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二十一、二人それぞれの想い

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そうこうするうち、教室の入り口に文香の姿が見える。
「論理くん、ひーちゃん、おはよう」
今日の文香、カラオケで着てきた赤白のドレッシーなワンピ姿だ。ちょっと暑そうだけど大丈夫かな。
「おはようふーちゃん」
「おはよう」
挨拶を返す俺たち。そんな俺たちの前に座る文香。ワンピの肩口にかかる黒髪が、きれいに揃っている。ひーちゃん大好きだけど、ふーちゃんもかわいいよな…。
「はーちゃん、さぁ…」
文香が、低い声を一層低くして、ぼそりと言う。
「この授業、とってなかったよねぇ」
「うん。社会学は俺たち三人だ」
「あのさぁ論理くん」
いつもの「すはああっ」で息をせずに、文香が力なく話す。
「はーちゃん、今どうしてるか、ラインで聞いてみてくれないかなぁ。気になっちゃうんだもん」
「どうして?ふーちゃん自分でラインすればいいじゃん」
俺にそう言われると、文香は決まり悪げに視線を泳がせた。
「はーちゃんと、ちょっと、あってねぇ…。ラインしにくいんだもん」
「ちょっと?喧嘩でもしたの?」
さらに意地悪く突っ込んでやる俺。
「ううん…、まぁそんなとこだもん。だから論理くん、早くラインしてよぉ」
「まあ、いいけど」
俺はラインの遥の画面を開けた。
『おはようはーちゃん。今社会学で、三人で教室にいる。はーちゃん何してる?』
既読はすぐについて、リプライが返ってきた。
『学生会館の屋上にいる。何かに集中してたいから、発声練習して、養成所の台本、大声で読んでる』
「その後何するか聞いてぇ…」
文香が俺の腕に手を添えて、哀願するような口調でそんなことを言う。
『その後はどうする?』
『秀馬さんが部室に来るのを待って、手紙渡す。今三人いるんだろ?ふーちゃん、これ見てる?あたし、正々堂々とやるからな』
「うっ…」
文香は、小さな口から短いうめき声を漏らすと、やにわに席を立った。
「私、先に部室行ってるもん!」
「待ってよふーちゃん、今日出席取るよ。いなきゃいけないよ」
博美に引き止められた文香が、唇を噛んで席に戻る。
「いいよ…。先手取らせてあげるもん」
文香の低くかすれた声。
「先輩は…、私のものだもん。ラブレターなんて届くはずないもん!」
日本人形のような、文香の細い瞳が、ギラリと光っていた。

社会学が終わると、文香は足早に文芸部室に直行した。そのあとをついていく博美と俺。文学部校舎から学生会館までの長い距離の間、文香は一言も口を聞かず、俺たちのほうを振り向くことすらなかった。やがて部室の前に来る。文香が勢いよく扉を開けた。
「秀馬先輩!」
文香の叫び声。部室の中には、果たして坂口先輩がいる。その手には、あの薔薇模様の便箋がある。でも、遥の姿は部室の中にはなかった。
「おぉ、ふーにひー、論理もか」
先輩が便箋から顔を上げる。少し微笑んだその麗しい顔は、やや赤く上気していた。先輩、遥のラブレター読んでいたんだ。何を感じているんだろう。
「先輩、大事なお話があります。屋上に一緒に来てもらいたいですもん」
文香が坂口先輩の袖をつまんで引く。切羽詰まった一生懸命な顔色をしているけれど、がんばれとは思えない。
「大事な話?俺にか」
「はい!」
「まあ待て、ふー」
先輩は再び便箋に視線を落とす。
「俺は今、味わいたいものがあるんだ。満足するまでこれを読ませろ」
そういう先輩の声には、熱い響きがあった。いつもは涼しげな瞳に、少し激しさすら帯びた光が宿っている。先輩、遥のラブレター、味わって満足するまで読みたい?じゃあはーちゃんの想い、受け入れてくれるの?でもふーちゃんは引き下がらない。
「先輩!そんなものあとでいいじゃないですか。今すぐに聞いてほしいお話なんです。来てくださいです」
