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三十、これが秀馬さんの愛し方

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前期試験が始まった。社会学は、ふーちゃんとまとめた部分が役に立ち、いい成績が期待できる答案にしあがった。日程を三日消化した日、俺は文芸部室の扉をくぐる。試験期間中は部活動は停止だが、部室は開いているので、別段部室に行っても構わない。
「失礼しまーす」
そう挨拶して部室に入ると、そこには博美と遥と坂口先輩がいた。なんだか最近、遥がやつれていっているように見える。表情も沈みがちだ。今までの遥じゃない。やっぱり先輩のせいか。まだ先輩に奴隷扱いされているのかな。
「やあやあ論理か。よく来たな。試験の出来はどうだ」
相変わらず明るく親しげな口調で、先輩が俺に声をかけてくる。そんな先輩から目をそらす俺。
「まあよくできているほうかと思います」
「そうかそうか。それは何よりだ。ははは」
坂口先輩の笑い声、あまり聞きたくないな…。俺がそう思ううち、先輩はちらりと時計を見て、遥に向き直る。
「はー、もうすぐ受診の時間だぞ」
「はい」
そう言って鞄を手に取る遥。
「どうしたのはーちゃん、どっか具合悪いの?」
心配そうに博美が聞く。遥は顔を伏せた。
「わ…悪いわけじゃ…ねぇけど」
「じゃあなんで受診?そもそも何科に行くの?」
今度は俺にそう聞かれると、遥は顔を真っ赤にしてうつむいた。そこに坂口先輩の声。
「俺たちの営みに不可欠なものを取りに行くんだよな」
「営みに不可欠なもの?何なのはーちゃん」
嫌な予感を感じながら、俺はさらに遥を問い詰めた。
「さ…産婦人…科」
「産婦人科⁉︎はーちゃん、まさか…」
かわいい顔を青ざめさせるひーちゃん。
「ち、違うよひーちゃん。ピル…、ピルもらいに行くんだ。前…出された分…、飲ん…じゃったから」
「ピル⁉︎」
声を揃えて驚く俺と博美。
「ピルって…、はーちゃん、なんでピルなんて要るの?生理不順なの?」
博美が声を上ずらせる。
「だから言っただろう。俺たちの営みに不可欠なものだとな」
声を出せない遥の脇から、先輩がドヤ顔で言う。
「先輩。なんではーちゃんがピル飲んでるんです。不可欠って何ですか」
「言うまでもないだろう。避妊だ。赤ん坊を作られては俺も困るからな」
先輩…。じゃあ…、じゃあ…。
「はーちゃん、坂口さんと…、どう交わってるの?」
博美の声が震える。遥は顔を真っ赤に染めてうつむいたまま、何も言えない。その傍らからまた先輩。
「当たり前のことを聞くな、ひー。俺がいちばん気持ちよくなる形に決まってるじゃないか」
「坂口さん!」
微塵も悪びれることのない先輩を、博美がキッと睨みつける。
「何やってるんですか!はーちゃんにピル飲ませて、自分一人気持ちよくなれれば、それでいいんですか!」
吊った瞳に怒りを滲ませて、博美は先輩に食ってかかった。でも先輩は表情を動かさない。
「ああそれでいい。俺を愛した女には、俺に徹底的に尽くしてもらう。これが俺の愛し方だ」
博美の細く開いた口が、荒く呼吸する。
「信じられない…、このクズ」
「クズか。クズならクズでいい。何とでも言え。これは俺とはーの世界のことだ。何様に干渉される筋合いはない。はー、受診に行け」
「はい…」
先輩に言われるまま、遥は鞄を手に取り、部室から出て行った。
「はーちゃん…」
声を漏らす俺。その俺の腕を、博美が乱暴につかむ。
「行こ論理くん。この顔、見たくない!」
この顔、見たくない、か。ひーちゃん、もはや徹底的に坂口先輩を嫌ってるな。願わくはこんな台詞、俺はひーちゃんに言われたくはないものだ。俺を嫌うひーちゃんなんて想像したくない!さて俺は部室の外に連れ出される。廊下の先に、遥の背中が見えた。
「はーちゃん!」
博美が大きな声で遥を呼び、その元に駆け寄る。俺も一緒に行った。遥が振り向く。暗く淀んだその顔。
「ひーちゃん…。論理…」
「はーちゃん!無理やり坂口さんにそういうことされてるの?」
「……………」
俺たちから目をそらし、じっとうつむく遥。黒くて大きな瞳が、少し潤んでいるように見えた。
「はーちゃん!」
博美がそう言って、そんな遥の肩を揺する。
「あの坂口さんだもんね。何かやらかすと思ってたよ。はーちゃん、いくらカレカノだって、嫌なことは嫌って言わなきゃダメだよ!」
俺もその後に続く。
「はーちゃん、あまりにあんまりだ。悪いことは言わない、他に男探せ。はーちゃんだったら、いくらでも見つかるだろう」
「ダメだ論理」
遥がキッと顔を上げ、俺と博美を睨む。その目には頑なな色。ヤケになっているようにも見えた。
「これが…、これが秀馬さんの愛し方なんだ。あたしはそうやって秀馬さんに愛されている。それでいい」
「はーちゃん!」
さらに遥の肩を揺する博美。
「何言ってるの!あんな人の思い通りになって、いいはずがない!論理くんの言う通りだよ。他にもっといい人いっぱいいるよ!」
「やめてくれ…」
博美の腕から身体を離す遥。
「あたしには秀馬さんが必要だし、秀馬さんにはあたしが必要なんだ。お互いそうやって求めあってるんだ。中出しするのも、秀馬さんがあたしをそれくらい求めてるって証拠だ。あたしをいたぶるのも、それだけ秀馬さんがあたしを愛してる証なんだ」
悪夢にうなされたような遥の口調。はーちゃん、何言ってんだよ!
「え…、はーちゃん、いたぶるって何?」
思わず口にした遥の一言を、博美が聞きとがめた。
「いたぶる?ねえはーちゃん、坂口さんに何をされてるの?教えてくれるよね!」
「う…うぐっ…」
遥が言葉を詰まらせる。
「はーちゃんったら!」
「聞かなかったことに…してくれ…」
かすれたベビーボイスを絞り出す遥。
「どんな形でもいい。あたしは秀馬さんといられれば、それで幸せだ。他には何も望まねぇ。それじゃな。受診の時刻もあるから」
そして遥は、俺たちに背を向けて歩き出した。言葉もなく、そんな遥を、博美も俺も見送るしかなかった。
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