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巻末付録その二 それぞれの明日

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「やったっ!ワイトクイーンS来たもんっ!」
文香が叫ぶ。路肩停車中の俺のパジェロミニ。顔を傾けて、運転席から文香のスマホをのぞき込む。後部座席から恵美ちゃんも顔を突き出した。
「ふーちゃんすごいい。ボクまだ一個もないよお」
「文香、これでワイトクイーン二個目か?」
「ううん三個揃ったぁ。ワイトクイーンはもう終わりだもん」
位置情報RPG「ドラドラドライブ」に興じる文香と俺。今日はそれに、わざわざ中穴島から尾風に遊びにきてくれた恵美ちゃんも含め、三人で楽しむ。
「ねええ、ワイトクイーンもうちょっとやろおよお。ボク尾風で一個は集めたいい。手ぶらで島帰ったらあ、ドラドラの運営があ、ケツの穴開いてえ、ボクを笑うよお」
「よし。じゃあワイトクイーン、もうちょっと確定ポイント探すか。文香、次はどこにある?」
「ええっとねぇ」
文香は画面を切り替え、「ラブドラ」アプリを立ち上げた。このアプリで、モンスターの「こころ」を探す。
「よしあった。ナビ入れるねぇ」
文香がカーナビを操作する。入力した住所は撫仏(ぶふつ)の街の住所だった。
「撫仏か。ちょっと走るな」
俺がそう言うと、恵美ちゃんが後部座席から声を出す。
「撫仏ってどこお?」
「尾風から三十キロぐらい走ったとこにある街だよぉ。ちゃまが勤めてる学校があるもん」
「あ、そおそおー、ロジックう、先生してたんだよねえ。不似合いすぎて大笑いだよお」
「うるさい恵美ちゃん。まあ、似合ってるとはあまり思ってないけど」
清心館大学の文学部を卒業した俺は、採用試験を経て、撫仏市にある北海国際(ほっかいこくさい)高校の国語科教員として働いている。この学校独特の、社交的で個性溢れる生徒たちに囲まれながら、俺は日々の勤務に勤しんでいた。
「よし、ナビ入れた」
文香が「案内開始」のボタンを押す。「およそ七百メートル先、右方向です」という機械音声。俺はパジェロミニを発進させた。でもそこに「あ、ちゃまごめん」と文香の声。
「どした?」
「スーパーモンスターいたもん。『ドラゴンロード』。ちゃま、そこ右入って」
「了解」
「メグちゃんもやるでしょぉ?」
「もちろんだよお。ドラゴンロードお、ボクS一つしかないしい」
右折して細い路地に入る。文香に案内されながら、左折、右折、また左折したところで、車を停める。
「よし、スパモンいたもん。メグちゃんもいたぁ?」
「いたよお。あー、『ふみか』の名前があるう。ふーちゃん一緒に戦えるねえ」
「こっちにも『メグ』いるよぉ。がんばろうねぇ」
画面が切り替わり、ドラゴンロード戦が始まった。文香と恵美ちゃんがタッグを組んで挑む。文香のスマホの中では、魔法戦士の「ふみか」、レンジャーの「ちゃま」、バトルマスターの「メグ」、賢者の「かずみ」(文香のお母さんだ)の四人が戦う。一方恵美ちゃんのスマホでは、海賊の「メグ」、スーパースターの「はーちゃん」、パラディンの「ロジック」、賢者の「ふーちゃん」のパーティだ。俺たちはゲーム世界の中といえども、遥を仲間にすることはできない。でも恵美ちゃんはまだ遥に思い入れがあるようだ。それも「スーパースター」とは…。確かに今、遥は声優の枠も超え、トップアーティストとして活動しているけれど。
