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四十七、マシュマロハンド

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翌朝、中穴島四日目。ちょうど土曜だった。また玄関前で恵美ちゃんと待ち合わせて、自転車をこいで十手高校に向かう。学校は島の中にある丘の上にあり、かわせみ荘から山側に向かって三十分くらいの道程だった。絶えず上り坂でしとど汗をかく。ひーちゃんもこの坂道を登ったのかと思うと、また胸が熱くなる。
「ロジックうっ!」
葉桜並木の急坂を、自転車立ちこぎで登りながら、恵美ちゃんが声をかけてくれる。
「あとちょっとだよおっ!」
「おうっ」
道の行き止まりに、校門が見えてくる。十手高校だ。ひーちゃんの匂いが詰まった、十手高校だ。力の限りペダルを踏む。そしてやがて坂を登りきり、俺たちは校門をくぐった。
「はあ、すはああ…、着いたあ。ロジック、ここだよお」
「そうか…。はあああっ…はあ…」
自転車を降り、息を弾ませる恵美ちゃんと俺。目の前には、薄茶色の土の校庭が広がる。その向こうに、三階建ての白い校舎。
「ここが…、ひーちゃんの学校?」
「うん。小中高十二年過ごしたあ」
「中入れるかな」
「教室は鍵かかってると思うー。でも廊下は歩けるよお」
「よし、じゃあ行ってみよう」

それから俺は、恵美ちゃんに案内されて、十手高校の隅々まで見た。残念ながら教室にはすべて鍵が下されており、「Ten Hands」の活動場所だった音楽室にも入れなかったけれど、ひーちゃんの残り香を感じるには十分だった。くまなく校内を見たあと、恵美ちゃんと俺は、中庭の芝生に腰を下ろす。
「どうロジックう、姉貴の学校お」
「そうだな…」
俺はひーちゃんの校舎を見やった。初秋のさんさんとした日差しを浴びている。
「ひーちゃん、ここで高校生してたんだな。ねえ恵美ちゃん、ひーちゃんって、どんな学生だったの?」
「姉貴い?そうだねえ」
恵美ちゃんはちょっと思いを巡らす様子だった。
「成績よかったよお。いつも真面目だったあ。制服もぜんぜん着崩さずにい、ビシッと着ててえ。風呂にも入れない引きこもりには、真似できないレベルだねえ」
なぜそこで引きこもりが出てくるんだか。苦笑いする俺。それにしても制服姿のひーちゃんか。見てみたいな。
「ブレザーだった?セーラーだった?」
「ブレザーだよお。紺色のお。スカートは灰色だったあ」
ちょっと地味だな。まあ公立高校だからそんなもんか。そういえばいつか、ブレザーにリボンタイのひーちゃんを見たことがあった。あのひーちゃん、かわいかったな。
「バンドやめてから、他に部活はしてたの?」
「ううん、してなかったあ。姉貴もボクも、部活はもう、軽音でこりごりだったよお。一億積まれたってやらないって感じい」
そうだろうな…。部活内であんなことがあっては、嫌にもなるだろう。まったく、大輔にしても坂口にしても、男というやつは。
「姉貴ねえ、いつもボクと一緒にいてくれたんだよお」
「校内にも男いるんだろ」
「いるう。怖くて、姉貴に引っついてたあ」
傷心の恵美ちゃんを守るひーちゃん。やっぱ優しいんだな。その優しさを、俺も受けたかった…。
「姉貴とお、よくこの芝生でえ、お弁当食べたよお」
「ほんと仲いいんだな。恵美ちゃんとひーちゃん」
「うんー」
この芝生にも、ひーちゃんの残り香があるんだ。俺は、薄緑色の芝生を撫でた。この芝草は、ひーちゃんを覚えてるかもしれない。
「どうロジックう。姉貴を感じてるう?」
「ああ…。ひーちゃんの、強い気配を感じる。今にも物陰から出てきそうだ」
「ほんとに出てきたらあ、面白いねえ。ロジックう、タマキン消えてなくなっちゃうー?」
ニヤリと笑う恵美ちゃん。
「バカ言え。俺がここにいることは、ひーちゃんには知られなくない」
「ねえロジックう」
恵美ちゃんのちょっと心配そうな顔。
「ボクはロジックのこと秘密にするけどお、お父さんお母さんが姉貴にい、ロジックのことしゃべっちゃうかもしれないよお」
そうか…。俺はお父さんお母さんの顔はわからないけれど、旅館内で二人が俺を見かけたということはあるだろうな。従業員さんだっているし。
「お父さんお母さん、俺の顔なんて忘れてればいいけど」
「無理ぽいなあ。ロジック印象強いからあ」
「俺がここにきたってわかったら、ひーちゃん、一層俺を嫌うだろうなあ」
うなだれて唇を噛む俺。かわせみ荘しか泊まる場所がないという時点で、俺の感傷旅行はひーちゃんの知るところにならざるをえないのか。
「まあ、いいじゃんロジックう」
恵美ちゃんの手が、俺の背中をぽんぽんとたたく。そして恵美ちゃんは、半開きの口からすうっと息を吸った。
「こんなこと言ったらなんだけどさあ、今更姉貴にい、五嫌われようとお、十嫌われようと一緒だよお。姉貴にとってのロジックがあ、ゴキブリになるかムカデになるかのお、違いでしかないってえ」
口悪いな恵美ちゃん。でもまあ、そりゃそうだろうけど…。だけどひーちゃんに嫌われるのは、やっぱりつらいし悲しい。
「大丈夫だよロジックう。姉貴がロジックを嫌ってもお、ボクはロジックの味方だよお。一緒にはーちゃんさん助けるんだもんねえ」
そう言って恵美ちゃんが微笑う。愛嬌のある小さな垂れ目、低めでかわいい鼻、ちょっと厚い唇の脇にはえくぼ、白くてふっくらしたフェイスライン。つややかな輪っか三つ編みが揺れる。愛くるしい子だ。
「恵美ちゃん…」
「だからさあロジックう、姉貴のことはもう吹っ切ろお。姉貴のいた場所も見るだけ見たしい」
「そう…だな…」
俺は空を仰いだ。秋晴れというには少し早い青空が広がる。その空に、ひーちゃんの、ちょっと吊り目で気丈そうなかわいい顔が浮かんでくる。でも俺は首を横に振ってそれをかき消した。もう…、終わりにするんだ。
「ロジックう、がんばろお!」
恵美ちゃんがにっこり笑って、俺に右手を差し出す。その手を握り返す俺。ふわりとした、マシュマロのような手だった。
「ありがとう恵美ちゃん。俺、ここで恵美ちゃんに会えてよかった。一人じゃ寂しくて、元気出なかったかもしれない」
「よかったよお」
まだ少し夏の気配を残した風が中庭を吹き抜け、恵美ちゃんの輪っか三つ編みと、俺の耳たぶおかっぱを揺らす。旅は終わった。恵美ちゃんに手伝ってもらって、ひーちゃんの感傷は全部下ろした。ふーちゃんみたいに、失恋をもろともせずに、俺も新しい恋をしてみよう。
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