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三、ハ行トリオ

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エレベーターで五階に上がった。廊下を行く。鉄道研究会、クイズ研究会、落語研究部など、さまざまな部室が軒を並べている。その中に「文芸部」という小さな紙を貼った扉があった。人目を引かない、何の飾り気もない無愛想な扉が、入る者を選ぶように思えた。その扉の前に、二人で立つ。佐伯が俺の袖を握り、陰に隠れるように身を寄せた。
「論理ぃ、先に入れよ」
「えー、佐伯が入部希望なんだろ。佐伯が入ればいい。俺は後についてくから」
「んなこと言ったって、気後れすんじゃねぇか…。ほれ、入れって」
佐伯が俺の背中をぐいぐいと押す。ほぼ無理やりに、俺はドアノブをつかまされた。そして扉を開ける。扉の向こうには…、三人の男子学生がいた。そのうちの一人が、くるりとこちらを振り向く。
「お!また新入生か!」
よく弾んだ、響きのある声で俺たちを迎えたその人は、切れ長な目元が涼しげな、相当に美麗な顔立ちをした人だった。これはすごい…。男の俺でさえ、息を呑ませるほどのイケメンだ。
「え…」
背後から佐伯の小さな叫び声。俺の袖を取る手に力がこもるのを感じた。
「まあまあ入れよ。いやぁ、今日だけで新入生四人だ。文芸部史上に残る大漁だな。今年の新歓は実に幸先がいい」
イケメン氏はそう言いつつ、席を立つと、俺たちのもとにずかっと歩み寄った。
「俺は法学部二年生の坂口秀馬(さかぐちしゅうま)という。お前たちは何学部の何様だ?そこのかわいいお姉ちゃんから自己紹介といこうか」
にんまりと笑いながら、佐伯を指名する坂口先輩。当の佐伯は、俺の後ろに隠れたままオドオドしている。こいつ、俺に声をかけたときはあんなに堂々としてたのに。
「あ…えっ…と…」
「どうした?別に怖い者じゃない。君たちの名前を知ったからと言ってどうこうしようというわけでもない。安心して名乗れ」
その深い瞳で、先輩は佐伯をじっと見つめた。振り返ってみると、佐伯は顔全部を真っ赤にしている。耳たぶまで赤い。佐伯のやつ、こんな顔もするのか。
「こ…国文、科の…佐伯、遥…です…」
「ほう。国文科の佐伯か。そこのお兄ちゃんは?」
「同じく国文科の太田論理です」
俺はそう自己紹介したとき、先輩の後ろに座っていた眼鏡の男性が声を出した。
「また国文科か坂口。今日の四人、全員じゃないか」
「そうですね尾島さん。ちょっと珍しいです。俺の学年、法学部は俺一人なのに」
先輩は敬語で眼鏡の人に接した。眼鏡の人、尾島先輩は、無表情に俺たちを見回して言う。
「ビラ見て来たの?」
「はい」
「だから言ったでしょう尾島さん、たかがビラと言っても、ここまで宣伝効果のあるもんなんです。馬鹿にしちゃいけませんよ」
よく響く声で坂口先輩が明るく言う。
「あの、さっき四人っておっしゃいましたけど、俺たち以外にも国文科の新入生いるんですか」
「ああ、いる。今二人で連れションしてるぞ。今日が初対面なのにもうそんなことするまで仲良くなって、微笑ましいことだ、ははは」
坂口先輩の笑い声が部室に響く。なんかイケメンな上に明るい人だな…。そしてそのとき、俺たちの背後で扉が開いた。振り向く俺。そこには──。
「えっ…!」
思わぬ叫びが俺の口から漏れる。そこにいたのは…、紛れもない、駅前のあの子だった。あのとき着ていたのと同じ、赤い黄土色の花柄セーラーワンピを身に纏っている。肩につくぐらいでカットした黒髪も記憶通りだ。なんと、この子と…、この子とまた出会えた。こんな、思いもよらない場所で。この子…、清心館に入学してたんだ。ヤバい、嬉しい。
「おお、古本(ふるもと)に池田(いけだ)、連れションおかえり。すっきりしたか」