「よーしっ、いくもんっ、『ミラクルサンライズ』っ!」
文香の声に合わせて、緑色の鎧に身を包んだ画面の「ふみか」が、手持ちの武器「ミラクルソード」を大上段に振りかぶり、魔物に叩きつける。この瞬間の「ふみか」の、渾身の表情がかわいくて好きだ。実際世界の文香がこんな顔をすることはない。文香、何か「えーいっ」と力を入れること、ないかな。俺に胸式呼吸を見せるとき、大きく口を開いて思いきり息吸い込んでる顔とか…。ちょっと違うか。
「ボクもいくぞお!『メイルシュトローム』っ!」
海の力を身に受けた海賊「メグ」が、その特殊スキルでドラゴンロードに大ダメージを与える。でも、実力とは裏腹に、「メグ」はかわいいセーラー服姿だ。そして実際の恵美ちゃんも、今日はセーラーを着ている。時折大学にも着てきた服だ。白い胴に黄色い襟、後ろ襟はW字形になっている。馬子にも衣装(いつも毒舌浴びせられっぱなしだから、せめて心の中でこう言ってやる)だな。戦いは「かずみ」や「ふーちゃん」の回復魔法に大いに助けられながら、順調に敵を攻撃し、五分ほどでこれを倒した。
「ありがとぉメグちゃん、海賊強いねぇ」
「こちらこそだよお。ふーちゃんのミラクルソードめちゃ強いー」
互いの健闘をねぎらいあう文香と恵美ちゃん。そして画面に「こころ」が現れる。メロディーとともに、ドラゴンロードの「こころ」がくるくると浮き出る。文香と一緒に、固唾を呑んでそれを見守る俺。その目の前に、虹色に輝く「S」の文字!
「出たぁーっ!」
拳を高々と振り上げる文香。ワイトクイーンに続いてドラゴンロードもS獲得だ。出現率一パーセント未満とされる「こころS」の二連続獲得はものすごく珍しい。
「何それえー。ふーちゃんばっかずるいい。安物の魚に当たって下痢しろお」
「えへへ、まあそう言うなだもん。これが文香様の実力じゃよ」
文香、よほど嬉しいらしく、お人形顔をトロトロにしている。二連続Sだもんな。それは嬉しいだろう。
「よーし、ちゃま、撫仏行くもん。安全運転でねっ。Sが事故の前ぶれだなんてシャレになんないもん」
「うん、行くか」
俺は車を出す。市街地を抜け、撫仏に通じる県道に入った。しばらく文香も恵美ちゃんも、無言でドラドラドライブに集中していたけれど、やがて文香がふとカーオーディオに指を伸ばす。
「FMでも聴こっかぁ」
「そうだな」
文香がオーディオを操作すると、スローテンポなバラードが流れてきた。ん?この歌声…。
「あー、はーちゃんさんだあー」
恵美ちゃんが声を上げる。やっぱり…。聞いた声だと思った。
「なんだはーちゃんかぁ。じゃあ聴くのやめよっか」
再びオーディオに手を伸ばす文香。でもそれを恵美ちゃんが引き止める。
「えー、ボク聴きたいい。この『逃げ水』って曲う、ボクよく聴いてるんだあ」
恵美ちゃんに付きあって、しかたなしに遥の歌を聴く。相変わらず「はあああっ」というブレスが目立つ。遥の歌とか演技とか、こうしてふとラジオやテレビで触れるのを除けば、目にも耳にもすることなんてない。今日、十二月三日で、遥と別れて(それは文香と始まった輝かしい日でもあるけれど)まる六年経つ。でもそれでも、進んで遥を見聴きしようとする気にはならなかった。それは文香も同じで、今も遥を嫌っている。曲はやがて終わり、DJが流れてきた。
「はい、我らがはるぴーこと佐伯遥ちゃんの『逃げ水』でした。十一月十五日、はるぴー七枚目のアルバム『sorry』をリリース、一昨日にはあの『ミュージックユニバース』に初出演を果たし、アーティスト街道まっしぐらのはるぴーですね。来月にはサード写真集『ひだまり』の発売も決まってます。デビュー六年のはるぴー、この一月一日で二十六歳です。輝く魅力をみなさん存分に味わってくださいねー」
