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六十二、鍵と鍵穴

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パジェロミニの助手席にふーちゃんを乗せて(初助手席ははーちゃんがよかったとも言っていられない)、海沿いの国道を瀬々木方面へと走る。夏合宿の苦い思い出のある道だ。夜遅いこともあって、俺たち以外に車の影はない。並行する勾玉(まがたま)鉄道の線路も、闇に包まれていた。
「それでさ、ふーちゃん」
ハンドルを握りつつ、俺はちらりとふーちゃんを見る。うつむいた横顔を、乱れたセミロングが覆っていた。
「本島先輩と、何があったの?」
「うん…」
力ないふーちゃんの声。五十キロの制限速度標識が闇から現れて後ろに消えていく。
「話して、くれるよね」
「聞いてくれる?論理くん」
「ああ。いくらでも」
「ありがとぉ…」
ぐずっ、と鼻をすすりこむふーちゃん。そしてふーちゃんは、話し出した。それは、こんな話だった。

相変わらず抑鬱に包まれ、極端に低い自己評価でふーちゃんを苦しめる本島先輩。それでも先輩のもとにい続けるのは、「私の力で少しでも徳郎さんを何とかしてあげたい」という、ふーちゃんの優しさからだった。
しかし今日この日、部室で二人寄り添いあっていても、先輩の表情は冴えない。何日も続く長い鬱のトンネルにある先輩だった。ふーちゃんがいろいろ話題を振っても「うん」とか「ああ」で終わってしまう。ふーちゃんもやがて疲れて黙りこみ、二人きりの部室は重苦しい沈黙に包まれる。だがそのとき、扉がガタリと音をたてて開かれる。入ってきたのは村上だった。
「……………」
椅子にどっかりと腰を下ろし、腕組みをしてふーちゃんたちを睨みつけてくる村上。
「む、村上、くん」
そんな村上の態度に気圧された先輩が、おずおずと声を出す。
「学園祭、明日だね。渉外局も、仕事いろいろで、大変、じゃないかな」
「ケッ」
やっとのことで話しかける先輩に、蔑意をあらわにする村上。
「こんな馴れ合いクラブに、貸してやる手はねえな」
「えー、じゃあ村上くん、渉外局の仕事、何もしてないのぉ?いけないもん」
「うるせえ!」
ふーちゃんの声に、村上は苛立ちを隠さない。
「村上くん、君、いつも面白く、なさそうだけど、文芸部に何か、不満あるのかな」
「あるにきまってんだろ!」
怒鳴る村上にビクリと身をすくめる二人。
「どいつもこいつも仲良しこよししやがって、それでも文芸部か!個性と個性が火花を散らしてこその文芸部だろうが。下らん馴れ合いから何が生まれるってんだ!」
「でもぉ」
と、ふーちゃん。
「馴れ合い馴れ合いって言うけどぉ、合評で意見戦わせてるもん」
「ケッ、あんなレベルでか。笑わせるな。タイマンが足りねえんだよ!」
いきなり意味不明なことを言いだす村上に、困惑する先輩とふーちゃん。
「タイマン?タイマンとはどういう意味だろう?」
「タイマンはタイマンだ。一対一の真剣勝負だ。文学ってのはな、そういう勝負から生まれてくるんだ。俺は都大西で『タイマンの秀』と呼ばれるまでタイマンにタイマンを重ねて、その結論にたどり着いたんだ」
奇妙奇天烈な持論を展開する村上。
「『タイマンの秀』って…。村上くん、高校でケンカばかりしてきたのぉ?」
「そうだ。血を流しての真剣勝負だ。命懸けで俺は勝ち続けてきた。俺の文学はその体験の結晶だ」
そういう村上の「業火」作品は、戦場で生き抜く主人公を描いたハードボイルドだ。暴力的な描写が多いので、編集案提出の原稿読み込みのときは苦痛だった。タイマンか…。言うことだけはカッコつけているけれど、ただ粗野なだけじゃないか。
「いいか。人生はタイマンだ。一対一だ。自分以外は誰も自分を助けねえ。そんなタイマンだけが、人の生きがいになれる。お前たちのようなイチャイチャした馴れ合いからは、何も生まれねえ。わかったか」
「イチャイチャした馴れ合い?ちょっとひどいもん」
言いたい放題の村上に、さすがに腹立ちを隠せないふーちゃん。
「人生がタイマンなのはいいけどぉ、それは村上くんの人生観でしょぉ?私たちには私たちの見方があるもん。何も生まれないだなんて、自分の価値観を押し付けないでほしいもん」
