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二十七、論理くん、ブラボーと叫ぶ

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合唱コンクール当日。昨日は少し緊張してあまり眠れなかったけど、いつもの調子で歌えば大丈夫だよね!論理くんも聞きに来てくれるし、がんばるぞ!
「よっ!」
学校の校庭に着くと、もう少しみんな集まってきていて、その中で後ろから優衣に背中を叩かれた。優衣も髪を切ってきていて、リップより少し下のおかっぱを輝かせていた。
「おはよ!優衣、今日はがんばろうね!」
「うん、がんばろー!」
優衣は元気よく右の拳を掲げる。
「ぶんちゃん、おかっぱ揃えてきた?ずいぶん切ったよね」
「うん。優衣もでしょ?」
「ばっさりかっちりね。お互いさぁ、髪が短くぴしっと揃うと気持ちよくて、声も出るよね!」
切りたておかっぱに力を込めるように、頭を勢いよく振る優衣。おかっぱがぶんぶんと揺れた。
「うん、ほんと」
優衣は「それにしても…」と言いつつ、私のおかっぱを眺める。
「ぶんちゃんのおかっぱって、ほんと短いよね。リップラインより上でしょ?」
「うん、短いよねぇ」
「思ってたんだけどさ、この襟足のあたりの毛?いつもきれいに剃ってあってぜんぜん伸びてないよね。毎日手入れしてんの?」
その優衣の言葉に、私は照れて、あはは、と笑った。
「二日か三日に一度は剃ってる。お風呂か、……論理くんに」
「えーっ」
優衣は両手で口を覆い、驚いた声を出した。
「論理が?じゃあさ、もしかしてその剃り跡も論理の好みなわけ?」
「うん。襟足が丁寧に剃ってあるのが好きらしい」
優衣の顔が呆れで満ちる。
「あひゃー、相変わらず変な趣味」
「ちなみに横の毛も、ちゃんと剃ってあるほうがかわいいって」
私は横の髪を掬い取って、もみあげの部分を優衣に見せた。
「げ、もみあげ、ないじゃない。それも論理の好み?」
「そう。前髪もこの長さがいいんだって。この、眉頭が見えるくらいでカットライン作るの」
「あああ、そのおかっぱも、論理菌に感染した結果だったか」
優衣は両手を広げて顔をすくめた。
「ぶんちゃんさぁ、少しぐらいは『論理はそのスタイルが好きかもしれないけど、私はこれが好きなのっ』ってのないの?」
「あるけど…」
私は、論理くんを思い浮かべて笑う。
「どんな服着るにしても、髪をどう揃えるにしても、『論理くん喜んでくれるかな』が第一だよ」
「やれやれ、ぶんちゃんは論理なんかには過ぎた彼女だよ」
苦笑いする優衣に聞いてやる。
「優衣だって、沢田くんの好みに合わせたいって思うんじゃない?そのおかっぱだって」
「いやぁ、ウチはそういう訳にはいかんですわ」
優衣は小さなため息をついた。
「そういう訳にはいかないって?」
私にそう聞かれた優衣は、口を大きく開いてたくさん息を吸った。でも論理くんが言っていたように、音はほとんど聞こえなかった。
「義久ねぇ、女の子の髪とかファッションとかにまるで興味がないのよ。このおかっぱだってさ、あの三つ編み切ったとき以来だから、かれこれ三ヶ月以上になるじゃない。四センチは切ったよ。前髪だって伸び過ぎてうざったいくらいだったのを、眉まで切って、随分イメージ変わったはずなのにさぁ、昨日カットのあと義久に会ったら、まるで気がつかないの」
沢田くん、マイペースというか、女の子を喜ばせるのが苦手というか。優衣のおかっぱも、ずいぶん短くてかわいらしく揃えてある。気づいてあげなよ…。
「ま、そういう人だってわかって好きになってるからいいんだけどね」
優衣はそれでも、少し寂しげにそう言った。そのうちみんなが集合し、西山先生がバスに乗るように指示をする。さあ、いよいよ出発。私は、自分の剃りたての襟足を指で触る。論理くん、聞いていてね!私、今日はがんばるからね!

