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七十二、俺、女の子?

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「それで広沢先輩、この小説が月並みとのご意見ですが、たとえばどんな場面にそれを感じられますか」
星坂セーラーワンピの背中ファスナーを真っ直ぐに伸ばしたはーちゃんが、凛とした声を出す。この日の合評会、俎上に登ったのははーちゃんの「ははそは」だった。司会の坂口は、はーちゃんに背中を蹴られて以来、部活に姿を見せていない。本島先輩の姿もずっと見ていない(ふーちゃんと別れて以来、休学して香歌で引きこもっているとの噂だ)。村上と博美の姿も当然ない。今日の出席者はわずか七名だった。
でも、その七名の合評会が、はーちゃんに大きな意味を持つ。坂口と同じ総務局員として、合評会司会の役がはーちゃんに回ってきたのだ。その記念すべき司会デビューが、自作「ははそは」だった。作者としての立場もありつつ、司会として中立した位置で議論を進めなければならないという難しい役割だけれど、はーちゃんは堂々と合評会を回している。内気なときは内気なはーちゃんに司会なんてできるのかなとも思ったこともあったけれど、そんな心配さらさらなかった。
「ということは、広沢先輩としては、主人公の母親頼みの姿勢が、月並みだったわけですか?」
「そうなるかな」
はーちゃんの問いかけに先輩が答える。
「上司に恋するまでの過程が、母親との関係だけになってるでしょう?もうちょっと主人公のいろんな側面が描かれてていいと思う」
「いえ、これはこれでいいのではないでしょうか」
俺も声を出す。はーちゃんの合評会に、少しでも花を添えたい。俺は紫セーラーの肩をぐっと上げ、「はあああっ」と息を吸い込んだ。
「母との愛憎が深いことが、道ならぬ恋への原動力となることには異論を待たないと思いますし、その愛憎も、例えばこの子守唄のエピソードとかそうですが、必然性を持って描かれています」
「太田くん、ずいぶん入れ込んでるね」
と、尾島先輩が笑い、はーちゃんに尋ねる。
「佐伯さんとしては、この『過程』についてはどうなの?」
「そうですね…」
ちょっとうつむいて言葉を選ぶはーちゃん。その横顔が端整だ。サイドから襟足への精確なカットラインも相変わらず魅せる。
「曽野綾子が言ってたんですけど、『過程に学び、過程に迷い、過程に愛し、過程に見苦しく振る舞うのが人間の生きる自然の姿』って言葉があるんです」
はーちゃんはそこで口を大きく開き、「はああああっ」とブレス音を立てながら深く息を吸う。お腹の飾りボタンが息づくのがかわいい。そう言えばはーちゃん、曽野綾子が好きって「ハルマゲドン」に書いてたな。
「その言葉のうちの『過程に見苦しく振る舞う』を意識して主人公を書きました。母親との愛憎が、上司への恋慕に変わっていく見苦しさが描ければと思ってます」
背筋を伸ばして顎を引き、襟足をピンとさせてそう語るはーちゃん。作者としての知性を感じさせる。その大ぶりで印象的な目鼻立ちが、はーちゃんの賢さを物語るようで、また一つ魅力に触れた思いがする。合評会はその後も、はーちゃんの知的な司会のもとに続いた。皆が存分に意見を言えて、それでいてとげとげしい対立がないのは、はーちゃんの人柄によるのだろう。はーちゃん…、そんなはーちゃんが、大好きだよ…。

合評会後恒例の「沙都子」での食事を終え、俺とはーちゃんは二人で自転車を押していた。校門前でふーちゃんや恵美ちゃんと別れた後、「論理、この後あたしの部屋来ない?」と、さりげなく誘ってくれたはーちゃんが嬉しかった。
「ねえ論理」
夜空を見上げながらはーちゃん。昼までの上天気を引き継いで、きれいな星空が広がっている。はーちゃんの大きくて黒い瞳の中に、その星が映り込んでいそうだ。
「恵美…、心配じゃない?」
「ああ、そうだね」
校門で、はーちゃんとさよならするのを全身で嫌がった恵美ちゃんだった。デートの約束をしたとはいえ、それまでは博美の下宿で一人で過ごさねばならない。かなりさびしいのだろう。
「はーちゃんはさ、気づいてる?」
「え、何に?」
「恵美ちゃんの、はーちゃんへの気持ち」
「ううん、そうだね…」
はーちゃんは星空から俺に視線を戻した。少し困った表情をしている。
「女の子どうしなのに、まさかって思ったけどね。でも、いつもあたしに引っついて、『はーちゃんさん、はーちゃんさん』って言ってくれるの、見てるとね」