坂口先輩にそう言われると、この子は大きく口を開いた。あの「すはああっ」という音。肩が上がる。うん、この呼吸だ。そしてこの子はこう言った。
「先輩、そんなこと言わないでくださいです。私たちだって女の子なんですもん。でも、おかげさまですっきりしました」
あの声だ。少年声を思わせる、落ち着いた低い声。駅前で耳にしたときと、何ら変わりがない。
「ふふふ、んで古本はどうだ。一滴残らず出してきたか」
坂口先輩に声をかけられた、もう片方の子が、頬を赤らめる。あ、おかっぱだ。深い黒髪を顎のあたりでかっちり切り揃えている。肌も透明感のある美しい雪肌だ。頬はふっくらしていて、お饅頭のようなかわいらしさがある。少し吊り目気味で気の強そうな印象はあるけれど、つぶらな瞳が愛らしい。整った顔立ちだ。この子はこの子でかなり魅力がある。
「もう、坂口さんったら、ヤですよぉ」
古本さんというのか、この子が声を出す。ハスキーでふわりとした低い声だ。この顔このおかっぱによく似合っている。いけない、どちらも魅力いっぱいだ。どうしよう。そう思ううち、また「すはああっ」と音がする。
「坂口さん、ここのお二人も先輩方ですか。なんか、スーツ姿ですけど、ひょっとして新入生でしょうか」
駅前の子、池田さんというらしいけど、そのかわいい顔を俺たちに向けてくれる。
「ああ、新入生だ。ほら、お互い自己紹介しな」
先輩に促されて、俺は声を出した。意せずして声が震えてしまう。
「こ、国文科の太田論理です。よろしくお願いします」
ちょっと待て、俺本式に自己紹介までして、文芸部入るのかよ。ああ、でもいい。この二人がいるのならいい。創作経験がなくったって、何とかなるだろう。
「あたし、国文科の佐伯遥。よろしくな」
佐伯がその後に続く。池田さんたちは微笑みを返してくれた。
「池田文香(ふみか)です。私も国文科です」
「同じく国文科の古本博美(ひろみ)です。よろしくお願いします」
とはいえ、さっきの平野教授の時間では、二人の姿を見なかった気がした。
「ねえ、池田さんも古本さんも、国文科はB組なんですか?」
俺にそう尋ねられ、二人はうなずく。
「ええ、そうですよ。私も古本さんもB組です」
池田さんの穏やかで低い声がそう答えたとき、横から坂口先輩が声を響かせた。
「はいはーい、そこの四人、いつまでも堅苦しい会話してない。もう今日から部活仲間なんだから」
坂口先輩は、またずかっと俺たちに歩み寄る。遠慮会釈のない人だ。
「俺がお前らの呼び名を決めてやる。太田は名前が一風変わってるから、そのまま『論理』でよかろう。佐伯は遥だから『はー』、古本は博美だから『ひー』、池田は文香だから『ふー』だ。はー、ひー、ふーの三人揃って『ハ行トリオ』でどうだ。半端な敬語もやめよう」
「はぁ…」
坂口先輩のあまりのマイペースぶりに、言葉も出ない俺たち。でもやがて池田さんが「ぷっ」と吹き出す。
「あは、あはははは、ははははは」
池田さんが笑い出す。伸びやかでかわいい笑い声だ。つられて、俺たちも笑った。
「ハ行トリオだって。おもしろーい、ウケるよぉ」と、池田さん。
「それおもしろい。私『ひー』でいいよ。そんなふうに呼ばれたこと今までなかったし」と、古本さん。
「よし、んじゃあたしは『はーちゃん』だ。論理もそう呼んでいいぞ」と、佐伯。
「わかった。それじゃこれから『はーちゃん』『ひーちゃん』『ふーちゃん』って呼ぶぞ。俺のことも『論理』でいい」
俺も明るく応える。なんか…、急に仲良くなれたみたいですごく嬉しい。
「あ、そういえばふーちゃん」
とはいえ、まだちょっと呼び慣れないが。
「うん?どうしたのかな論理くん」
女の子からくん付けというのが嬉しかった。名前呼び捨てもいいが、くん付けもいい。ああ…俺の遅かった青春が花開く。
「ふーちゃん、駅前で、すまなかったね。俺もぼうっとしてた」
「え…?」
文香はキョトンとしている。
「何のことかな?」
「え、だから駅前でさ…」