公会堂に着き、みんなバスから降りていく。見渡すと、他の学校の合唱部のバスも並んでいて、たくさんの合唱部の人たちが集まって来ていた。今日はこの中の誰よりもきれいな声で歌ってやる!と、心の中で闘争心を燃やす。今は九時十五分。論理くんは九時には来てるって言ってたけど、もういるかな。私は、キョロキョロと辺りを見回したけれど、論理くんらしい人は見当たらなかった。
「ねぇ、今日沢田くんは見に来るの?」
公会堂の中へと歩いていく途中、優衣に尋ねる。
「優衣は俺がいないと実力を発揮できないだろうからな、とか言ってたから、来るよ」
そう言って、優衣は嬉しさを噛み締めたように笑った。
「そっか、よかったね。論理くんも来るって言ってた」
「そりゃそうでしょ、来ないほうがおかしいわ。もう来てるかな~」
ロビーに出ると、人で溢れかえっていた。私は、歩きながら論理くんたちを目で探す。こんな人混みの中から論理くんたちを見つけるのは難しいぞ。結局見つからず、私たちはホールに入って先生の指示で自分たちの席に着いた。
「ふぅ…緊張してきた…優衣も緊張してる?」
隣の優衣に話しかける。
「私もちょっと緊張してるけど、それよりさ、あの最前列で何やってるんだろ?」
「え?」
優衣にそう言われ、客席の最前列に目を向けると、最前列の真ん中の辺りに誰か座っていて、スタッフらしき人と何やら口論みたいになっている。なんだろう?
「あれ、義久⁉︎と、論理じゃない?」
「えっ⁉︎」
優衣に言われ、よく目を凝らすと、確かに論理くんと沢田くんの後ろ姿だった。二人とも一体なにしてるの⁉︎
「優衣、ちょっと行ってみよ!」
私は優衣の手を引っ張り、駆け足で最前列へ向かった。そこにいたのは、やっぱり論理くんと沢田くんだった。
「ですから、この席は出演者用の席なんですよ、何度も言わせないでください」
スタッフの人が、うんざりしたように言っている。
「何度も言わせるなはこっちのセリフだ。俺たちはここで、恋人の歌声を聞きにきたんだ。誰に文句を言われる筋合いもない」
論理くんが、怖い表情をしてスタッフの人に歯向かっている。一体何があったの?
「すみません。…論理くん、なにしてるの?」
私は、論理くんとスタッフの人の中に割って入った。
「あ、池田さん。俺は、公会堂の最前列で池田さんのソプラノを浴びたいだけなのに、こいつがいろいろ馬鹿なことを言うんだ」
「馬鹿なこと?」
「馬鹿なことのはずないでしょう…。ここは、出演者用の席と決まっているんですよ」
スタッフの人の言葉に、私は全てを察する。あー、なるほど…。前に論理くん、最前列で私のソプラノを聞きたいとか言ってたっけ…。それで論理くん、ここは出演者用の席なのに陣取っちゃってるんだ…。
「義久もここで何をしてるわけ?」
優衣が沢田くんに聞くと、沢田くんは困ったような苦笑いをして言う。
「いやぁ、論理がどうしてもここで聞きたいって言うから付き合ってるんだけどさ…。おい論理、諦めろよ、まずいぞ」
「嫌だ!俺は、ここで池田さんのソプラノを、音符一つ残らず聞き届けるんだ!」
論理くんの大きな声がホール内に響き渡った。ホール内のざわめきが静まり返る。私は、論理くんの手を握った。
「論理くん、前に最前列で瞬き一つしないで私のソプラノを聞き届けたいって言ってくれてたよね。だからここに座ってくれてるんだよね。その気持ちはすごく嬉しいんだけど、ここは出演者用の席だって決まってるから、一般用の席に行かなきゃいけないんだよ」