「何が『はるぴー』だよ」
低い少年声を一層低くして、文香が吐き捨てる。
「いくら売れたって何の価値もないもん。身も心も、ちゃまさえも売り飛ばして手に入れた地位なんだから。あれからいったい何人の男と寝たんだろうね」
「……………」
ルームミラーを見ると、恵美ちゃんの輪っか三つ編みが、悲しげにうつむいていた。その前髪は、あのとき遥に切り揃えてもらってからずっと、眉上三センチのままだ。恵美ちゃんはそれが遥との絆だと思って、この長さを保っている。DJはさらにしゃべり続ける。
「さてさてはるぴーといえば皆さん、先日の『週刊春陽(しゅんよう)』ご覧になりましたか⁉︎前々からささやかれてましたけど、ついに出ましたねー、人気ロックバンド『EES』のギターにして音楽プロデューサーの『ディオ』こと栃尾大輔さんとの熱愛報道!結婚前提のお付き合いだそうです。さあ全国一千万人のはるぴーファンの皆さん、どうしますかー」
ディオ?それって、やっぱり…。
「恵美ちゃん、この週刊誌読んだ?」
「うん、読んだあ」
ミラーの中で、恵美ちゃんがうなずく。
「ディオってぇ、あのディオだよねぇ?」
「間違いないと思うー。名前もあってるしい…」
まだ信じられないといった感じの恵美ちゃん。
「ディオがあ、はーちゃんさんとお…」
かつて中三の恵美ちゃんと遊びで付きあった末に孕ませて堕ろさせた男が、ディオ、栃尾大輔だった。そのディオが遥と熱愛?世の中狭いな。
「ふふ…」
ちょっと笑えてきた。
「ディオと遥か。お似合いだと思わないか恵美ちゃん」
「ダメだよお」
恵美ちゃんの心配そうな顔。
「はーちゃんさん、遊ばれるー。よりによってディオとだなんてえ。ありんこがあ、アリクイの前にい、わざわざ這い出るようなもんだあ。はーちゃんさんー、絶対不幸になるう」
「あんな子、不幸になればいいもん。ありんこみたいに食べられりゃいい」
文香の言葉は、遥のことになると鋭さを増す。いつもながらのことだった。「すはあああっ」と、怒りを込めた、文香の胸式呼吸。
「アイドルはメリットのある人間としか付きあわないらしいじゃん。どうせディオとも損得が合うから寝てるんでしょぉ。そんな子に、私たちみたいな幸せが得られるはずもないもん。ね、ちゃま」
「そうだな。まあ、遥は遥なりに生きていけばいいんじゃないのか。それも遥の選んだ道だ。関心ないね」
「ロジックもふーちゃんもお、冷たいよお…」
DJの語りが終わり、FMからはまた遥の歌が流れてきた。
「もういいもん」
文香がFMを切ってしまう。オーディオからはまた、ドラドラドライブのBGM。それをバックに、しばし押し黙る三人。でも文香が沈黙を破る。
「メグちゃんは、『かわせみ荘』、うまくってるぅ?」
「うんん」
うなずく恵美ちゃん。中穴島に帰ってから、恵美ちゃんは本格的に「かわせみ荘」で働き始めた。今は仲居として元気に動き回っている。将来はお母さんの跡を継いで、女将になることが約束されている恵美ちゃんだった。
「恵美ちゃん、尾風に遊びに来てくれたのは嬉しいけど、旅館空けて大丈夫なの?」
「うんん、ここ数日はちょっと空いてるう。またあ、年末年始になるとお、忙しくなるけどお」
「そか、じゃあ大丈夫だねぇ」
「いろんな客来て大変じゃない?酔ったオッサンとかもいるだろ?」
「いるねえ」
