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一、「すはああっ」

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ガクンッ。
衝撃で目が覚めた。いつの間にか眠っていたようだ。
「寝てたか、論理(ろんり)」
隣の座席から、親父の声がかかる。
「う、うん…。寝てた」
高速バスの滑らかな走り。時折、路面の凹凸が座席に伝わってくる。時にはさっきのような大きなものもある。だけどその振動はおおよそ緩やかで、ぼうっとしてると眠りに誘われてしまう。
「玉都(たまのみやこ)まで、あと一時間くらいだぞ」
「もうそんなところまで来たのかよ、親父」
「ああ」
暦は三月三十日。車窓をかすめていく高速道路沿いの木々は、まだ新緑をつけるまでは間がある。冬枯れの名残を残した茶色い姿だ。そんな中、俺と親父は、家のある尾風(おかぜ)の街を後にし、一路玉都を目指していた。
「お前も…いよいよ大学生か」
「うん。長すぎた高校生活もやっと終わった」
そう。俺の高校生活は長すぎた。少子化が進んで、どこの私立も共学化が進む中、頑なに男子校を守る尾州(びしゅう)高校に放り込まれ、男ばかりのむさ苦しく、これっぽっちも彩りのない高校生活を三年間送るはめになった。十代後半の、女の子がいちばん女の子らしく輝く姿を最後まで見られないまま、俺の貴重な高校時代は終わった。
「論理…。それにしても、男で国文科なんぞにいって、どうするつもりなんだ」
「何度も言わせるなよ」
俺は、ちょっとうんざりした顔をする。
「俺は、山村(やまむら)先生や、島谷(しまたに)先生みたいな教員になりたいんだ」
灰色一色だった高校生活だったけれど、俺は、このお二人には本当にお世話になった。三年間、山村先生が現代文、島谷先生が古文を俺に教えてくれた。現代文や古文だけじゃない、お二人からは、青春時代の生き方そのものを教わった気がする。ひ弱な俺を支えて下さった、お二人のような教員になりたい──。俺が国文科を目指すのにためらいはなかった。
(髪、少し伸びたな)
目のすぐ上まで来た前髪を後ろに払いのける。高校時代、突っ張って髪を伸ばすような勇気はなくて、おとなしく坊ちゃん刈りにしていた。そんな飼い慣らされた自分も嫌だった。この髪を伸ばしたら、やってみたい髪型があった。もともとは女の子の髪型だけれど、女の子がやっているのを見るのも好きだったし、自分でその型にするのにも憧れがあった。でもそのスタイルにできるまで、この分ならあと半年はかかる。まあいい、秋にはなりたい自分になれる──おかっぱ頭の自分に。
俺のおかっぱ萌えの起源は古い。幼稚園の頃から、おかっぱにした同級生を目で追っていた。特に、短いおかっぱが好きだった。どうしてそこまで萌えるのかと言えば、まずはその清楚なシルエットがある。そして、精確に切り揃えられた襟足の艶っぽさ。想像しただけでムラムラしてくる。前・横・後と直線で切り取られた顔立ちが凛と引きしまるのもいい。俺にとっておかっぱとは、そんな語り尽くせない魅力を持つ髪型だった。
「まもなく、尾玉(びぎょく)三条地(さんじょうち)でございます。お降りの方はお支度ください」
頭上のスピーカーから無機質な案内放送が流れる。バスは速度を落として尾玉高速道路の本線から離れ、停留所に入る。車内から数人の人が立ち上がって降りていった。代わって二人乗客が乗ってくる。三条地まで来たか。親父の言うとおり、玉都まであと一時間ぐらいだろう。
俺・太田(おおた)論理が、玉都市にある清心館(せいしんかん)大学に現役合格できたのは、思えばちょっとした奇跡だったかもしれない。大学は十一校受けたけれど、受かったのはこの清心館と、滑り止めの尾南(びなん)大学だけだった。二勝九敗という戦績は振るわなかったけれど、清心館は第一志望だったから、あとの大学は受かっていようがいまいが関係ない。これからの大学生活四年間は、文字通り神様の恵みだ。
「お袋、今朝も具合悪そうだったな。心配だな…」
「毎度のことだ。あれはあれで、もうしかたがない」
残り少なくなった旅路の中で、俺は親父とそんな会話を交わす。俺のお袋は、俺が生まれる前からリューマチを患っている。その病み具合を書き記していったらいくら紙があっても足りないけれど、痛い痛いと叫んで苦しむお袋に寄り添う苦労は言葉にしきれないとだけ言っておく。しかしそれでもお袋は、リューマチの苦痛の中で、俺の大学進学を誰よりも喜んでくれていた。
尾風から二百五十キロの道を走りに走って、高速バスは玉都南インターを降りた。ここから玉都の市街地を抜ける。そしてバスは玉都駅のターミナルに滑り込んだ。荷物棚から大きな鞄を下ろし、親父と二人でバスを降りる。
「う、うーん…」
三時間座ったきりの身体を伸ばす。そのときだった。ドン!と衝撃。気づいて見れば、女の子が一人、俺のわきでうずくまっている。
「痛っ…」
うめき声が聞こえる。いけない、この子とぶつかったようだ。俺は鞄を地面に置き、この子にかがみ込む。
「ごめん、大丈夫?」
「あ…大丈夫です。こちらこそ、ごめんなさいです」
少年声かと思わせるほどの低い声とともに、女の子は起き上がった。赤みがかった明るい黄土色の、花柄がかわいいワンピース。赤い一本ラインで縁取られた四角いセーラー襟。胸元には真っ赤なリボン。背中はファスナーが一筋通っている。愛らしい姿だ。
「ひどく転んだようだけど、いいかな?」
女の子に俺はそう聞いた。眉下でぱっつんと揃えた前髪がかわいらしい。サイドは肩につくぐらいで切り揃えられている。豊かな脂質感のある、しっとりとつややかな黒髪だった。
「心配しないでください。ありがとうございます」
女の子は口を大きく開いて深く息を吸うと、そう言った。「すうっ」とも「はあっ」ともつかない、「すはああっ」とも言うべきブレス音が、粘っこく俺の耳を打つ。その呼吸に合わせて、セーラーの肩がぐっと上がるのが目を引いた。胸式呼吸だな、この子…。息を吸うと肩の上がる子に、俺は昔から惹かれるクセがあった。そんな俺の胸中を知るはずもない女の子は、小さくて細い目で俺を見た。目鼻立ちはこじんまりと整っていて、お人形を思わせる。一つひとつのパーツが小さいのが俺好みの、かわいい子だった。しっとりと肉感のある、色の白い肌をしている。高校三年間、女の子断ちをされた俺の目には、いささか刺激が強すぎたかもしれない。俺の股間が、その刺激に敏感に反応している。
「あ、そうか…。それならよかった」
胸が高鳴る。こんな通りすがりの子に俺は…。三年の男子校生活で、女の子耐性がよほど下がっているらしい。
「じゃ、私はこれでです」
「あ、ああ…。それじゃ」
女の子は、俺に軽く頭を下げると、その場を立ち去っていった。毛先を不揃いに軽くするのが今風な中、ぱっつんと丁寧に、重く切り揃えられた後ろ髪。その下の、背中ファスナー。そしてブレス音。それが俺の目と耳を離さなかった。