論理くんに丁寧に説明する。論理くんは、黙ってそれを聞いていてくれた。
「論理くんが最前列にいても、十列目にいても、論理くんが私のソプラノを聞いてくれる気持ちは変わらないはずだし、私が論理くんに歌う気持ちも変わらないよ。だから一般席に行こう?」
論理くんは、目を伏せてしばらく考え込んでいたけれど、やがて立ち上がった。
「じゃあ行くよ」
論理くんは、後ろを向いて一般席の方に向かった。
「ありがとう、論理くん!」
私はその後ろ姿に声をかけた。
「やれやれ、ほんっと人騒がせなヤツなんだから!さて、私たちも席に戻りますか」
優衣はそう言って、自分の席へと戻り始めた。私もそれに続く。
「優衣!」
背後から、沢田くんの声。優衣は振り向いた。
「俺はお前のソプラノ、聞き届けてやるから」
沢田くんは真剣な眼差しでそう言ったあと、颯爽と一般席へ歩いていった。
「えっ…」
優衣の顔が、みるみる真っ赤になっていく。
「……ぶんちゃん」
「え?なに、優衣」
優衣は、真っ赤にした顔を私に向け、私の手を取った。
「私、義久のためだけに歌う!」
「う、うん…、私も、論理くんのためだけに歌う!がんばろうね!」
私たちは、固く手を握りあった。
「おいおい、池田、向坂」
背後から呼ばれたので振り向くと、そこには西山先生がニヤニヤ笑いながら立っている。
「何を色恋沙汰してるんだ、お客さん全員のために歌いなさい」
「あ、はい…」
「そろそろ時間だから、お前たちも早く席に着きなさい」
私たちは、自分の席に着いた。

合唱コンクールが始まった。私たちの出番は六番目。三番目の学校の発表が終わる辺りで、私たちは楽屋に行って最後の練習をする。それまで、他の学校の発表を聞く。一番目の学校の発表が始まった。結構うまい。少し悔しい。昨年私たちは入賞できなかったけど、今年は入賞したいな。今年の課題曲は、『サメの社交ダンス』。この学校の人たち、私たちと少し歌い方が違うなぁ。そこは少し伸ばすのか、私たちはあまり伸ばさないけど。課題曲が終わり、自由曲に入る。自由曲は聞いたことある。『天使と羊飼い』という歌だった。これ、難しそうな曲だよねぇ。アカペラだし。あ~やっぱりここの学校上手いよ。一番目の学校の発表が終わった。上手だったけど、私たちだって負けないんだから!二番目の学校の発表が始まる。ここの学校も上手だった。あー私たち負けるじゃん~!どうしよう!まぁでも、順位なんて関係ない!論理くんに聞いてもらえればそれでいいからね!二番目、三番目と発表が終わり、私たちは西山先生の指示で席を立ち、楽屋に向かった。楽屋には、ピアノ一台が置いてあり、私たち全員が並んで歌えるくらいの広さだった。西山先生は、
「お前たち緊張してるか?でも、いつも通りに歌えばそれでいいからな、がんばれよ!」
と、みんなを励まし、練習に入った。私の今日の喉のコンディションはいつも通りだったから安心した。これならいつも通りの歌声を出せる。今日のみんなの歌声には、勢いがあるように感じた。みんながんばってるなぁ。ここまで練習して来たんだもんね、自分のベストを尽くしたいよね。論理くんにも、私のベストの歌声を聞いてもらいたい!練習は十五分間だったけれど、かなり短く感じた。最後にみんなで円陣を組み、部長の古本博美(ふるもとひろみ)先輩の掛け声で気合を入れた。そのあと、ステージの袖まで移動した。そこで整列して出番を待つ。さっきよりもかなり緊張してきた。心臓がばくばくしている。でも、がんばるからね、聞いててね、論理くん!