輪っか三つ編みが苦笑いする。そして恵美ちゃんは細く口を開き、厚めの唇の間にできた黒い隙間に、「すはっ」と息を吸い込んだ。胸もお腹もほとんどふくらまないのが博美譲り。「すはあああっ」と肩上げて吸えよ…。
「でもお、やり過ごせるようになったあ。玉都でえ、ロジックやはーちゃんさんやふーちゃんとお、一緒に過ごせてえ、ボク変われたよお。酔っ払いなんてえ、チー牛食べてえ、ヘコヘコしてればいいんだあ」
ディオにやられて男性恐怖になり、百合っ子にまでなった恵美ちゃんだったけれど、あの玉都で俺たちと過ごした日々が、いい風に影響しているようだった。
「ボク彼氏募集中だしねえ。今年の九月二十六日にい、姉貴と村上が結婚してえ、ボクも負けてられないなって思ったあ。姉貴に勝ってるのお、体重だけだなんてえ、あってたまるかあ」
黒い隙間に息を吸い込みながら、恵美ちゃんが独特の間延び口調を聞かせる。
「恵美ちゃん、結い髪も似合ってかわいいし、共感力があって優しいから、きっといい人が見つかると思うよ!」
中穴島でも玉都でもお世話になった分(ちょっと毒舌なのと口元のしまりのなさは気になるけど)恵美ちゃんには幸せになってほしいと、強く思う。
「それにしてもぉ…、ひーちゃんと村上くんが結婚かぁ。メグちゃんから電話で知らされたときは、にわかに信じられなかったもん」
しみじみとした口調で文香が言う。文香と俺の結婚が、ちょうど二年前の今日(つまりカレカノになってまる四年後)。そこから一年九ヶ月遅れて村上と博美が結婚した。わがままで気分屋で薄情な博美の性格からして、結婚など無理中の無理と思っていた俺と文香だっただけに、この知らせは意外だった。
「いやになったらすぐ他の男に乗り換えるだろうと思ってたけどな。こんなに何年も続いて、あまつさえ結婚まで行き着くなんて…。どんなカップルだったのかな。恵美ちゃんのとこには、何も話入ってないんでしょ?」
村上と交際し始めてから博美は、一度も中穴島に帰ったことはなく、まともに実家に連絡も入れていない。九月二十六日にも、入籍だけして、式も挙げていない。
「何も聞いてないよお。いきなりい、姉貴から電話来てえ、『九月二十六日に入籍したあ』って話したからあ、家中びっくりしたあ。三歩先歩いてた人があ、突然心不全で死んだってえ、ここまでびっくりしないい」
「だろうねぇー。お父さんお母さんと村上くん、一度も顔合わせしてないんでしょぉ?」
「うんん、してないー。お母さんが電話で怒ってえ、『秀哉くん電話に出しなさいい』って言ったけどお、『今ここにいないい、私のすべては秀哉なんだからあ、それでいいい』ってえ、言い張るばっかだったあ。姉貴も頭カチコチい。脳みそ鉄でできてたってこんなカチコチじゃないい」
「『私のすべては秀哉』か。相変わらずの村上教信者だな、くくく…」
この二人がどんなカップルなのかは知らないけれど、愛する人が実家にかわいがられるような環境を作らなくていいものなのかと思う。村上教もいいが、まったくもって馬鹿な新婚だ。文香は、もうカレカノの時代から、お嫁入りして俺の実家の家族になった今まで、俺の両親や姉に「文香ちゃん、文香ちゃん」と呼ばれて愛されている。無論俺も、文香の実家やお母さんの会社「尾州フリーザー」に顔を出すと、「論理さんよく来たね」と迎えてもらえる。そういう、義家族とのつながりは、夫婦を営んでいく上で大切なもののはずだ。でも、玉都で孤立して暮らす村上と博美には、そういうこともわからないらしい。返す返すも、馬鹿な夫婦だと思う。