「あれ?私、論理くんと前に会ってたっけぇ?今日が初対面だと思ってたもん」
がっくり。ふーちゃん、駅前の一件を覚えていないんだ…。俺はしかたなく文香に説明した。
「三十日の二時ごろにさ、駅前のバスターミナルで俺、ふーちゃんとぶつかったんだよ。ふーちゃん、ひどく転んでて、大丈夫かなって思った」
「えー、そんなことあったっけかな。すっかり忘れてたもん」
だめだカンペキに忘れられている。寂しい…。ふーちゃんとの記念すべき出会いの瞬間だったのに。
「そう言えばふーちゃん、そのときもそのワンピ着てたね」
「え、そんなこと覚えてるのかな?論理くん、女の子には目ざといんだもん」
「え、えと…、べ、別に目ざといってわけじゃないよ。その服、印象に残ったから…」
俺が慌ててそう取り繕うと、ふーちゃんは細い目がなくなるまで微笑った。その顔がとてもかわいい。
「うそうそ、冗談だよ。覚えててくれてありがとぉ。うん、このワンピ気に入ってるもん。よく着てるよぉ」
文香とそう話をしていると、脇から博美も声をかけてくる。
「ねえねえ論理くん、男の子で国文科って珍しいね」
ひーちゃんにも話しかけられた。嬉しい…。
「あ、あたしもそう思ってた」
佐伯──「はーちゃん」と言っているから「遥」と呼んでやろうか──も後に続く。
「将来の就職考えたら、潰しの効かねぇ国文科は不利だろ。論理、卒業したらどうするつもりなんだ」
黒くて大きな瞳で、遥は俺の顔をのぞき込む。
「俺は教員志望だ。高校で国語を教えたい」
「えー、論理くん先生になるの。かっこいいじゃん。がんばれ~」
右手を振って博美が俺を応援してくれる。ひーちゃん、ありがとう。そんなひーちゃんの顔が、温かくて愛らしい。
「ひーちゃんは、卒業後の目標とかあるの?」
俺にそう聞かれた博美は、困った表情をする。
「まだ決めてないんだ…。先生やるって感じでもないし、まあ一般職かな。でもわかんない」
「そうなんだ。ふーちゃんは?」
俺が聞くと、文香はちょっといたずらっぽい笑みを浮かべた。
「私もひーちゃんと一緒でまだ決まってないよ。でもそれより…」
すはああっと深い息継ぎ。ふーちゃんの胸式呼吸の肩が上がる。
「私大学で恋愛したいの!」
文香の低い声が、部室に響いた。ちょっと呆気に取られて、俺たちは黙ってしまう。ふーちゃん、恋愛って…。落ち着いた感じに見えて、けっこう恋多き女なのか?
「そうかそうか、ふー、恋愛が目的か。それはそれは大したことだ」
坂口先輩の大きな声が沈黙を破る。
「恋愛は文芸創作の一大モチーフだ。ふー、大いに恋をしろ。そして作品に活かせ。なんならこの俺に恋をしてもいいぞ」
「え、そんな…」
坂口先輩にそう突っ込まれた文香が、遥と同様、顔を真っ赤に染める。先輩、超イケメンだけどちょっと口が軽いな。
「はーちゃんは、何か目標あるのか?」
俺は遥にそう尋ねる。
「あたしか。そうだなぁ…」
黙り込んで考える遥に、俺は声をかけた。
「はーちゃん、声がそんなだから、声優とかどうだ。ロリボイスとかいけるだろう」
「声優?」
「あー、はーちゃん声優さんかぁ、似合ってるよぉ」
文香もそう言う。
「私、声こんなに低いから、はーちゃんの声うらやましいもん。甘くてきれいな声だよね」
「ふふふ、そうか」
声を褒められて、遥は満足げだった。
「声優か。目指してみてもいいかもな」
坂口先輩の計らいで、すっかり打ち解けた俺たち四人は、その後先輩たちも交えて、部室で長く語らった。遥だけじゃなく、嬉しいことに文香や博美ともライン交換できた。さて新入生は、今日のところは俺たち四人だけ。でも先輩たちの言葉によれば、この先もぽつぽつと入ってくることもあるらしい。勢いで入部した文芸部だけれど、新しい出会いはまだあるのかもしれない。

その夜、下宿に帰ってきた。親父はいない。今日からここは俺一人の世界だ。
「うぅぅ…」