「ぶんちゃんぶんちゃん!」
斜め後ろの優衣が、小声で話しかけてきた。
「どうした、優衣?」
「私もうだめ…緊張するぅぅ~」
「私も。でも、私は論理くんのために、優衣は沢田くんのために歌うんだから、ファイトだよ!」
私は、論理くんの顔を思い浮かべながら、両手でガッツポーズをした。
「義久のやつ…さっき急にあんなこと言うんだから…もーっ!」
「お互い、幸せだね」
「うん。必死に歌おうね!」
優衣はそう言って、私に拳を見せた。私も、右手の拳を優衣の拳に重ねる。前の学校の発表が終わった。さぁ、いよいよだ。私たちは、ステージの光の中へ歩き出した。

自分の位置に着く。照明が眩しいくらいに私に降り注ぐ。さぁ、今日の主役は私だぞ、と言わんばかりに。その通り、今日の主役は私。その私の相手役は…。客席に目をやる。出演者席がポカッと空いていて、そのすぐ後ろの席に、いた。論理くん。あぁ、論理くん。身を乗り出して、私を見つめてくれている。論理くん、なんでこんなに愛おしいんだろう。私、あなたのために必死に歌うからね。西山先生が登場し、客席に一礼する。拍手。それが鳴り止むのを待って、先生は指揮台へ上がり、みんなに向かって笑顔を見せると、両手を開く。私たちは歌う姿勢をとる。ピアノの音が流れてくる。先生が、指揮棒を振る。さぁ、歌う!
「たーしかーにーぼくはサメー」
よし、出だしは好調。心臓は相変わらずばくばくしてるけれど、いつも通りに歌えばいい。私のベストをここで出すんだ。順調に歌っていき、中盤に差し掛かる。西山先生の指揮を見つめながら、私は、論理くんに私のソプラノが聞こえてるかな、と思ったりした。
「ひかりはーじけるあさー」
ピアノの細かい連打のあと、私は思い切り「すはあああっ!」と息を吸い込んで、声の限りに歌った。この歌はほとんど勢いが激しいので体力を使う。顔に汗が滲んできた。
「サーメーにーはキバがあるー」
少しの間奏のあと、クライマックスに向かう。
「そーしーてー」
ここは腹筋をよく使って、声を飛ばす。
「おもいでがーあーるー」
最後の高音をお腹の底から振り絞って、私は課題曲を歌い終えた。いつもながらに厳しい歌だったけれど、体力はまだ十分に残っている。よくハモってたし、みんなよく歌えたと思う。さぁ、次は自由曲だ。『わたしが呼吸するとき』。これを歌っているときは、よく論理くんのことを思い浮かべていた。だって題名が、『わたしが呼吸するとき』なんだよ⁉︎ぴったりじゃん!そのまんまじゃん!チラッと、論理くんを見た。論理くんは、身動きひとつせず、ひょっとしたら瞬き一つせず、目を大きく見開いて、私を見つめてくれている。論理くん、今の歌聞いてくれたよね。きっと、私だけの歌声しか聞こえなかったよね。あと一曲あるから聞いてね!そして、自由曲が始まった。
「なーにーもーかーも」
ピアノの音のあとの、「な」に、力を込めて、でも乱暴にならないように声を出した。うん、いい感じ。
「いらだち」
ここにも力を込めて、苛立ちを表現する。
「だーけーど」
ここまで歌い終えて、ピアノの間奏が入る。そして、あのフレーズ。
「わたしがこきゅうするとき」
私が呼吸するとき。論理くんは、射精してくれる…。あっ、いけない、こんなときにこんなこと考えちゃだめだめ。
「はしりだーすしまうまのむれーとびたーつふらみんごーおーろーらはおーどるー」
ここはよく声を出せるし、ハモったときのメロディーがきれいだから好きな箇所。
「あなーたがーわーらーうー」
論理くんも笑ってくれるよね。そして、きれいなピアノの間奏があり、また私は歌い出す。
「よろこびかなしみすべてがーいとおしいー」
喜びは大きく歌い、喜びを表現。悲しみは小さく歌い、悲しみを表現する。
「わたしたちーこのせかーいをーへいわにだってでーきる」
さあ、クライマックスだ。論理くん。今歌っていても、頭の中は論理くんでいっぱいだよ。論理くんに出会えて、付き合えて、ここまでこれて、私本当に幸せだよ。だからそのお礼を、今、この歌に乗せて送るよ!