「ねええ、姉貴と村上結婚したのはいいけどさあ、部長さんどうなっちゃったのお?気になるう」
「東尾部長か。あの人も冷めてたな」
俺は部長が上海から帰ってきたときのことを思い返した。
「博美が村上に走ったことを知っても、さして表情を変えなかった。『ほう、そうか』みたいな感じで」
「うん、そうだったよねぇ」
と、文香。
「部長さん、自分からひーちゃんに告白しといてぇ、その実あんまりひーちゃんに関心なかったのかもねぇ」
「そっかあ…」
恵美ちゃんが後部座席で目を伏せる。
「姉貴い、部長さんにしてもお、村上にしてもお、ヘンな男にばっかあ、引っかかってるう。男運ないのかもお」
「まあいいさ、博美は博美で生きたいように生きれば。どうなろうが構わん」
俺はハンドルから手を離し、軽く振った。今更博美にも遥にも関心ない。俺の眼中は文香だけだ。
「何はともあれ、恵美ちゃん、博美なんかに負けない、いい出会いがあるといいな」
「うんん…」
それでも恵美ちゃんは、遥や博美が心配そうだった。ちょっとの間、黙ってうつむいている。眉上三センチの前髪が、額にかかっているのがかわいい。でもふと恵美ちゃんが顔を上げる。
「ねえロジックう、その服う、ふーちゃんとおそろのお、あったんだねえ」
後部座席から顔を出して、恵美ちゃんが左右にいる文香と俺をのぞき込む。今日の文香は黒灰色ワンピ。隣の俺は、そのワンピの上半分とそっくり同じ形状のブラウスに、黒のスラックス。
「これね、仕立て屋さんでこの前作ってもらったんだよ。文香のワンピ持ち込んで、『これと同じでお願いします』って言ってね」
俺がそう言うと、恵美ちゃんは「うふふ」と笑って、こう言った。
「ロジックう、セーラー好きだねえ。その服う、セーラーの上に白い襟あってえ、よけいに女の子っぽいよお。ロジックう、性染色体が狂ってるんじゃないのお?」
「うるさい、俺はノーマルな男だ」
「あはは、ちゃまはノーマルだよねノーマル」
文香まで意味ありげに笑う。
「ふーちゃんの目から見てどおお?六年付き合って、ロジック女の子みたいでいやにならなかったあ?」
「えへへぇ、そーだねぇ」
運転中の視線をちょっとそらして文香を見る。ミディアムおかっぱ(六年前のイヴからずっとその長さでいてくれる)の頭を傾げて、ニヤーッと笑う文香。何を言うつもりだぁ?大きく口を開いて胸と肩をふくらませ、「すはあああっ」と深く息を吸い込む。そしてこんなことを言う。
「もうちょっとリードしてくれてもいいなと思うもん。えっち誘うのもいつも私だしぃ、私より先に立って歩かないしぃ、『~しろ』って言わずにいつも『~しようか』としか言わないしぃ。ちゃまのそーゆー受け身なとこ、女の子女の子してて、ちょっとねぇ」
目立つ音で「すはっ」と素早く息継ぎをしながら、文香はこの六年で言われるだけ言われ慣れたことを、また言った。
「だめだぞおロジックう、男ならちゃんとリードしろお。染色体通り越してえ、脳みそ全部女くさいい」
「ごめん…。文香の意向に合わせようとすると、どうしても受け身になる」
「別に私の意向ばっか気にしなくてもいいんだよぉ。ちゃまがどうしたいか言ってよぉ」
と、いつも文香から言われている。でも、俺から先に「~するぞ」とはどうしても言いにくい。それはたぶん、俺が小中高と、学校でも家でも、誰の言うことも聞く「いい子」でい続けたからだと思う。飼い慣らされることに慣れきり、誰かに命令されるのを待つ「気楽さ」に味を占めると、自分から何かする気持ちにならなくなる。俺が意志を持ってしたことなんて、紫セーラー買ったことや、この黒灰色ブラウスを作ったこと、耳の穴おかっぱにしたことくらいしかない。そんな俺は、いつも文香の言うことばかりを気にして、自分の意向を表に出せずにいる。まあ、それはそれで、それなりに夫婦していられるから、いいんだろうけど。
