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五十九、冷めてよかった

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そんな出来事(ざまあみろ坂口)はあったけれど、部員たちによる校正作業も無事終わった。あとは機関誌局員による最終印刷チェックを残すだけになる。川本先輩の命を受けて、俺と博美が「みけねこ工房」に向かい、作業を行うことになった。恵美ちゃんもついてくる。授業後、三人でバスに乗り、西田中に行く。車中、博美は表情をこわばらせ、一言も口を聞かない。この女…。せっかく今日も紫セーラーを着て、切って間もない耳たぶおかっぱも少しもギザつかずにしあげて来たのに、気分に水を差される。でも恵美ちゃんが「ロジックおかっぱセーラーかあいい」って言ってくれたから(でもその後「女の子になりたくてえ、しょうがないい、女装子ニキだってえ、そこまで女っぽくはあ、ないよねえ」としっかり毒舌が付いたけど)まだよしとするか。
西田中に着いた。博美は俺たちに背を向け、先に立って歩いて行く。手も入れていないおかっぱが粗雑に伸びて、剃られていない襟足もだらしない。部長と連絡がうまくいっていないのだろう。そんな男を選ぶからだ。
「みけねこ工房」にやってくる。住宅街の中にある、見た目普通の家と変わらないところだ。五十代半ばくらいの、髭面のご主人に出迎えられ、作業場に通される。印刷原稿を三等分し、三人で手分けして目を通す。読むのに集中して、時間の経つのも忘れた。作業が終わったとき、時計はもう八時を過ぎていた。
ご主人に見送られて帰途につく。そのとき博美が、今日初めて口を開いた。
「私、電車で帰る」
西田中から本町柳(ほんまちやなぎ)まで電車が通じている。そこからはバスに乗り換えることになる。とはいえ、西田中からもともとバス一本で行ける方途があるのに、わざわざ乗り換える手間を払う意味はない。
「ええー、姉貴い、バスで行こうよお」
「一人で電車で帰りたいの。メグ、論理くんと二人で帰ったら」
博美がそっぽを向きながら無愛想にそう言う。そうか博美、俺と一緒に帰るのがそんなに嫌か。
「恵美ちゃん、行こう。博美は勝手に電車で帰ればいい」
「えええ、そんなあ…」
恵美ちゃんの顔に困惑が浮かぶ。俺と博美を交互に見ながら、うろたえる。
「こ、困るよおー。姉貴い、ロジックう…」
「それじゃ、私はこれで」
博美は俺たちに一瞥もせず、背を向けてスタスタと歩き去っていく。
「姉貴い…」
「いいじゃないか恵美ちゃん。一人で帰りたいって言うんなら帰らせれば」
「うううん…」
つらそうに唸る恵美ちゃんの手を取る俺。
「行こう恵美ちゃん」
「姉貴い…」
それでもまだ恵美ちゃんは、博美が消えていった闇の中を見つめていた。

バスの中、恵美ちゃんと並んで二人で座り、揺られる。
「ロジックう」
「どうした恵美ちゃん」
「姉貴さあー、頑なだよねえ。脳出血寸前のお、頑固ジジイなみー」
「脳出血するならするでいい。好きにすればいい、あんなやつ」
俺が冷たくそう言うと、恵美ちゃんの顔が一層困る。
「はーちゃんさんとふーちゃんが仲良くなってくれたと思ったらあ、今度は姉貴とロジックが仲悪いよお」
「なんかさ…、今まで好き好き大好きだった分、一旦冷めたとなったら徹底的に冷めた。博美なんかもうどうなったっていい。無関心だ」
「ロジックうぅ」
恵美ちゃんが俺の紫セーラーの袖を取って引っ張る。
「そんなこと言わないでえ。姉貴今あ、博紀さんに構ってもらえなくてつらいんだからあ」
メールは一日一回、あとは手紙だとか言ってたな。
「構ってもらえない?」
「うんー」
口を細く開いて、恵美ちゃんはすうっと息を吸った。それ、博美を思わせるから嫌なんだよな。もっと大きな口開けて「すはああっ」と吸い込めよ。ふーちゃんみたいにさ…。できてたじゃないか恵美ちゃん。