「そんなもの?ふー、口の聞き方に気をつけろ」
坂口先輩が、むっとした視線を文香に送る。
「うぅ…」
「待てるな、ふー。話はそのあとでいくらでも聞いてやる」
有無を言わさない声で先輩がそう言う。しかたなく、その場に立ち尽くす文香。そのままかなり長い間、先輩は薔薇の便箋を読んでいた。文香の顔が、悲しげに歪んでいる。
「うん。よくわかった」
先輩は深々とうなずくと、机の上にある封筒に便箋をしまった。そしてそれを自分の鞄の中に大事そうに入れる。そこまでやって、初めて先輩は文香に向き直った。
「もう…、いいですか」
そう問う文香の低い少年声が、震えていた。
「ああ。それで、ふー、話とは何だ」
「屋上、来てくださいです。そこでお話します」
先輩と文香は、部室を出て行った。あとには博美と俺が残される。博美が「ふぅ」とため息をついた。
「ふーちゃんも勝負だね。論理くん、どうなると思う?」
俺は部室に置かれっぱなしの先輩の鞄を見た。その鞄の中に遥の手紙を、ゆっくりと丁寧にしまっていた先輩だった。
「坂口先輩、はーちゃんの手紙にかなり感じ入ってるようにも見えた」
「うん。『味わいたい』って言ってたもんね」
吹奏楽部か交響楽団か、練習をするラッパの音が聞こえてくる。それに混じって、稽古をする落語研究会の声。「たいらばやしかひらりんか、いちはちじゅうのもーくもく、ひとつとやっつでとっきっきー」。
「そういえば、はーちゃんどうしたんだろう」
「あ、そうだね。ラインしてみよっか」
そう言って博美は、ポケットからスマホを取り出した。下を向いて文字を打ち始める。ひーちゃんの肩越しにその画面をのぞき込むふりをして、実のところはひーちゃんの全然ギザついていないきれいな襟足を見つめる俺。大好きだよ…。
『はーちゃん、今論理くんと二人で部室にいるよ。はーちゃんどこにいるかな?』
既読はすぐについて、リプが返ってきた。
『部室隣のトイレ。籠ってる』
『なんでそんなとこにいるの。部室おいでよ。今屋上でふーちゃんが坂口さんと話してる。もうすぐ坂口さん戻ってくるよ』
『やだよ!心臓飛び出る。手紙やっと渡して、ここに逃げてきた』
そう書かれた遥のリプライには、汗マークや、口を歪めてぎゅっと目をつぶった顔文字があり、その気持ちを物語っている。
『えー、でもそんなとこ籠ってたら、坂口さんからの返事聞けないじゃん』
『んなこと言ったって、心臓バクバクしちまってよぉ…。返事なんて聞いたら、爆発しちまう』
相変わらず内気だなはーちゃん。手紙渡すだけで精一杯だったんだろうな。そこまでラインしたとき、部室の扉が開く。先輩が一人で入ってきた。
『あ、先輩帰ってきた。はーちゃんまたあとでね』
『え…、秀馬さんが…。わ、わかった』
先輩は無言で椅子に座った。さっきの紅潮した微笑みとは打って変わって、その表情には厳しい色がある。
「さ、坂口先輩、ふーちゃんは?」
「ふーか。ふーなら走ってどこかへ行ったぞ。まあ、俺も少し手厳しいことを言ったから、それもそうなるかもしれんが」
手厳しいこと?ということはやっぱり先輩、文香を振ったのか。
「坂口さん、ふーちゃんとのお話って、何だったんですか」
耳たぶおかっぱを貶されて以来、坂口先輩とはまともに口を聞かない博美だけど、このときはさすがに先輩にこう聞かずにはいられなかったようだ。
「話か。いや、つまらん話だ」
「つまらない話って何です?」
食い下がる俺に、先輩は片手を乱暴に振って見せる。
「まあいいじゃないかそんなこと。俺とふーの間のことだ。それよりもお前たち、はーがどこにいるか知らないか」
「はーちゃんですか。はーちゃんは…」
そう言って俺は博美と顔を見合わせる。トイレに籠っていると先輩に言っていいものか判断がつきかねた。
「なんならラインか携帯で呼び出してくれ。俺、今すぐはーと話がしたい」
「わかりました」