「ロジックう、しっかりしないとお、ふーちゃんに飽きられるぞお」
「う…。ま、まあ、もうちょっとしっかりするように心がけるよ」
「うふふ、ちゃまったら、昔も今も変わんないもん。煮え切れないどーてー野郎なとこ」
二人して声を揃えて笑う文香と恵美ちゃん。ちょっと面目ないな俺。
「ねええふーちゃんー、来週のガチャ引くう?」
「引く引くー。ぶっ壊れ回復武器来そうじゃん。ザリキアで生き返らせて、バウギルーで全員大幅回復とか。冬のボーナスも出たしぃ、惜しみなくお金注ぎ込むぞぉ」
拳を振り上げる文香。その言葉通り、来週は強力な回復アイテムがガチャの景品になりそうな勢いだった。すでに俺が三万、文香も三万出資することにして、ガチャの「天井」である六万は準備できていた。これで回復アイテム一本は確実に手に入る。
「ふーちゃんの会社あ、ボーナスたくさん出るう?」
恵美ちゃんが尋ねる。大学卒業後、文香は尾風市内の大きな印刷会社に就職していた。ありとあらゆるもののプリントを手掛ける会社だそうで、「新しい発見がいっぱいある」と、楽しみながら仕事をこなしている。
「そうだねぇ、年末は三ヶ月分出たもん。不景気な今にしちゃあ、けっこうもらえたかも」
「いいなあ。俺非常勤講師だから、ボーナスなんてゼロに等しい」
北海国際高校で専任教員になるべく、全力を傾けている俺だけれど、なかなか道は開けない。正社員の文香との賃金差はかなり開いている。実家暮らしで、まだまだ現役の表具師の親父の収入に未だに頼っている自分が情けないけれど、いつか正教員に、という夢を持ちながら、日々過ごしている。
「およそ七百メートル先、目的地周辺です」
車内に無機質な機械音声が響く。
「お、もうすぐ着くか。文香、ワイトクイーンいた?」
「ううん…、ちょっと待ってね」
画面をタップしながら、文香がワイトクイーンを探す。後部座席で恵美ちゃんも画面に目を落としていた。
「いたあ。ふーちゃんはあ?」
「うん、私もいたよ。でもぉ、ここ公園の中だねぇ…。ちゃまどうしよう」
「そうだな…」
文香の言葉通り、パジェロミニは広い公園に差し掛かっていた。ワイトクイーンはこの中にいるらしい。あたりを見回してみる。
「あ、駐車場あった。あそこに駐めて、歩いて戦いに行こうよ」
「うん、そうだねぇ」
公園脇の駐車場に車を滑り込ませる。三人で車から降りた。スマホを手に、文香と恵美ちゃんが歩き始める。その後をついていく俺。ふと左腕で時刻を確認する。文香が贈ってくれたG―SHOCKの指す時刻は今、十二月三日土曜日、午後三時十七分二十一秒。あれから六年、このG―SHOCKは電波ソーラーの名に相応しく、一切ノンストップ・ノーメンテナンスで、文香と俺の時を刻み続けている。今も、俺の唯一の腕時計だ。プレゼントは文香といろいろ交換したけれど、やっぱりこの、いちばん最初にもらったものが印象深い。それは文香も同じようで、あの臙脂色セーラー万年筆を、しっかりと執務に使ってくれている。卒業論文も、大多数の学生がPCで書く中、「ちゃまの万年筆で書きたい」と言って(あの背中ファスナーを真っ直ぐ伸ばして脇をしめ、きれいな襟足を見せてぎゅっとうつむいた美しい姿勢で)全編手書きしている。無論、かつて文香自身が言っていたように、文芸部でもこの万年筆で、感動的な詩を多数書いた文香だった。
