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六十九、訣別

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月曜日。俺は玉都でいちばん大きな総合病院を受診した。長い待ち時間が本当につらい。でもはーちゃんが心配してラインの相手をしてくれて、痛みを紛らわすことができた。なんとかがんばって診察にこぎつける。お医者さんは親切な人で、事情を聞くと、痛む部分を丁寧に診て、レントゲンを撮ったり、CTスキャンをしたりしてくれた。その結果(「奇跡的ですね」とお医者さんに言われたけど)どこにも骨折はなく、どのケガも打撲で済んでいた。貼り薬をもらい、「向こう三日間は安静にしているように」と言われて病院を後にした。
打撲で済んでいると言われても、痛みが強いことに変わりはない。奥歯を噛みしめて痛みに耐えながら、下宿に帰ってくる。ベッドに倒れ伏した。あ、でも…、診察の結果、はーちゃんには知らせておきたい。スマホに手を伸ばし、はーちゃんのライン画面を開ける。このライン、入学式の日にはーちゃんと交換したんだっけ。そのとき、はーちゃんと今のような間柄になるなんて、誰が想像しただろう…。そんなことを思いながら、画面に指を走らせる。
『はーちゃん!』
既読がすぐについて、リプが返ってくる。
『論理!診察どうだった⁉︎』
『骨はどこも折れてないって。ケガはどこも打撲で済んでる。奇跡的だって言われた』
『そうなんだ…。よかったあ、よかったよー。もう、心配したんだよー』
泣き顔の絵文字を四つも並べるはーちゃん。
『それで論理、今は下宿に帰ってきてるの?』
『うん、寝てる。まだ痛くて』
『それならさあ、あたしそっちに行ってもいい?論理の顔見たい。何か作ってあげられると思うし』
『そう?嬉しい。じゃあ待ってるね』
はーちゃんが来てくれる!やった、嬉しすぎる。思えば、はーちゃんがここ来るの、初めてじゃないか。思わず部屋を見回す。見られてヤバいもの、置かれてないよな。うん、無事だ。それにしてもちょっと散らかってるな。少しでも片付けておこう。俺は身体を起こす。痛みを気にしている場合じゃない。なんとかテーブルの上と、台所だけはきれいにする。そこで扉がノックされた。
「論理ぃ」
「はーちゃん!」
急いで扉を開ける。するとそこには、耳たぶおかっぱのはーちゃんがいた。いつか見た、白黒チェック柄のワンピースを着ている。フリルのついた丸くて大きな襟がよく似合っていてかわいい。
「論理ぃ、大丈夫?」
愛らしいベビーソプラノが、俺の耳を打つ。俺のために心配げな顔をしてくれるはーちゃん。そんなはーちゃんが、たまらなく愛しい。
「うん。痛いけど軽傷で済んでるみたい。向こう三日は安静にしてろって」
「じゃあ寝てなきゃ」
はーちゃんを部屋に上げる。
「論理の部屋、初めて来るね。なんか緊張するよ」
そう言ってにっこり(ふーちゃんじゃないからニヤーッじゃない)笑ってくれるはーちゃん。
「まあ、何もないとこだけど」
居間に入るはーちゃんの背中。左右の襟を分けて、ファスナーが通っている。襟に包まれた肩。そして、今日もかわいい後ろ耳たぶおかっぱ。部屋の明かりを受けて、天使の輪ができている。襟足の剃り跡は少しだけ伸びて、うなじに黒い点々が広がっている。
「はーちゃん!」
見てたら、たまらなくなった。やにわに腕を伸ばし(痛むけどそんなの構わない)はーちゃんを後ろから抱きしめる。
「うふ、論理…」
はーちゃんが微笑った気配。そしてその両手を、俺の腕にそっと添えてくれるはーちゃん。その手の温もりが伝わってくる。
「はーちゃん…。後ろ姿、今日も素敵だよ。大好きだ!」
はーちゃんの胸を抱く腕に力をこめる。はーちゃんもそんな俺の腕をしっかり握る。
「ありがと論理。やっぱ襟足がいい?」
「うん!」
「あはは。わかりやすいなあ論理は。そう思って今朝もしっかりブローしてきたよ」
そう言って、俺の腕をぽんぽんとたたいてくれるはーちゃん。しばしそうやって、無言で抱き合う俺たち。
「ねえ論理」
「うん?どうしたはーちゃん」
「論理ってさあ、あたしのこと、前からずっと『はーちゃん』って呼んでくれるよね。『遥』じゃなくて」
俺は唇を一旦引き結んでから、大きく口を開いて息を吸った。俺の胸がふくらんで、はーちゃんの背中を押す。