「あーいーとーへーいわー」
西山先生の指揮も、最後に向けて熱くなる。私たちの歌声も、熱くなる。
「あなーたとーわーたーしー」
ピアノが、最後の音を奏でた。私たちは、歌い終えた。その瞬間だった。
「ブラボーーーーー‼︎」
客席から、叫び声。論理くんが立ち上がっている。叫び声の主は、言うまでもない。論理くんらしいや…。一瞬、私も、舞台の上の私たちも、客席の人たちも、凍りついた。だけどやがて、論理くんの叫びに導かれるように、喝采が私たちを包んだ。

歌い終わった私たちは、ステージの袖に退いてきた。部員のみんなが小声で、あのブラボーのことを囁いていた。
「なにあれ?ブラボーってなに?」
「ちょっと変な人なの?」
「あれ、太田先輩だよ。噂に聞いてたけど、本当に変な人だね」
ああ…みんなごめんよぉ…恥ずかしい…。
「ちょっと、池田さん」
振り返ると、部長の古本(ふるもと)先輩がいた。
「あ、はい、部長、お疲れ様でした!」
私は、丁重にお辞儀をする。
「おつかれ。ところで池田さん、ブラボーってどういう意味か知ってる?」
えっ…部長、怒ってるのかな…。
「えっ…えっと…ブラジャーの仲間でしょうか…?」
「違う。相変わらずだね。ブラボーというのは、喜びという意味なの。観客が演奏を讃えて喜んで叫ぶ言葉よ。そしてあの自由曲は、喜びを歌った歌。それをあの叫びで、讃えてもらったわけかな」
「そうだったんですか…」
「ま、彼氏さんによろしく言っておいてね。ブラボーと叫んでもらえて、私の役目は終わったから。これからは池田さん、任せたよ」
「え…任せたって…えっと…」
部長は、にこっと笑って、去っていった。
「ぶんちゃ~ん!」
突然背後から優衣に抱きつかれた。私は少し前につんのめってしまう。
「わわわ、なに⁉︎」
「よかったねぇぶんちゃん!どこまでも付いていきますよ、部長!」
「何間違えてるの?部長はあっちだよ」
「またまたそうやってボケて。まぁいずれ正式に発表があるだろうからね。う~ん、そうしたら私は副部長かな」
よくわからないけど優衣はなんだか楽しそうだ。
「えー?どういうこと?」
「まぁ、あとになったらわかるよ。それよりさ、論理やらかしたよね!ほんっとあいつは…。部長がわかってくれたからよかったようなもんだよ」
優衣はそう言って、いーッとした顔をする。
「たしかに…みんな凍りついたけど…、論理くんのああいうところが好きだったりする」
私は、論理くんが論理くんだから好きなのだ。
「はいはいごちそうさま。…でも、ちょっと羨ましいかもね。でも、義久だって聞いてくれたよね」
優衣はそう言って笑った。その表情は実に充実したものだった。みんながステージ袖から歩き出したので、私たちもそれに続いた。

最後の学校が歌い終わり、休憩時間となった。優衣と私は、論理くんと沢田くんの座っている席へ向かった。
「論理くん!」
「義久!」
私たちが二人に声をかけると、二人は手を振って応えてくれた。
「池田さん、満喫させてもらったよ」
「二人ともおつかれさん」
「論理ぃ、やってくれたわね」
そう言って優衣は論理くんを睨む真似をする。そして沢田くんもあとに続いた。