「さあ、あと百五十メートルくらいだねぇ。この林を抜けたあたりかな」
園内の小径が、葉っぱを脱いだ冬枯れの木立の中に続いている。その向こうは景色が開けているのか、きらびやかな光が差し込んできていた。その光に向かって俺たちは歩く。
「もうすぐだよぉ」
「うん、もうすぐだねえ」
「よしよし、あと少しだ」
声を掛け合う。やがて林を抜ける。景色が一気に広がってきた。
「わあ、こうなってたんだ…」
嘆息する俺。林の先は展望台になっていた。高い崖に柵が張られ、その中から景色が一望できる。丘が連なり、そのはるか向こうには尾風の街が望めた。十二月の早い入り日が、丘の端にかかり始めている。
「きれいだねぇ」
「うん、きれいい」
冬の日差しに目を細めつつ、しばし、景色を見やる俺たち三人。
「おっとっと、こうしちゃいられないもん。ワイトクイーンやんなきゃ」
「そおそお、取るぞお」
まったく同じ生年月日どうしの(ちなみに体重まで一緒とのことだ)二人の後ろ姿が、深々とうつむいてスマホをのぞき込む。恵美ちゃんの輪っか三つ編みと、後ろ頭に真っ直ぐ通った分け目、丁寧にピン留めされた後れ毛、姉譲りの(とはあまり言いたくないけど)新雪のような襟足。対する文香の、少しのギザつきもなく切り揃えられた、襟上五センチの後ろ上がりのカットライン(昨日、文香と俺は二人して髪を揃えてもらっている)、丁寧にバリカンがあてられて黒い点々になった剃り跡、真っ白なうなじ、スッと伸びた背中ファスナー、そのファスナーで左右に分かれたセーラー襟、そのセーラーの上に飾られた白い小襟。この後ろ姿は俺と一緒だ。俺の切りたて耳の穴おかっぱの襟足も、剃り跡も、カットラインも、我ながら萌える。そんな俺たち三人の後ろ姿が、夕日と向かいながら、展望台に立つ。
「よしっ、メグちゃんの天地無限斬決まった。もうちょっとだもん。メグちゃんは?」
「ボクもあと少しい」
ワイトクイーン戦に熱中する文香と恵美ちゃんの後ろ姿に、さらに見惚れる。
「うん倒した」
「ボクもお」
「お、どれどれ…」
恵美ちゃんの小さくて丸い肩越しに画面を見る。「ポポポポポーン」とメロディー。ワイトクイーンの「こころ」がくるくると浮かび上がってきた。
「引くぞお、来いいっ!Sうっ!」
恵美ちゃんの叫び声。それを受けて「こころ」に金色の「A」の文字が現れた。
「んんーっ、Aだあ」
「メグちゃん、合成でSできないかなぁ?」
「ちょっと待ってえ」
恵美ちゃんが画面を切り替える。
「あ、あとAかBかCでSになるう。やったあ、ワイトクイーン貯まってきてるよお」
「うん、それじゃあ今日中にでもSできるな」
でも俺がそう言うと、恵美ちゃんはいたずらっぽく首をすくめて見せた。
「でもお、今夜はドラドラできないじゃんー。これからロジックとふーちゃんー、二人っきりでえ、記念日ディナーなんでしょおー」
「ふっふっふ、お気遣いは不要じゃぞメグちゃん」
文香がニヤリと笑った。その後に俺も続く。
「恵美ちゃんが来てくれるとわかって、急遽、ディナーの席を三人にしたよ。今夜、俺たちの交際・結婚記念日のゲストは恵美ちゃんだ」
「えええー、ほんとにいー?」
恵美ちゃんの顔にぱーっと花が散った。
「ボクう、ご一緒していいのお?」
「いいよいいよ」
二人で声を揃える俺たち。
「わああ…。ありがとお。でもなんかボクう、お邪魔虫になっちゃうよお」