「ケッ、お前らなんかに、一人前の価値観があるわけねえだろうが。お前ら、どれだけの血を流した?どれだけの命を懸けた?一滴の血も流さねえ、安全な場所でイチャイチャしてばかりのお前らに何の価値があるってんだ」
「血を流さないと価値ないわけぇ?」
憤るふーちゃん、思わず身を乗り出す。
「文学の世界ってそんな狭いものぉ?血を流す文学もあれば、穏やかな文学があってもいいはずだもん。なんだよぉ、村上くんの世界だけがこの世のすべてってわけじゃ──」
「いや。村上くんの言う通りだ」
本島先輩の重い声が、ふーちゃんを遮る。暗鬱な深い陰りが、先輩のきれいに整った顔を覆っていた。
「僕たちは、安全な場所にいる。一滴の血も流していない。そんな僕たちには、価値がない…」
唇を引き結び、うなだれる先輩。
「徳郎さん!なんてこと言うんですか。私たちには私たちの価値があります!」
細い目を見開き、先輩に縋りつくふーちゃん。でも先輩は顔を上げない。
「僕はダメだ。血どころか、何も支払わずに、のうのうと生きながらえている。僕なんか、何の価値もない。ふーさんを愛する資格もない。死にたい…」
「ケッ、ようやくわかったか本島。死ぬならさっさと死ね」
「村上くんは黙ってて!」
勝ち誇った声を出す村上を睨みつけ、ふーちゃんは先輩の肩を揺する。村上の発言が、先輩の鬱に拍車をかけてしまっていた。
「徳郎さんっ、しっかりしてください!徳郎さんったら!」
でもふーちゃんのそんな呼びかけも虚しい。先輩はさらに言う。
「村上くん、その通りだね…。戦えない人間は、ダメなんだ。僕なんか、何の力もない。戦って何かを生み出すなんて、とてもできない…。そんな僕に愛は語れない」
「徳郎さん!落ちないでください。お願いします。村上くんは勝手な持論を言ってるだけです。私たちには何も関係がありません!」
必死になるふーちゃん。だけど本島先輩は、ゴトリと席を立つ。
「ふーさん、行こうか。最後にふーさんと飲みたい」
「え…、徳郎さん、最後って…」
しかし先輩はそんなふーちゃんには答えず、黙って部室を出ていく。おろおろしつつも、ふーちゃんはその後についていった。

ふーちゃんがどれだけ声をかけても、先輩は何も答えない。そのまま二人は「沙都子」にやってきた。カウンターに腰を下ろす。
「ふーさん、好きなだけ飲んでいいよ。これでふーさんとも最後だからね。おごらせてほしい」
「徳郎さん!なんで…なんで最後なんですか!」
「所詮僕なんか、ふーさんを愛する価値なんてないんだ。村上くんに言われて、それが心からよくわかった。ふーさんには、もっとふさわしい男がいる」
「やめてくださいっ!」
激しくかぶりを振るふーちゃん。いろいろ困らされることはあるけれど、面食いふーちゃんには本島先輩の顔だけだった。六月に告白されてからずっと、先輩が好きだった。
「徳郎さん、私、徳郎さんが好きなんです。いてくれなきゃたまんないんですっ。なんで…なんでそんなこと言うんですかっ」
本島先輩の袖に縋りつくふーちゃん。でも、そんなふーちゃんの手を、先輩が取り除ける。優しいけれど、抗いがたい手つきで。
「ふーさん。六月にふーさんに告白したときは、掛け替えのない人に出会えたと思ったんだ。だけど…、掛け替えのない人だからこそ、その人に寄り添う資格が僕自身にあるのかどうか、たえず自問してきたよ」
「その資格なら十分です!私が言うんだから間違いないはずでしょう!」
必死なふーちゃん。すはあああっという胸式呼吸も、激しかっただろう。
「いや…そうじゃないよ」
本島先輩は、そんなふーちゃんにも、力なく首を横に振るだけ。
「村上くんの言葉がすべてだよ。僕は、血を流せない。そんな気力も意志も価値もないんだ。僕なんか…。死にたい…、死んでしまいたい…」
目を固く閉じ、先輩は頭を抱えて呻いた。
「だから村上くんは勝手な持論を言っているだけじゃないですか!徳郎さんがそれに従う必要はないでしょう!」
「いや…」
と、また首を横に振る先輩。
「村上くんの言葉には、血の重みがあるよ。僕はその重みの前に、ただ頭を下げることしかできない」
「だったら!」
