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七十九、ここにいるよ

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「ひっく…うううっ、ああ…あ…」
どれくらい泣いていただろう。涙も声も呼吸も枯れた。紫セーラーの中は、冬だというのに、じとじとと汗ばんでいる。ふーちゃんはまだ、俺をしっかり後ろ抱っこしてくれていた。
「論理くん…。泣き尽くしたもんね。切り立て耳の穴おかっぱで。紫セーラーで」
「せっかく…、端正に短く揃えてもらって…、好きな服着て…、気合い入ってたのに…」
「でもぉ、きれいなおかっぱで泣き叫んでた論理くん、なんか、かわいかったもん」
ふーちゃんはそう言うと、抱っこを解いて、俺の隣に座った。
「かわいかった?泣き喚いてた俺が?」
切り立て紫セーラーでいる時は、カンペキでカッコかわいくいたかったんだけど…。
「うん」
にこにこと微笑ってくれるふーちゃん。
「論理くん、思いっきり肩上げて息吸い込んで泣いてるんだもん。息継ぎのたびに、襟足揺らしてさぁ…。胸式呼吸、かわいいよぉ。論理くんを支えてあげたいって気持ちを、ふつふつと湧き起こさせるかわいさだったもん」
途中で何度も「すはっ」と素早く肩を上げつつ、ふーちゃんがそう話してくれる。ふーちゃん…。そんな気持ちで、泣いてる俺を包んでくれたんだね。
「ありがとうふーちゃん。でも俺…、こんなに泣きたくはなかった…」
うなだれる俺。枯れた涙が、また湧いてくる。ふーちゃんがそんな俺の肩をなでてくれた。
「論理くん。はーちゃん、返す返すも、ひどいね。何が『東京からだって、どこからだって、論理のこと想ってるから』だよ。聞いて呆れるもん。離れてみたら、あっという間だったじゃん」
「どうして…こんな、ことに…、ひっく…」
またスラックスの上に涙がこぼれる。
「やっぱりさぁ、はーちゃん、秀馬先輩と比べて、論理くんのこと、あまり好きじゃなかったんだよぉ」
「そんな!俺と付き合って、『今やっと、あるべき幸せにたどり着いたって感じだ』って言ってくれてたのに」
「口うまいんだもんはーちゃんは。役者志望なだけに」
ふーちゃんはそう言って、軽く「ふん」と鼻を鳴らした。
「どんな美麗字句を連ねても、秀馬先輩のためには捨てられた夢を、論理くんのためには捨てられないっていうのがすべてだもん」
「……………」
「だから、夢を手にできそうになったら、平気で論理くんを売り飛ばす。不実なんだもんはーちゃん」
俺の肩をなでるふーちゃんの、ゆっくりした、温かい手。
「不実…。はーちゃん、そんな子だったのか…」
夢に向かって歩んでいくはーちゃんに恋をした。誠実な子だと思っていた。夢も俺も、大切にしてくれると思っていた。なのに…。
「ねぇ論理くん」
ふと、ふーちゃんが、何かを促すような口調で俺に言う。
「うん?」
「『始まりの写真』、今持ってる?」
「ああ」
俺はテーブルの上のスマホを操作して、画像を出した。ふーちゃんがそれをのぞき込む。
「うふふ、論理くん、顔めちゃくちゃ」
「やられた翌日だったからね」
髪だけは美しく切り揃えてもらったけれど、目には青あざ、頬も腫れ、口も歪んでいる。でも、その隣ではーちゃんが、星坂高校姿でにこにこ。その顔が晴れやかだ。こんな顔をして微笑ってくれているのに…。
「後ろも撮ったぁ?見せてぇ」
「うん」
画面をスワイプして、後ろの画像を出す。金属ジッパーと普通のファスナーの差はあるけれど、同じ背中ファスナー。そのファスナーで左右に分かれるセーラー襟も同じ。左肩のエンブレムは、はーちゃんがト音記号、俺が四分休符。襟足の逆富士山形の剃り跡も、後ろ上がりに湾曲した精確なカットラインも、水鏡のように整った後ろ耳たぶおかっぱに天使の輪ができるところも、みんな一緒。