「『遥』って呼び方、坂口がしてただろ。だからはーちゃん、俺にそんな呼ばれ方されたくないんじゃないかって思った」
「うん。そうだよ」
はーちゃんが俺の腕の中で、こっくりとうなずく。頚椎の凹凸の中でかわいらしく波打つ襟足のカットラインがかすかに動いた。
「あの人の呼び方、あたし論理にしてほしくない。論理には今まで通り『はーちゃん』って呼んでほしい」
「わかった。俺のはーちゃんは、どこまでもはーちゃんだ」
「ありがとう!」
俺の腕を握る手に、一層力がこもる。
「それにさあ」
ここでちょっと、冗談めかしてみる俺。
「入学式のとき、『調子に乗って『遥』とか呼ぶんじゃねぇぞ』って言われてるしぃ」
「あはは。そうだね、そんなことも言ったね」
はーちゃんが俺の中で笑う。
「式典のときね、論理に不思議に声かけたくなった」
「あのときは、はーちゃんにいきなり声かけられて、どぎまぎしたって言うか、嬉しかったって言うかだったよ。清心館に入って、いちばん最初に会話したのがはーちゃんだった」
「縁があったのかもね、そんな頃から。それで、ここまで来たよあたしたち」
はーちゃんが、首を動かして俺のほうを振り返る。耳たぶおかっぱに縁取られた顔がかわいい。ただひたすらに。
「論理…、そしてここから、積み上げていくんだね」
「そうだよはーちゃん。ここからずっとね」
俺たちはそう言って、熱く唇を交わした。

その後俺はベッドに横たえられる。「寒いね、ストーブ入れよか」とはーちゃん。ファンヒーターが回り始める。そしてはーちゃんは俺の脇に座り、手を握ってくれた。
「論理…、身体、痛むよね」
「ああ。まだ痛む。医者が言う通り、治るまで向こう三日はかかるな」
「みんなあの人のせいだよ。こんなひどいことして…」
ロリボイスを低くかすれさせて、はーちゃんが言う。そしてこう続けた。
「論理。今日あたし、あの人にきっぱり別れを告げてきたよ。いきさつ、聞きたい?」
「ぜひもちろん」
「わかった。んっとね…」
大きな口がまた大きく開いて、「はああああっ」と愛らしいブレス音とともに息を吸い込む。チェックワンピのお腹がふくらんだ。そしてはーちゃんは話し始める。それは、こんな話だった。

お昼休み。はーちゃんが文芸部室に行くと、中には尾島先輩や川本先輩、広沢先輩と、文香、恵美ちゃんがいた。俺との通話ではーちゃんが髪を切ったことをあらかじめ知っていた文香を除いて、皆がはーちゃんの耳たぶおかっぱに驚く。そして「似合ってる」「かわいくなった」と口々に褒めた。その中でも恵美ちゃんが、「すごおいですう!はーちゃんさんー、耳たぶおかっぱあ、めちゃかあいいですう!」と躍り上がる。部室はそんな和やかな雰囲気だったが、そこに扉がガタッと開く。
「なにっ…‼︎」
坂口が、部室の入り口で身体を固まらせていた。
「遥…。なんだ、その髪は⁉︎」
部室の中なのに「はー」ではなく「遥」と呼んでしまうところに、坂口の狼狽ぶりが現れていた。ずかずかと部室に入り、はーちゃんに食らいつくように、その面前に立ちはだかる坂口。
「遥!何の真似だそれは。俺の許しなく髪を切ったな。それも…それも、その髪型…、あの雑魚と同じ髪型じゃないか!よりによってそんな格好にして…、何を狂っている!」
「秀馬さん──」
はーちゃんの冷たい声。そしてはーちゃんは坂口に背中を向けた。
「後ろ姿もこんな感じです。論理とまったく同じにしてきました。違うのは、うなじの首の骨が目立つか目立たないかだけですね」
「ふざけるなっ‼︎」
坂口の怒鳴り声が部室に轟く。はーちゃんが坂口に向き直る。そしてそんな坂口を、はーちゃんも、文香も、恵美ちゃんも、先輩方も、冷淡に見つめている。
「奴隷の分際で主人の許しなきことを勝手に行うとは不届きな!」
「秀馬さん。この耳たぶおかっぱは、あたしの心です」
「遥の心だとっ」
「そうです。あたし、論理と同じ髪型にして、論理の彼女になるんです。それがあたしの心です」
「な…な…、なんだとっ」
坂口の醜い顔に、これもまた醜い怒気が充満する。
「お、お前…、彼女だと?それもあの雑魚の?何を世迷い言をほざいている⁉︎お前の主人は世界で俺だけだっ。雑魚めっ、次こそは叩き殺してやる!遥っ、お前も来るんだ!調教のし直しだっ」
はーちゃんの腕を取りかける坂口。そこへ恵美ちゃんの大きな声。
