめぇをいじめると、秀馬があたしのこと無視するって言うから…。そんなの嫌だから…。それであたしもいろいろ考えたんだよ…」
しおらしくなる佐伯さん。このときだけ、台詞と声色がマッチした。
「そっか…ありがとう、佐伯さん」
「礼なんて言うなよ、バカ」
バカとは言うけれど、佐伯さんはなんだか嬉しそうに見えた。気のせいかな。
「あ、それとね、佐伯さん、聞きたいことがあったんだけど」
「なに?まだあんの?」
「殴られて気持ちいいってどういうことなの?あのときの佐伯さん、別人みたいだったから私驚いちゃったんだけど…、ねぇ、私は殴られても気持ちよくないんだけど、佐伯さんは気持ちいいの?どうして?」
私がずっと疑問に思ってたことを聞くと、佐伯さんは凍りついた。
「あ、あはははは……。なぁ、池田は、太田に殴られたことあるか?」
「え?ないけど?」
「今度殴られてみなよ。そうしたら、あたしの気持ちがわかるかもしんねぇ」
佐伯さんは虚空を見ながら、乾いた笑いを繰り返していた。秀馬くんが、佐伯さんは過去にいろいろあって、ドM?っていう性癖になったって言ってたけれど、一体何があったんだろう。聞きたかったけれど、さすがにそれは聞けなかった。そのあと、音楽室の外にいる論理に、佐伯さんたちと仲直りしたことを伝えた。論理は、佐伯さんたちに復讐してやりたいって言ってたけれど、私が、許してあげて、と言うと、論理は納得のいかない様子ではあったけれど、うん、と言ってくれた。久しぶりの合唱部の練習は、佐伯さんたちが私に協力的になってくれたおかげか、なんだか前よりもみんなの心を揃えて練習できた気がした。あと、佐伯さんがああ言ってくれたのと、私もやっぱり部長を最後までやり抜きたいのとで、私は部長を続けることにした。なんやかんやで、佐伯さんたちと仲直りできてよかった。私は、ホッと胸を撫で下ろした。
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