俺は返事をしてスマホを取り出す。遥のラインを開けた。
『はーちゃん、部室来て。先輩が今すぐはーちゃんと話がしたいって言ってる』
既読はすぐについたが、リプまでかなり間があった。胸を落ち着かせている遥が思い浮かんだ。
『わかった。行く』
そう返信が来てすぐ、部室の扉が開く。はたしてそこに、遥の姿があった。込み上げるものを顔いっぱいに満たして立ち尽くしている。大きな瞳が潤んでいた。星坂高校のセーラーワンピに身を包んでいる。ト音記号のエンブレムが愛らしい。お腹に三つ並んだ飾りボタンが大きく波打っているのが、遥の気持ちを物語るようだった。
「おお、来たかはー。お前に話がある。屋上に来い」
「は…はい…」
先輩は先に部室を出ていく。
「どうしよぅ…あたし…」
泣き出しそうな遥の、白い肩襟に俺は手を添えた。
「泣くのは早いぞはーちゃん。結果を聞いてからだ」
「そうだよ」
博美も遥の肩を抱く。
「やれるだけのことはやったんだもん、はーちゃん。結果は自然とついてくるよ。堂々としてようよ」
いつもいつも優しい穏やかなひーちゃん。
「う、うん…ぐずっ」
鼻をすすりこんで、遥は俺たちに背を向けた。長い黒髪の向こうに、一筋通る背中ファスナーと、そのファスナーで二つに分かれた背中襟が見えた。そして遥は部室を出ていった。
「どうなるかな論理くん」
博美がわくわくしている。
「そうだな…」
閉じられた扉を見つめる俺。結果か…。坂口先輩のこれまでの態度から見て、もう明白だな。はーちゃん、どうやってお祝いしてやろうか。ふーちゃんもかわいそうといえばかわいそうだけど…。

坂口先輩と遥は、十分ぐらいで部室に戻ってきた。二人とも無表情を装っているけれど、遥が先輩の目を盗んで、俺たちにVサインし、溢れる笑顔でにっこり笑ってくれる。はーちゃん、やったね!
昼食は、社会学部地下の学食に、先輩・はーちゃん・ひーちゃん・俺の四人で行った。先輩とはーちゃんは、隅の方に二人向かい合わせで座り、俺とひーちゃんは真ん中あたりに並んで座って食事にした。混み合っていたから四人一緒に座ることは最初からできなかったけれど、意せずして先輩たち二人に気を使った結果になった。
「うふふ、早くもラブラブだね」
二人のほうを見やりながら、ひーちゃんが笑う。
「よかったよかった」
俺もはーちゃんたちを見つめる。お互い手を握りあったりしている。とろけるばかりに幸せそうなはーちゃんの顔。
「ねえ論理くん、それはそうとさぁ、ふーちゃんどうしたんだろう」
博美が少し声のトーンを落とす。心配そうな表情が、そのかわいい顔に宿っていた。
「ふーちゃんか…」
先輩、手厳しくふーちゃんを振って、ふーちゃんは走り去ってしまったらしい。ちょっと心配だな…。
「じゃあ俺、ラインしてみるよ」
文香の画面を開け、俺は指を走らせた。
『ふーちゃん、どこにいるの?お昼、どっかで食べてる?』
でも既読がつかない。かなり待っても、未読のままで動きがない。
「おかしいな」
「私も入れてみよう」
博美はそう言って、スマホを取り出した。
『ふーちゃん大丈夫?リプ待ってるよ』
しかしやはり未読無視だ。
「大丈夫かなふーちゃん…」
ひーちゃんが優しい顔を曇らせる。とは言っても、居場所すらわからなくては、俺たちも何もしようがない。
「今日の午後は、論理くんもふーちゃんも空きコマだよね?」
「うん空いてる。はーちゃんもだよ。ひーちゃん、四限目『言語学』だったよね」
博美はこっくりとうなずいた。天使の輪が揺らめく。その清楚さが、たまらなく好きだ…。
「じゃあ三限目は部室にいようか。ひょっとしたらふーちゃん戻ってくるかもしれないし」
それはないと思うけど…。とりあえず俺は、昼食後、博美と遥とともに文芸部室に行く。坂口先輩は授業でおらず、他に来る人もいなかった。
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