「そんなことない」
俺は首を横に振る。
「恵美ちゃんには、二年前の俺たちの結婚式にも駆けつけてもらったし、今までずっと仲良くしてもらってるからね。ぜひゲストに来てほしいんだ」
「わかったあ。そんなに言うならあ、このメグさまがあ、叩き殺せないゴキブリよりもお、思いっきりお邪魔虫してやるう」
「あはは、メグちゃんったらぁ」
三人で笑いあう。そんな俺たちを、深く傾いた西陽が照らし出す。
「ああ、もう日暮れだな」
三人で、崖からの眺望を眺めた。遠く尾風の街が、薄い靄に包まれている。オレンジ色の日の光を浴びる俺たち。
「ねえちゃま。私たち今日で六周年なんだね」
夕日を眺めながら、文香がしみじみとした声を出す。
「そうだな。積み重ねてきた」
うふふ、と笑いながら、文香が俺の背中に手を添える。いつものように熱い手だ。
「ちゃま…。『これまでも』だし『これからも』だよね」
顎より短い長さで後ろ上がりに精確に切り揃えたミディアムおかっぱが、じっと俺を見つめる。前髪も眉下で、ちょっとのギザつきもなく揃っている。そうだね…。このかわいいおかっぱ姿で交際六年、結婚二年だ。文香と俺は、これまでも、これからも、愛しあう。
「うん。もちろんそうだよ。文香…」
「ちゃま…」
文香が俺の胸に顔を埋める。そんな文香の、真っ白でふっくらした、優しい身体を、固く抱きしめた。六年の間、何度抱いただろう。その高い体温を、何度身に受けただろう。いくら愛しても、愛し足りない文香。ずっと、ずっと俺のものだ!
「文香、愛してるよ」
「ちゃま愛してる」
「大好きだよ」
「大好き」
「ずっと一緒だよ」
「うん…。ずっと一緒!」
もう何度繰り返したか、この囁きあい。いくらでも言葉にしたい。言葉にして、互いに確かめあいたい、俺たちの愛を。
「ちゃま…」
「文香…」
俺たちの唇が、ゆっくりと近づく。文香は既にディープキスをすべく、口を半分開けている。その文香に触れる──、その寸前、
「ちょっと待てえええい!」
恵美ちゃんのキンとしたアルトボイスが響く。
「!」
あわてて身体を離す俺たち。そんな俺たちを恵美ちゃんがじとーっと見ている。
「黙って見ていればあー。二人の世界浸りやがってえー。一人チー牛しか能のないー、2ちゃんねらーに恨み買ってえ、殺されろお。なんだよおおまえらー、ここに恵美さまがいることをお、忘れたのかあー」
「ごめんごめん恵美ちゃん」
「メグちゃんごめんねぇ」
笑いながら恵美ちゃんの肩をさする俺たち。思わず二人で浸っちゃってた。
「まったくうう」
恵美ちゃんはちょっと膨れっ面を見せたけれど、やがて微笑ってくれた。
「でもいいよお。ロジックとふーちゃんがあ、いつも仲良くしててえ、ボクも嬉しいよお」
「ありがとメグちゃん」
三人で固く手を握りあい、微笑みあった。
「よし。ワイトクイーンもやったし、そろそろ行くか」
「うん。帰り道もレベリングしてこぉ」
そして文香と俺は手を繋いで歩き出す。今まで続いた、これから始まる、俺たちの、終わらない物語に向かって。この手を、決して離さない。ミディアムおかっぱの、美しく揃った真っ白な襟足と、しっかりとバリカンの入れられた剃り跡の点々を見せながら歩く文香を、真横から見つめる。文香…。愛おしいよ…。そんな文香と二人で温もりを分かちあいながら、俺はどこまでも歩くんだ。そう、どこまでも、どこまでもね。


それぞれの明日


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