「あー、そんなことしていいのおー?ボクまた姉貴と『タイマンの秀』に頼んじゃうよおー」
その言葉を聞いた途端、坂口の手が止まる。
「くっ…」
坂口の顔。恨みと憎しみと、悔しさに満ちたその顔。
「目障りな蝿があ、ぶっ散らばされるみたいにい、叩き殺されるのはあ、どっちかなあー」
「うっ…うううっ!」
醜悪なその口から、うめき声が漏れる。そしてその顔が、グニャリと歪んだ。
「遥っ!」
やにわに坂口は、はーちゃんに向かって土下座した。
「遥っ、俺が悪かった!もう奴隷じゃなくていい。俺の…俺の彼女でいてくれ!」
「……………」
そんな坂口を冷然と見下ろす、「論理と同じ」耳たぶおかっぱのはーちゃん。
「遥!俺が間違っていた。これからは遥のことを、命よりも大事に扱う。だから遥、俺の元にいてくれ」
「秀馬さん」
こんな冷たい声、あたしに出せるんだ、と、自分で自分に驚いたというはーちゃん。
「口先だけなら何とでも言えます。秀馬さん、あなたは本当にあたしを愛していたんですか」
「愛していたとも!いつも言っていたじゃないか。俺は俺なりのやり方で、たえず遥を愛していた。深く激しい愛だぞ。お前もわかっているだろう。あんな雑魚には到底真似なんかできないぞ。だから遥、戻ってくるんだ」
「あくまで論理のこと、雑魚と言うんですね…」
はーちゃんの顔に、怒りが噴き出た。
「なら言ってやるよ。てめぇのほうがよっぽど雑魚だっ!」
はーちゃんはそう叫ぶと、床にひれ伏す坂口の背中を思いきり蹴った。
「うがっ」
「雑魚がっ!クズがっ!」
はーちゃんの蹴りが二度、三度。
「てめぇのしてきたこたぁ、それくれぇのことなんだよっ!あたしが…、どんな思いで耐えてきたか、知りもしねぇんだろうっ!」
「遥っ、ぐぶっ…遥っ、許して…くれっ。俺には、ぐぶっ、お前だけ…なんだっ」
「うるせえっ‼︎その台詞、聞き飽きたっ」
ヒールの先を坂口の背中に食い込ませ、踏みにじるはーちゃん。でもやがて、足を床に戻す。
「遥ぁ…許して、くれぇ…」
「あばよ。あたしゃもう、百パーセント論理のもんだ」
部室を出て行こうとするはーちゃん。その足に坂口がすがる。
「遥…、待ってくれ、待って、くれ…。俺ともう一度やり直そう」
でもはーちゃんはその腕を蹴り払う。
「うるせえ。ウゼぇんだよこのクズ」
「遥ぁ…」
床に伏したまま、泣き声を漏らす坂口。
「ダッサぁ」
そんな坂口の頭上から、川本先輩の声。
「坂口くん、それ、ダサいわ。イケメンが木っ端微塵ね」
「うっ…くっ…ううっ…」
坂口の情けない泣き声が、部室に響く。
「佐伯さん、行くところがあるんでしょう。もう行っていいわよ。こんな男の相手、これ以上することはないわ」
「はい。では失礼します」
そう言ってはーちゃんは、泣く坂口を後に、部室を出た。そして俺からのラインを受け、俺の下宿に直行してくれたのだった。

はーちゃんが語り終えた。
「えへへ、そんなところなの」
晴れやかに微笑うはーちゃんが愛しい。
「話、したら、ちょっと喉乾いちゃった。冷蔵庫になんかある?」
「麦茶あるよ」
「そか。もらっていい?論理も飲も?」
「ありがと。じゃあ俺も飲む」
はーちゃんが台所に立ち、二つのグラスに麦茶を汲み分けてきてくれた。二人して冷たい麦茶に口をつける。
「ふふふ」
頬が痛むけれど、俺は笑った。
「坂口のやつ、いいザマだな」
「うん」
はーちゃんも笑いながら、麦茶を飲み下す。
「あの雑魚叩き殺すとか、あたしを調教し直すとか、大きな口叩いてたけど、『タイマンの秀』の名前が出たら途端に土下座して、足にすがってきてさあ。ぶざまこの上ない」
「所詮その程度のクズさ」
そして俺たちは笑いあった。
「はーちゃん。部室で言ってくれたみたいに、はーちゃんはもう、百パーセント俺のものなの?」
俺のその言葉に、はーちゃんが白薔薇のように笑顔を咲かせる。たまらなくかわいい!
「うん、そうだよ。この耳たぶおかっぱの中身、論理一色だよ!」
そう言って、俺の身体の上に覆いかぶさってくるはーちゃん。そんなはーちゃんを両腕で抱き止める。痛むけど、気にしない。
「論理ぃ、大好きっ」
「俺も大好きだよっ」
そしてはーちゃんと俺は、長いキスをした。俺たちの温もりが宿る部屋で、いつまでも、唇を交わしあっていた──。
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