「きれいに…、撮れてるな、やっぱり」
俺はぽつりとそう言う。はーちゃん、これを、消しちゃったのか…。沈黙して画像を見やる俺。
「でもさぁ論理くん」
急にふーちゃんが、声の調子を少し荒くする。
「私はーちゃんの、この首の骨がぐりっと出てるとこ好かないもん。なんか、骨出過ぎててキモい」
「キモい?」
嫌悪感を持った視線で、はーちゃんの襟足を見るふーちゃん。
「うん。今にも皮膚破けて、中の骨が飛び出してきそうなんだもん」
「そこまで言うか…」
俺は、はーちゃんの頚椎の凹み、好きだった。その凹みに沿って、はーちゃんの襟足のカットラインが波打つのに魅せられたものだ。でも今、ここでふーちゃんにその凹みを貶されても、不思議に悪い気にはならなかった。
「その点さぁ、論理くんの襟足、なんのでこぼこもなくて、真っ白まっさらできれいだもん。はーちゃんのなんかより、よっぽどかわいい」
「ありがとう…」
ふーちゃんに襟足を褒められる。気持ちが、少しだけ明るくなった…かも、しれない。
「さあ論理くん、こんな、襟足グリグリの画像、持っててもキモいだけだゾ。顔だって、目も鼻も口も大きすぎて、論理くんの好みじゃないでしょぉ?」
ふーちゃんがにっこり笑って、俺の肩をぽんぽんとたたく。
「消そう、もう」
「……………」
言葉もなく、俺は画像を見つめた。「持ってても、何の役にも立たねぇだけだかんな」という、はーちゃんの言葉を思い起こす。役にも立たない、か…。そうだな。俺も、もう持っててもしかたない。
「…わかった。消すよ」
「うん」
ふーちゃんが、こっくりとうなずく。それを受けて俺は、指で画面下のゴミ箱アイコンを押す。「画像を削除」という赤い文字が現れた。
「消そう、論理くん」
「…うん」
指先に力を込める。唾を飲み込む。そして俺は、文字に触れた。瞬時に、まず後ろ向きの画像が削除される。
「次は、前ね」
ふーちゃんに促されながら、また俺はゴミ箱アイコンに触れる。そして赤い文字。
「はーちゃん…」
そうつぶやきながら、俺は画面のはーちゃんを見つめる。入学式以来見てきた、清楚で優しげな、はーちゃんのかわいい笑顔。俺のために切ってくれた、愛らしい耳たぶおかっぱ。これを着て全力で発声練習していた星坂セーラーワンピ。似合いすぎるほど似合ってる。そんなはーちゃんを、今、消す。
「論理くん」
柔らかに俺を促す、ふーちゃんの声。その声に導かれて…、俺は赤い文字を、押した。
「さよなら、はーちゃん…」
涙が滲んでくる。嗚咽が突き上がる。
「っく…、ううっ、ぐずっ…ああ…あ…」
はーちゃん──と呼ぶのもやめよう──遥は、過去になった。それが悲しくて、俺はまた泣いた。紫セーラーの肩と、きれいに揃えられた襟足が震える。そんな俺を、ふーちゃんが優しくさすってくれる。そうやって、長く俺は泣いた。でもやがて、涙に霞んだ視界の中に、ふーちゃんの声が響く。
「論理くん」
顔を上げる俺。ふーちゃんが見える。いつもの日本人形の瞳が、じっと俺を見つめている。しばしの沈黙。その後──。
「おーい、論理くぅん」
微笑むふーちゃん。泣き濡れた俺の肩が、優しくたたかれる。ふーちゃんの小さな唇が、ゆっくりと動いた。
「ここにいるよ」
柔和な少年声が、そんな言葉を紡ぐ。
「ふーちゃん…」
ここにいるよ、の六文字が、俺の心を温かく、しっかりと抱きとめる。ふーちゃんの、細くて小さな瞳が、俺を幾重にも包んでくれていた。
(そうだね、ふーちゃん…)
紫セーラーの袖で涙を拭って、俺もふーちゃんを見つめ返す。ふーちゃん…。ふーちゃんは、いつも、ここにいてくれた。俺が誰を恋しているときも、俺の心の中にいて、生命感を放っていた。そして…こうして俺を支えてくれる。
「論理くん、ここにいるのが、私じゃダメかなぁ?」
ちょこっと小首を傾げるふーちゃん。その仕草がかわいい。ふーちゃん、俺…。
「ふーちゃん…」
「ねぇ論理くん」