ふーちゃんが叫ぶ。徳郎さん、徳郎さん、と、心で必死に先輩を呼びながら。
「徳郎さんに価値がないんなら、ないでいいですもん。私はそんな徳郎さんを愛しますから!」
「いや、もうやめよう、ふーさん。僕たちは、やめるべきなんだ。僕たちのしていることは、下らない馴れ合いでしかないんだ」
そう言って本島先輩は席を立つ。
「やだあっ!徳郎さんーっ!」
ふーちゃんが力の限り、先輩の腕に縋る。
「なんで!なんで徳郎さんっ、勝手に私に告白して、勝手に私を振るのぉっ。ひどいよぉっ!私…、私なんなのぉっ!」
「そうだ…。僕はひどいやつなんだ…。村上くんの言う通り、無価値なイチャつきをしてただけなんだ。僕なんかに、ふーさんのそばにいる資格はないよ」
「徳郎さん…、やだよぉ…。ぐずっ…ううう…」
「泣かないでくれよふーさん。僕たちはこれでもう終わりだ」
そして先輩は、また優しく、そして抗いがたく、ふーちゃんの手を取り除ける。ああ、終わっていく…、終わっていっちゃう…。ふーちゃんの日本人形の瞳から、とめどもなく涙が溢れた。
「さよならふーさん。四ヶ月、ありがとう」
涙に霞む視界の中で、本島先輩は店を出ていく。その名前も呼べないまま、閉じられた扉を見つめるしかないふーちゃんだった。

ふーちゃんが話し終える。五十キロで静かに走るパジェロミニ。前には、ヘッドライトに破られた闇が続く。
「……………」
「……………」
かなり長いこと、単調な走行音だけが、車中を支配する。ちらりと脇を見る。相変わらずうつむいて、髪に横顔を隠しているふーちゃん。何か…、何か声かけてあげなきゃ。
「ふーちゃん」
「うん?」
「あ、あのさ…」
耳たぶおかっぱの中身をフルに回転させて、俺は言葉を探す。でも、いい言葉が浮かんでこない。だけど、とりあえずこうは言わないと。
「ふ、ふーちゃんは、悪くないよ」
「そう…かなぁ」
そう応えて、ふーちゃんはしばし黙る。そして「すはあああっ」と、いつものブレス音で胸に息を吸い込んだ。その胸式呼吸で、泣きに泣き叫んだふーちゃんだった。
「私さぁ、ラブホのお風呂で論理くんに、『わかるかわからないかじゃなくて、わかろうとするかしないかというところに、愛情のある無しがあると思う』って言われてさぁ、それから私なりに、徳郎さんのことわかろうってしてきたつもりだったもん。でも…」
ふーちゃんの言葉が途切れる。ぐずっ、と鼻をすする音。
「私の努力が…足りなかったんだね…」
ふーちゃんの声が泣き濡れる。
「そんなことない!」
俺は小さくそう叫んで、ハンドルを握りしめた。反射材を身につけた深夜マラソン人を追い抜かす。
「ふーちゃん、本島先輩がどんなに鬱ひどくたって、四ヶ月間ずっと先輩に寄り添っていたじゃない。それはふーちゃんの、ほんとの優しさだったと思うよ」
「でも私…、徳郎さんを、どうにもしてあげられなかったもん…」
落ち込んでるふーちゃん。何か…、何か言ってあげられないか。
「ふーちゃん」
「うん?」
「たとえ、さ…。ふーちゃんが本島先輩に何もできなかったとしてもさ」
珍しく対向車があった。ハイビームにしたまますれ違っていく。眩しい。
「先輩の心の中には、ふーちゃんが生きているんじゃないかな。先輩と付き合った四ヶ月間は、お互いの記憶に残ると思う」
「そうかなぁ…」
しかしふーちゃんは元気がない。
「結局何もできなかった四ヶ月間としては、徳郎さん、記憶に残してくれるかもね…」
そう言ってふーちゃんは、「はあ…」と長いため息をついた。ポジティブな性格のふーちゃんがため息をつくのは珍しい。
「つまるところさぁ、徳郎さん、私がどんなに働きかけても、働きかければ働きかけるだけ、鬱の壁の向こうに逃げてっちゃうんだもん」
追えば追うほど逃げていく。思えば、博美もそうだった。要は、こちらの想いを受けられる器量が、相手にあるかないかなのだろう。
「ねえふーちゃん」
緩やかなカーブに沿って右にハンドルを切りながら、俺はこう言ってみる。
「恋愛関係ってさ、鍵と鍵穴みたいなものだと、俺思うんだよ」
「鍵と鍵穴?」
「うん」
口を開いて肩を上げ、大きく息を吸い込む俺。胸と背中がふくらむ。ふーちゃんと二人で、胸式呼吸だ。