「論理のやつ演奏が終わったら、やにわに立ち上がって『ブラボーっっ』だろ。ぶったまげたぜ」
「そんなに驚いたことか?」
論理くんは相変わらず平然としている。
「すばらしい演奏に感謝と賞賛を込めて叫んだまでだぞ。この澄み渡ったソプラノに、な」
論理くんがにっこりと微笑みつつ、私に眼差しを送る。論理くん…やっぱり好きだなぁ。
「あ、あの、そのぅ…あうぅぅ…」
「あーあー、はいはい」
優衣が苦笑いをしながら、両手を広げてみせる。
「ホントにあんたたち、自分たちの世界に入っちゃってるんだから!まあでも義久。義久だって、論理みたいに叫んでくれたっていいんだけど?もっとも私のメゾソプラノはぶんちゃんと違って、ブラボーに値しないというならしかたないけど」
優衣は、沢田くんから視線を逸らして言う。
「馬鹿言うなよ、俺にとっては優衣以外あるはずないだろ。…ただ、俺はそんなキャラじゃねーよ」
沢田くんの言葉に、優衣は、少しだけ寂しそうな顔をした。
「あっそ。ま、そうだよね、義久はそんなキャラじゃないか」
優衣…。そっか、論理くんみたいに、沢田くんにも何か言ってもらいたいんだ…。
「沢田くん…」
私が沢田くんに声をかけようとしたとき、沢田くんは立ち上がり、優衣の後頭部に手を回すと、そのまま自分の胸に引き寄せた。
「論理みたいな真似はできねーけど、優衣のメゾソプラノは、きれいだったな。歌ってる姿も惚れ直したぜ」
「よ、義久!なによこんなとこで!みんな見てるでしょっ!」
それでも沢田くんは腕の力を緩めない。
「優衣。その歌声、いつでも聴かせてくれよな!何度でも何度でも惚れてやるぜ」
「義久…」
望んでいた言葉を沢田くんから受け取った優衣は、沢田くんの胸に顔を埋めた。きっとすっごく嬉しそうな顔をしているに違いない。よかったね、優衣。私は論理くんを見る。優しい顔でうなづいた論理くんは、その右手を私の肩に、そっと添えてくれた。

いよいよ結果発表の時間になった。たとえ入賞を逃しても、論理くんに聞いてもらえたし、みんなで力一杯歌えたから悔いはない。司会者に促されて、コンクールの実行委員長がステージに立つ。
「それではこれより、NHK学校音楽コンクール尾風大会中学校の部、入賞校を発表いたします。まずはじめに、銅賞受賞校は──」
私は、銅賞辺りに入らないかな…。と思いつつ、ドキドキしながら結果発表を見守る。
「尾風市立丸の内(まるのうち)中学校!」
その瞬間、出演者席のやや下手よりの集団が、「きゃああああっ!」と歓声をあげる。だけどよく見ると、それらの中に唇を噛んでうなだれる子もいた。銅賞だから、それもしかたないかな。
「続いて、銀賞受賞校」
意地悪く間を開ける実行委員長。ドラムロールがあってもいいよね。さあ、尾風市立月影中学校の名前は出るかなぁ。
「………私立尾風清風(せいふう)中学校!」
今度は私たちのすぐ前で「きゃあああああ‼︎」清風の独特の青緑セーラーが目の前で舞い踊っている。この清風の演奏はうまかったから、これより上に出ることなんてちょっとないなぁ。
「さぁ、いよいよ金賞受賞校を発表します」
尾風市立月影中学校!…なわけないか。いやでも、もしかしたらもしかするし…!