俺を見つめ続けるふーちゃん。口が開き、「すはああっ」と音。胸がふくらみ、肩が上がって、いつものふーちゃんの深い胸式呼吸。その生命感。見聞きするとホッとする。そしてふーちゃんはこう言い継ぐ。
「これでお互い、二回ずつつらい恋したもんね。私は秀馬先輩と徳郎さん。論理くんはひーちゃんとはーちゃん」
「うん…」
「んで、お互い二回ずつ、お互いの前で激泣きしたもん」
俺は過去を思い返す。俺は、合宿後のベニーズ、そして今。ふーちゃんは六月一日の夜と、学園祭前夜。お互い、恋の傷の深さに耐えきれず、大号泣した。
「それってさぁ論理くん。すごいことだもん」
そう言ってふーちゃんは、俺の膝にそっと優しく触れてくれた。そして「うふふ」と笑うと。また口を開けて「すはああっ」と呼吸。開いた口の中で唾液が糸を引いているのが艶っぽい。
「前にも言ったけどさぁ。私、人前で泣くの、二十年に一度あるかないかなんだもん。少なくともそのくらいの気構えでやってる。何があったって涙見せるもんかって思って」
気の強いとこあるんだなふーちゃん。それだけに、あの二回の大号泣は、心底つらかったんだろう。
「論理くんだってさぁ、いくら見た目がかわいいって言っても、男の子なことに変わりないんだから、人前でそうそう泣けないでしょぉ?」
「う、うん…」
そうは言うけど、俺けっこう泣き虫だけどな。でもやっぱ、むやみに涙は見せたくない。
「そんな私たちがさぁ」
相変わらず、膝にふーちゃんの手。じんわりと伝わるぬくもり。
「お互い二回も、泣き顔を見せあったもん。泣き声も、涙も、胸式呼吸も一緒にね。そしてそのたび、お互いがお互いを支えてる」
そう言ってふーちゃんは、眉下できれいに切り揃えた前髪──ふーちゃんって、いつ髪切ってるんだろう。前もサイドも後ろも不揃いだったためしがない──の向こうから、その瞳で俺を熱く見つめる。うん、その通りだ。ふーちゃんの前では俺、何も覆い隠さずにいる。それがとても温かい。
「これってさぁ論理くん。何度も言うけど、すごいことだよ」
「すごい?」
「うん!」
俺のすぐ隣で、ふーちゃんが大きくうなずく。毛先がわずかに肩についたストレートセミロングの、美しい黒髪──脂質感のあるしっとりした様子は相変わらずだ──も、それにつれて揺れた。
「それが、論理くんと私との、絆だもん」
絆。ふーちゃんと、俺との、絆。俺の脳裏に、駅前のバスターミナルでぶつかってから今までの、ふーちゃんとのさまざまな記憶がよみがえった。博美を想っていたときも、遥を恋していたときも、どんなときも、俺の中にはふーちゃんがいた。そして、坂口に片想いしていたときや、本島先輩と交際していたときのふーちゃんの中にも、俺がいたことだろう。確かに、ふーちゃんと俺の間には、熱くて厚い何かがある。
「ふーちゃん。ありがとう。俺とつながってくれて。いつも励まされてる」
「こちらこそだもん」
にっこり微笑ってくれるふーちゃん。明るくてかわいらしいその笑顔。色白でふっくらした輪郭。やっぱお人形だ。俺だけの、生命感溢れる日本人形。そしてふーちゃんは再び口を開き、「すはああっ」と深く息を吸い込む。唾液がまた、口の中で糸を引くのが見える。俺の下半身が見る間に固くなってきた。
「論理くんと一緒にいるとねぇ、私、元気になれるんだぁ。泣いてるときとか、何がなんだかわかんなくなってるときとか、どれだけ論理くんに力づけてもらったかわかんないもん」
「俺こそ、こうして大泣きしたときにふーちゃんに寄り添ってもらって、すごく支えられた」
「論理くん…」
俺がそう言うと、ふーちゃんが熱い息を漏らす。その息に交じる、ふーちゃんの少し強い口臭が、なまめかしく俺の鼻に絡みついた。さらに固くなる俺の。
「思うんだ私…。私の鍵、論理くんの鍵穴になら、ぴったりはまるよ」
「え…」
俺は小さく叫んで、ふーちゃんを見つめ返した。ふーちゃん、それどういう意味?そんな俺の手を、ふーちゃんがぎゅっと握る。熱でもあるのかと思うほど、その手は熱かった。