「どんなに精巧に作り込んだ鍵だってさ、鍵穴に合わなければ、どれだけガチャガチャやっても扉は開かない。ふーちゃんの鍵は唯一無二の鍵だけど、先輩はそれを受ける鍵穴を持っていなかった。先輩の精神障害が、鍵穴を歪めたんだね。歪んだ鍵穴には、どんな鍵も合わせられないよ」
「歪んだ…鍵穴…。徳郎さん…」
膝の上でふーちゃんの手が、固く握りしめられる。
「それに、ただでさえ歪んだ先輩の鍵穴を。さらに歪ませる力があった。村上だ」
「そうだもん!」
ふーちゃんがキッと顔を上げる。少し脇見運転。その横顔に怒りがあった。
「村上くん何なの!いきなりやってきて、勝手なこと言い放題に言って…。それで徳郎さん、傷ついて鬱ひどくなって…、ぐずっ…ううっ…、あんな、ことに…っ」
しゃくりあげるふーちゃん。
「悔しい…。論理くん悔しいよぉ…すはあああっ!ええええ…えええんっ…!すはああああっ!ええええええええ…ええんっ!」
ハンドルから左手を離し、悔し泣きに泣くふーちゃんの膝に手を添える。それをぎゅっと握ってくるふーちゃん。車はそのまま、ふーちゃんの泣き声を乗せて、長い距離を走った。
「うっ…、ぐずっ…」
「落ち着いてきた?」
「…うん」
俺は、左手をハンドルに戻した。
「泣き足りなかったら。いくらでも泣いていいよ。俺、ここでふーちゃんの泣き声と胸式呼吸、聞き届ける。それくらいしか、俺できないから」
「ううん。ありがとぉ。論理くん、優しいもん。いつもいつも…」
「いや…。俺こそ、ふーちゃんにはお世話になってるから」
危ないけどまた脇見運転。ふーちゃんが俺を見つめている。俺は再び胸をふくらませ、大きく息を吸い込んだ。「はああああっ」て俺のブレス音にこもった気持ち、ふーちゃんに伝わるかな。
「ふーちゃん…。村上悔しいけどさ、たとえそれがなくても、ふーちゃんの鍵は先輩には合わなかったと思うよ。歪んでたんだよ。今の先輩にはどんな鍵も合わないよ。ふーちゃんのせいじゃない」
「そう…思う?論理くん」
「ああ。ふーちゃんは、素晴らしい鍵を持ってる。失恋続きでつらいかもだけど、きっとその鍵にぴったり合う鍵穴を持った人に出会えるよ!がんばって」
俺は左手を伸ばし、ふーちゃんのセミロングをポンポンと撫でた。
「うふふ」
ふーちゃんが笑う。あ、今日初めて笑ってくれた。
「論理くんって不思議だもん」
ふーちゃんはそこで深く息を吸った。「すはあああっ」とあのブレス音。聞くとやっぱホッとする。ふーちゃんの生命感。ここで生きていてくれるふーちゃん。
「どんなに私が混乱してるときでも、論理くんの前で泣いたり、お話したりすると、すーっと落ち着いてくんだもん。んで、また次のことしてみよっかって気になる。やっぱ論理くんって、特別な人だもん。論理くん、これからもまた、私を見つめてね」
またそんなこと言うよふーちゃん。そういう台詞は、はーちゃんに言われたいんだけど…。ふーちゃん、いつもそうだ。俺が博美を好きでいたときも、その心の隙間にいて、俺に存在感を放っていた。そして今も…。俺、心をはーちゃんで百パーセントにしきれない。
「えへへ、論理くん」
俺のそんな気持ちを見透かすように、ふーちゃんがいたずらっぽく笑う。ちょっと脇見すると、あのニヤーッとした笑み。
「ねえねえ、今日私ぃ、思いっきり胸と肩と背中で『すはあああっ』て息吸い込んで泣いたけどぉ、論理くんそれ見て勃ったでしょぉ」
う…。正直、「沙都子」からずっと、俺のは休むことを知らない。はーちゃん…。罪悪感を感じる…。 
「これ、呼吸フェチの論理くん、答えなさい。今夜家帰ったら、胸式呼吸で泣いてた私想ってオナニーするぅ?」
「あー、もううるさいうるさい」
ちょうど見えてきたコンビニに車を入れる俺。
「ふーちゃんもう元気だな。これ以上遠くへ行く必要ないだろ。ここで折り返すぞ」
「えー論理くんはぐらかすんだもん、ずるーい」
ふーちゃんが明るく笑いながら、俺の腕を指でつつく。この人は、もう…。いつかお母さんの前でふーちゃんが言ってたけど、「び・みょー、な関係」だな。まあ、これはこれでいいか。俺は大きくハンドルを切り、車を玉都へと向けた。
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