「メールう、いつも姉貴からなんだよお。博紀さんから来たこと一度もないー。それにい、姉貴がメールでどれだけえ、『好きです会いたい』って書いてもお、博紀さんー、あっちの生活が楽しいとかあ、充実してるとしかあ、書いてこないー。好きだ愛してるの一言もないー。博紀さんバカじゃんー。姉貴の相手もろくにできないでえ。ロジック並みにタマキン小さいー。2ちゃんねるのどーてースレ民だってえ、もっとマシな相手できるう」
恵美ちゃんの怒りの毒舌が炸裂する。部長にとっては上海での生活のほうが、博美のことよりも大切なんだろう。そんな程度でよく合宿のとき博美に告白なんかしたものだ。「まってろよ」が聞いて呆れる。そしてそれを真に受けて付き合い始める博美も博美でおめでたい。そして恵美ちゃんはまた細い口で息継ぎをすると、さらにこう言った。
「手紙もお、もう二度書いて出したあ。でも返事こないー。姉貴い、道端に転がってるう、ネズミの死体みたいになってえ、すっかり落ち込んじゃってるう。ボクに昨日お、『博紀さんー、私要らないのかなあ』ってつぶやいたあ」
「それで恵美ちゃん何て言ったの?」
「姉貴の手え握ってえ、『博紀さんー、忙しいだけだよお、姉貴のこと忘れてないよお』って言ったあ。んで姉貴に怒られたあ」
「おおかた『よくわかりもしないくせに、いい加減なこと言うな』とか何とか、のたまわったんだろ?」
「うんー、そんなとこお」
恵美ちゃんが寂しげにうつむく。慰めてくれる妹に八つ当たりか。どこまで気分屋でわがままなんだろう。冷めてよかったな俺。
「ねえロジックう…。姉貴い、耳たぶおかっぱボサボサだねえ。くたばりかけた鳩のお、尾羽みたいい」
それはまたずいぶんボサボサになりきったことだ。恵美ちゃんナイス毒舌。
「またロジックみたいにい、かっちりきれいにしてくれるといいんだけどお。姉貴のおかっぱあ、ボク大好きなのにい」
「好きな髪型だとは言ってたけどな。もう手入れする気力もないんだろ」
そう言って俺は、窓の外を眺めた。闇の中、街の灯りが流れ去っていく。俺の耳たぶおかっぱと恵美ちゃんの輪っか三つ編みが、漆黒の窓に映っていた。
「姉貴い…、元気出してくれないかなあ」
「無理だな。部長、上海に夢中で博美にあまり興味ない。早くも終局に秒読みだ。国際遠恋なんて最初からできっこないんだ」
言い捨てる俺に、恵美ちゃんの悲しそうな赤い大リボン。
「そんなあ。姉貴かあいそうじゃんー」
「それもこれも博美の選んだ道だ」
「ロジック冷たいいー。姉貴のことお、一度はあんなに好きになったじゃんー。釣った魚に餌やらないならあ、逃げた魚にも餌やらないってのかあ」
「逃げた魚に餌のやりようがないだろ。恵美ちゃん何言ってんだか」
恵美ちゃんの毒舌は、ときどきよく意味がわからない。それにしても、確かに一度は心底好きになった博美に、ここまで冷めるというのも、寂しいといえば寂しい。
「かわいさ余って憎さ何とやらって言うだろ。まあ俺の場合、憎いとまでは言わないけど、『ひーちゃんひーちゃん』って泣いてたときが、今じゃ信じられないな」
「ロジックう…。んじゃあもう、姉貴とは元通りにはなんないー?」
「ならないな」
俺は言下にそう言ってから、口を大きく開け、紫セーラーの肩を上げて息を思いきり吸い込んだ。「はあああっ」とブレス音。この俺自身が、萌える。博美なんかより。
「だいいち博美が、耳たぶおかっぱにしてる俺を嫌ってるじゃないか。そんな博美と、誰が仲良くできるって言うんだ。博美がどうなろうと、もう俺の知ったことじゃない。恵美ちゃんだって、『今更姉貴に五嫌われようが十嫌われようが一緒だ』って言ったじゃない」
「ロジックう。ボクそうは言ったけどさあ…。それにしても冷たいよお。トイレットペーパーについたうんこまで冷えきっちゃったあ?」
相変わらず訳のわからないことを言いながら、恵美ちゃんが悲しげに俺を見つめる。冷たいか恵美ちゃん。でも俺は、自分を嫌う相手に振る尻尾は持っていない。博美は博美の好きなことをやり、その報いを受ければいいんだ。
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