「私、論理くんの『友達以上恋人未満』やめる。ねぇ論理くん、もうお互い、ヘンな恋で泣きあうの、お腹いっぱいだよね」
「ふーちゃん…」
ふーちゃんの瞳が、俺を射抜いた。
「だから論理くん。私にしときなよ」
えっ、ふーちゃん、それって…、と俺に思わせる間も与えず、ふーちゃんはじりっと俺に膝を寄せてきた。十センチも離れないところから、ふーちゃんの小さな瞳が俺を熱っぽくつかむ。そしてその口がまた大きく開き、「すはああああっ」と激しくブレス。ふーちゃんの口に吸い込まれる空気の流れを、頬で感じた。
「論理くん聞いて。私ね、すはああっ、誰よりも論理くんの隣にいたいんだ!すはっ、すはああっ、誰よりも論理くんを守りたいんだ!すはああああっ、いいでしょぉ論理くんっ!」
愛らしい肩を上げ、豊かな胸をふくらまし、頸動脈を浮かび上がらせて胸式呼吸しながら、ふーちゃんが叫ぶ。
「ふーちゃん…」
ふーちゃんが俺の手を、一層力を込めて握る。そして、真っ白な頬を朱く染めながら、ふーちゃんは更に大きく「すはああああっ!」と息を吸い込み、俺にこう言った。
「好きなの──。論理くんが。す、すはあああっ、泣き叫んでる論理くん見てたら、たまんなくなったもん!すはああああっ、論理くん、私がいないと、すはっ、すはあああっ、どこ行っちゃうかわかんないんだもん!」
ふーちゃんの激しい呼吸。叫び。そして、しばしの沈黙。窓の外から流れ込む氷雨の雨音だけが、俺たち二人を支配した。
「ふ、ふーちゃん!」
はっと気づき。うろたえる俺。ふーちゃんが、俺のこと、好き?確かに、ふーちゃんと俺の間には、厚い絆はあるけど…。
「ふーちゃん…。ふーちゃんが俺に恋愛感情持ってるだなんて…、思わなかった」
「持ってるもん。今ここにこうして」
淀みなく言いきるふーちゃん。そこにまた、匂ってくるふーちゃんの口臭。それはふーちゃんの、生命の匂いだ。そんな、漲った生命に俺、今想いを寄せられてる──。俺は胸を高鳴らせた。
「ふーちゃん…、俺と、一緒に、いて、くれるの?」
胸がいっぱいで言葉が途切れる。けど、ふーちゃんはそんな俺に「うんっ、うんっ」と二回、力強くうなずいてくれる。
「いつも、ここにいるよ。論理くん」
「ありがとうふーちゃん!」
俺は、ふーちゃんの手を、固く握り返した。遥は失ったけれど、ふーちゃんの想いなら、ふーちゃんとの絆なら、俺、信じられる。
「ふーちゃん、一緒に素晴らしい日々を過ごそうね。これからもよろしく」
「きゃあああっ!」
俺がそう言うと、ふーちゃんは嬉しさを満面に満たしながら、俺に飛びついてきた。百五十八センチ/六十九キロのボリュームを、全身で感じる俺。
「やったぁ!論理くんと私、今日からカレカノなんだね!」
「うん。そうだよ」
「ありがとう!ありがとう論理くん!」
ふーちゃんはそう叫んで、俺の胸に顔を埋めた。そして、感慨を込めて言う。
「ねぇ論理くん、お互い、ずいぶん回り道しちゃったけどさぁ、今やっと、たどり着いたよね」
確かに回り道した。こんなことなら、あの、下宿で時間割を決めた日に、ふくらむふーちゃんの、臙脂色ワンピの肩や背中をやにわに抱きしめて、「好きだ!」と叫んでいればよかったかもしれない。
「ねぇ論理くん」
ふーちゃんが、そんな俺の心中を知ってか知らずか、ニヤーッとあの笑いを浮かべる。
「私たち、カレカノになったんだからさぁ。今夜、やることっていったら、一つだよねぇ」
「え…、一つって…」
まごまごする俺の前で、ふーちゃんはさっと立ち上がり、黄土色花柄セーラーワンピの背中ファスナーの襟元ホックを外す。
「さあ、論理くん、服脱ぐよ。サラダ油の準備はいい?どうせローションなんて持ってないんでしょぉ?」
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