「でもはーちゃんには百合っ気はないんでしょ?」
はーちゃんは俺から目を離し、地面を見つめた。
「そうでも…ないかもしれない」
「えっ⁉︎」
意外な発言を聞いた。俺は目を見開く。そんな俺にはーちゃんは「はああああっ」とブレスを聞かせると、さらに言った。
「あの人にさんざんやられて、男の乱暴さを肌身にしみて感じたんだよ。こんな…怖いのが男なら、女の子どうしのほうがよっぽど優しいんじゃないかとも思う」
確かに…。坂口はやり放題だった。長きにわたってはーちゃんを痛めつけ、声優の夢を奪い、あげくの果ては穢らわしいやつらの性の慰みものにした。男が怖くなっても、なんら不思議はないだろう。
「じゃ、じゃあ、恵美ちゃんとの日曜日の約束も、ちょっとは、その…、はーちゃん、本気だったりもするの?」
思わず手汗を握ってしまう俺。でもはーちゃんは顔を上げて俺を優しく見つめてくれる。
「大丈夫だよ論理。あたし、恵美の気持ちはわかるけど、恵美を愛したりはしない。あたしが好きなのは、論理だけだよ」
「はーちゃん…」
自転車を押しながら、しばし見つめあう俺たち。
「でもさはーちゃん、俺は、怖くないの?俺も、男だよ」
「うふふ、論理はねえ…」
はーちゃんが、少しいたずらっぽく微笑む。
「あまり男を感じさせないんだよ。耳たぶおかっぱだし、顔立ちもすごく女の子っぽくてかわいいし。一緒にいてもぜんぜん怖くないよ」
「なんかそれ、恵美ちゃんにも同じようなこと言われたな」
かわせみ荘で恵美ちゃんと過ごした日を思い出しつつ、俺は軽く吐息をついて苦笑した。
「そんなに俺、女の子っぽいかな。まあ、確かに顔立ち甘いし、声変わりもなんか中途半端だし」
いつもふーちゃんを「少年声」と言っている俺だけど、実は俺自身が少年声だったりする。俺がアニメキャラになったら、声を当てるのは絶対女性声優だな。ひょっとすると俺の音域、ふーちゃんと競えるかもしれない。そんな声で、胸式呼吸で、耳たぶおかっぱで、紫セーラーで、顔立ちもこうだから、男を感じさせないと言われてもしかたないよな。
「じゃあはーちゃん、俺と一緒なら安心できるんだ」
「うん」
はーちゃんがこっくりとうなずく。襟足のカットラインが、それにつれて動く。かわいい。
「他の男とじゃ怖くてもう寝れないよ。もう、あたしが夜をともにできるのは、論理だけ」
「はーちゃん…」
歩みを止めるはーちゃんと俺。じっと見つめあい、唇を近づける。
「はーちゃん、女の子っぽい俺が、はーちゃんを包んでやるよ」
「ありがとう。あたし、論理さえそばにいてくれれば、何もいらない」
「はーちゃん…」
「論理…」
二つの耳たぶおかっぱが、熱く唇を交わす。十一月の夜。冷えきった風が吹き抜け、そんな俺たちのおかっぱを揺らしていった。でも寒くない。はーちゃんと一緒だから。

生まれて初めてはーちゃんのアパートに来た。大学の南、持統院という場所にある、中古アパートにはーちゃんは住んでいた。自転車を止め、外階段を上る。二階の二〇三号室が、はーちゃんの部屋だった。
「どうぞ」
鍵を開き、扉を開けてくれるはーちゃん。
「お邪魔します」
ちょっと緊張しつつ、足を踏み入れる。玄関から続くのはキッチン。きれいに整頓されている。そこからリビングに入った。白いカーテン、白いカーペット、白いベッドと、白基調でまとめられた部屋だ。なんか博美の部屋を思い起こさせて少し俺は口を歪めたけれど、何が構うもんか。
「きっちり整った部屋だね。はーちゃんらしい」
「えへへ。実はゆうべこっそり片付けたの。今夜論理、来てくれるんじゃないかなって思って」
そんな嬉しいことを言ってくれるはーちゃん。
「あ、そういえば論理」
そう言ってはーちゃんは、意味深にニヤッと笑うと、俺に背を向けてタンスの引き出しを開け、中をまさぐり始める。星坂制服の背中ファスナーが小刻みに動く。
「あった。これこれ、これだよ」
振り向いたはーちゃんの手には、一着のスカート。俺のスラックスと同じ、鮮やかな紫色だ。裾に太くて白いラインが施されている。
「そのスカートは?」
「たまたま持ってたんだけどね。論理のその紫セーラーに合わせたら似合うんじゃないかって思って」
「えっ、合わせるって…。じゃあそれ、俺が着るの?ここで?」
はーちゃんが、ふーちゃんみたいに、ニヤーッと笑う。
「うん!着てみて論理ぃ、早くスラックス脱いで」
「おいおい、マジかよ…」
スカートなんて履いたら、いよいよ俺女の子じゃん。でも、偶然俺のセーラーと色目ぴったりだ。履いたら、どうなるの…かな…。