下半身をさする。文芸部室にいた頃から沸騰状態だった。スーツとワイシャツを脱ぎ捨て、下着一枚になる。すでに荒々しくそそり立った俺のが、パンツを押し立てていた。そのパンツも脱ぐ。右手でモノをつかんだ。煮えたぎった血流を感じる。
「行くぞ…」
俺のをしごき始める右手。頭の中には文香。大きく開いた口、すはああっと吸い込まれる息、上がる肩、左右の後ろ襟の間の背中に、一筋通るファスナー。肉感のある白い肌…。あ、でも博美も思い浮かんでくる。黒髪おかっぱ、顎できれいに揃えらえたカットライン、真っ白い襟足…。いかん、どちらか決められない。ほんの三擦りのうち、俺はあっという間に昇った。文香、博美、文香、博美…!上がる肩、おかっぱ、すはああっ、襟足…、ああ、ああ昇りきっちまう。文香、博美…っ!力の限りモノを握りしめる。腰を振る。絞り尽くされた精液がほとばしった。
「うっ、うううっ、うぐっ…ぐうっ!」
ふーちゃん!ひーちゃん!快感の最後のひとしずくまで貪りとる俺。
「はぁ…はぁ…」
息を弾ませ、俺はしばし呆然と余韻に浸る。下腹の底から、快い充足感が上ってきた。オナニーは大成功だった。
「ふーちゃん…、ひーちゃん…」
畳に飛び散った精液をティッシュで拭いながら、俺は今日のオナニーを振り返った。中学時代や小学時代の、薄くなった記憶を頼りに細々とやっていたそれまでよりも、はるかに気持ちいい。やはりオナニーのおかずは目の前にいる人に限る。いや、待てよ…。目の前にいるといったら遥もそうなんだが。なぜか頭の片隅にも上らなかった。
「はーちゃんは、なぁ…。息継ぎは目立つけど、肩動かないし…」
それに顔も(一般的にはかわいい部類かもしれないが)俺の好みじゃないしな。ティッシュを丸めてゴミ箱に捨てながら、そんなことを思う。
息も整ってきたので、俺は脱ぎ捨てたスーツをハンガーに戻し、衣装袋に収めると、押し入れに入れた。畳にごろりと横になる。
(それにしても文芸部か…。ふーちゃんやひーちゃんに惹かれて入ったけど、どんなとこなんだろう)
そう思って俺はスマホを取り出し、「清心館 文芸部」で検索をしてみる。真っ先に、文芸部の公式ツイッターアカウントがヒットした。タップして画面を開けてみる。今日付けの投稿がまずあった。
『こんにちは。清心文芸部です。いよいよ今日から新歓ですね。新入生の皆さん、在学生の皆さんも、本に興味のある方なら大歓迎です!学生会館五階、BOX五〇三、お待ちしてまーす!』
ページを上にめくってみる。
『合評会とは…、部員が持ち寄った作品に対して、皆で感想や批評を持ち寄って語り合う時間です。文芸部のメインの活動ですね。自分の作品を批評されるのって、すごく有意義で意味深い時間ですよ』
合評会か…。俺、小説はよく読むけど、みんな「ふーん、そんなもんか」で終わっちゃって、ろくな感想なんて持たないからなぁ。そんな場所に出て発言できるんだろうか…。でも、ふーちゃんやひーちゃん、どんな作品書くのかな。読んでみたいな。あ、そういえばはーちゃんも「書きかけて途中でやめて、の繰り返し」みたいなこと言ってたな。
『三月十二日の合評会は、西院リナ氏作『熱い愛』です。あらすじ『ああご主人様、今宵も私の背中にご主人様の熱い愛が降り注ぎます。そんなご主人様との大切な毎日。あの人が現れるまでは…』』
ご主人様って何だよ…。これちょっと危ない作品じゃないのか。そんな話も合評会に上るのか。さらにページをめくる。十月には学園祭があって、そこで文芸部は古本市と、外部から講師を招いて講演会をやるらしい。九月には部誌「業火」が出る。夏休みには合宿もやっている。
(うん、いろいろあって楽しそうだな)
俺はスマホを閉じた。夕食がまだだったけど、親父が作り残していったものがある。あとでそれを食べよう。それよりもちょっと眠くなってきた。今日は出会いがあったからな…。少し眠ろう。目をつむる。眠りはすぐに訪れてきた。
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