「………尾風市立城山(じょうやま)中学校!」
「きゃあああああああっっ‼︎」
私たちの隣の集団から歓声が上がる。見ると、女子たちが抱き合いながら喜びを分かち合っていた。中には泣いている人もいる。金賞だもんね。よかったねぇ。でも、あーあ、今年も月影中は入賞できなかったか。残念。

コンクールが終わり、バスの出発まで時間があったので、合唱部のみんなから離れ、私たち四人は公会堂の外で立ち話をしていた。
「池田さん。今日は本当にありがとう。最前列じゃなかったけど、池田さんのソプラノを心ゆくまで堪能させてもらった。入賞はできなかったけど、あれほど必死に歌った人は他にいないと思う」
論理くんは、熱い眼差しで私を見つめながら力強くそう言ってくれた。
「ありがとう。論理くんがそう言ってくれるなら、入賞するしないなんてどうでもいいよ」
「そうそう。好きな人に聞いてもらうのがいちばんだよね」
優衣はそう言いながら、首を縦に振る。
「優衣。好きな人って誰だよ、はっきり言ってくれないとわからないな」
沢田くんが、優衣にちょっかいを出す。
「はっきり言わないとわからないおバカには興味ないから!」
優衣はそう言って沢田くんを睨んだけれど、ちょっと嬉しそうだった。
「そうそう、義久と話してたんだけどさ、あとまだ夏休み十日あるでしょ?その間にみんなでプールに行かない⁉︎ハルシマのジャンボ海水プールにさ!」
優衣が、瞳を輝かして提案してきた。
「ハルシマ⁉︎行きたい!行こ行こ!」
ハルシマのジャンボ海水プールは、よくCMでやっていて、行きたいなと思っていた。みんなで行くなんて楽しそうで、私も瞳を輝かせた。
「でも、夏休みの終わりのハルシマだろ?恐ろしく混まないか?」
論理くんは、心配そうな顔でそう言った。確かに…。
「混んだらその分たくさんの水着のねーちゃんが見られるからいいんじゃないか?」
「義久っ‼︎」
優衣の右ストレートが沢田くんの頬に炸裂する。
「それより論理くん、ハルシマ行けそう?お母さん何か言わない?」
「あんなやつは大丈夫だろ。駄目と言うなら押し切ってやるまでだ」
いいのかなぁ。今日も確かお母さん一人なんだよね。まぁ論理くんがいいと言うならいいのか。
「ねぇぶんちゃん、明日もし空いてたら水着買いに行かない?」
「あ、いいよ!」
水着かぁ。論理くんが喜んでくれそうな水着が買えればいいなぁ。
「よっしゃ!じゃあハルシマに行く日は明後日でいいかな?」
「私はオッケーだよ、優衣」
「俺も大丈夫」
「よしよし、目の保養ができそうだぜ」
沢田くんの言葉に、優衣は今度は平手をかまそうとする。
「俺のオンリーワンにな」
沢田くん、なかなかかっこいいこと言うじゃん。ほら、優衣がまた真っ赤になってる。
「…よ、よ、よし!決まり!じゃあ明後日は、尾風駅の壁画前に八時に集合ね!ぶんちゃん明日は一時に尾風の噴水前ね!はい、決まり!」
私たちが会話をしている間に、合唱部員の人たちが次々と帰ってきてバスに乗り込んで行く。やがて西山先生もやってきた。
「さぁさぁ、池田、向坂、お前たちも乗りなさい」
西山先生は、私たちの背中を押して、バスに押し込んでしまう。そして先生は論理くんに振り返り、意味深な微笑みを浮かべた。
「先生も合唱部の指導を十数年やってきたが、演奏をああやって讃えてもらったのは初めてだ。ただ、部員の中には反発している者もいる。そういう者と和解していくのが次の部長の役目だ。太田も陰で支えるんだぞ」
西山先生にそう言われた論理くんは、身を引き締めて西山先生を見つめた。次の部長って…もしかして、私?バスが動き出した。後ろの席から、何かひそひそ声が聞こえる。後ろの席にいるのは、同じ二年生の佐伯(さえき)さんと小林(こばやし)さんだ。
「あたしたちが入賞できなかったのは、絶対『あれ』のせいだよな」
「ねー、『あれ』ねー」
「ほんと余計なことしてくれるよなぁ」
……論理くんのこと馬鹿にしてるの?許さない。あ、でも…。さっきの西山先生の言葉が頭に浮かぶ。私は、何ができるんだろう。ふと窓の外を見ると、秋の気配が強くなった柔和な西日が差し込んできていた。窓に映る私の顔は、自分で言うのもなんだけれども、なんだか大人びて見えた。
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