「ほらほら!論理ぃ、早く早く」
「う、うん…」
はーちゃんに促され、俺はベルトを緩める。でも、俺の、今朝から休みなしにフルボッキなんだけど。そんな俺の思いとは裏腹に、スラックスがするりと床に落ちる。
「あ…」
濃紺のブリーフから、うずたかく盛り上がった俺のを見たはーちゃんの顔に、一瞬たじろぎが宿る。はーちゃん、いくら俺が女の子っぽいと言っても、やっぱ俺男なのに変わりはないんだよ。
「ろ、論理ぃ!」
戸惑いを振り払うように、はーちゃんが(ちょっとわざとらしく)大きな明るい声を出し、俺にスカートを渡してくる。
「論理、紺のブリーフ?なんかブルマみたい」
ブルマって、はーちゃん…。まあ確かにそう見えなくもないな。苦笑いしながら、俺ははーちゃんからスカートを受け取る。
「じゃあ履いてみてー。どうなるかな、楽しみだよ」
「う、うん…」
おっかなびっくり、俺ははーちゃんの紫スカートを履く。サイドのホックを止め、ファスナーを上げた。太めの俺にはちょっとキツかったけれど、何とか入る。
「うわあ、論理かわいい。似合う似合う。待ってね、姿見出すから」
はーちゃんは歓声を上げて、壁に立てかけてあった姿見を出してくれる。スカート姿の俺が鏡に映った。え…、俺スカート履くとこんなになるんだ。なんか妙に似合ってるぞ。紫セーラーにぴったりのスカート。こんなの、よくあったな。それにしても…、俺すっかり女の子だ。
「どうはーちゃん?」
「うんうん。色も揃ってるし、あつらえたみたいだよ。論理かわいいよー」
はーちゃん、すっかりご満悦だ。うん、はーちゃんが嬉しいと、俺も嬉しいよ。
「ねえねえ論理ぃ、せっかくスカート履いたんだし、ついでだからさ」
はーちゃん、またニヤーッ。
「え…、何?」
「メイクしてあげるよ。この際だよ、女の子になりきっちゃおう」
はーちゃん、俺、そんなことしに、はーちゃんの部屋に来たの?でもそう思う俺をよそに、はーちゃんはテーブルの上にいそいそとメイクボックスを置いて、化粧道具を広げてしまう。
「さあ、いくよ論理。そこ座って」
「う、うん…」
言われるままに俺は、はーちゃんと向かい合わせに腰を下ろす。
「さあさあ論理、かわいくなろうね」
はーちゃんは楽しそうにそう言いつつ、何かの瓶から透明な液体をピッピッと手のひらに振り出し、俺の顔に塗っていく。化粧に疎い俺、何が塗られているかぜんぜんわからない。はーちゃん、俺にパウダーみたいなものとか、ペースト状になったものとか、なんかいろいろ、時間をかけて塗る。眉にも何か描いたし、まつ毛にもまぶたにも細工した。お、俺、どうなっちゃうんだろう…。
「よし、後は口紅だけだね。論理に合うのは…、これかな」
はーちゃんは、濃いめのピンク色をした口紅を取り出す。
「じゃあ塗ってくよ。唇の力緩めてね」
はーちゃんの口紅が、俺の唇の上をゆるりと歩んでいく。なんかくすぐったい。メイク、これで完成みたいだけど…。はーちゃん、男が怖いから、俺に女の子でいてほしいのかな。ならできる限りそうしていてあげよう。でも交わるときは、男にならざるをえないけど。
「よし、出来た!姿見見てみて論理」
「う、うん」
俺は、ちょっとどきどきしながら、脇の姿見を見る。そこには…、
「え…。こ、これが俺?」
白い。それが第一印象。色白な俺だけど、こんな白くはない。それに、肌のキメが断然細かくなってる。降ったばかりの雪みたいだ。そして頬はその中でもほんのりとピンク色に染められていてかわいい。眉毛、ちょっと濃すぎて気になってたんだけど、それもちょうどよく際立ったきれいな眉になってる。目は…まぶたの色が明るい。何か塗ってたよな。まつ毛も黒く長くなって、目をぱっちり見せている。そして唇。深くて濃いピンクが濡れている。細く開けてみた。しっとり輝く唇の隙間に黒い口が開くのが艶っぽい。そんな完成したメイク顔。嫌だよ自分で自分に萌えてくる。そしてその顔を、額縁のように縁取った耳たぶおかっぱが引き立てる。俺、もうどっから見ても女の子じゃん。
「論理、すごいよ。かわいい。めちゃきれいになった」
満足げに微笑みながら、はーちゃんがうんうん、とうなずく。
「メイクして、耳たぶおかっぱで、紫セーラーで、紫スカートで…。もうカンペキだよ」
「ありがとうはーちゃん。なんか、変身できて気持ちいいよ」
「たまにはいいものでしょう?」
「うん」
微笑みあうはーちゃんと俺。そして熱く見つめあう。
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