ターミナルから市営バスに乗り換えて、俺の下宿まで来る。築後三十年の、かなり古い木造アパートだ。「南大文字荘(みなみだいもんじそう)」という小さな看板が、玄関先にかかっている。その三号室が、これから四年間住むことになる俺の部屋だ。親父が部屋の鍵を開ける。鞄を手に、俺は初めて、自室に足を踏み入れた。消毒剤の臭いが鼻をついた。
「よし。じゃあ論理、挨拶回りに行くぞ」
親父に促され、アパートの隣にある邸宅の門を叩く。程なく、中から品の良さそうな初老の婦人が顔を出した。ここの大家さんだ。
「こんにちは。今日から三号室に入居します、太田論理です。よろしくお願い致します」
頭を下げる俺と親父。大家さんは穏やかに顔を綻ばせる。
「あらぁ、これはこれは。太田さんですね。尾風から遠路はるばるお疲れさまでした。管理人の田村(たむら)です」
「田村さん、息子がお世話になります」
親父は再び頭を下げた。
「いえいえこちらこそ。このアパートは清心館の学生さんばかりですから、太田さんもすぐに仲良くなれますわ」
田村さんのその言葉通り、この後挨拶回りに行った近隣の部屋は皆、清心館の男子学生ばかりだった。気さくそうな連中で、近隣に気づかって暮らさなければならない心配はない感じだった。

夜は親父が、かぼちゃの煮付けや煮魚とかを作ってくれた。俺の家はお袋が動けないので、料理はもっぱら姉か親父が作る。俺はお袋の味は知らないけれど、親父の味なら舌の芯まで感じている。今夜もそんな親父の味をいっぱい味わった。そして二人で銭湯に行く。今どき珍しい話だけれど、アパートには風呂もトイレもなかった。便所は一階に各部屋共同で使うものが設けられている。
「ふぅ…」
少し熱めの湯が張られた広い湯船で、今日の疲れを癒す。
「論理、ここの銭湯は何時までだ?」
「夜中の一時までらしい」
「そうか。ならゆっくりできるな。まあ、あまり夜遅くまで起きていてはいかんが。規則正しい学生生活を心がけろ」
「はいはい」
心配症な親父の言葉を軽く受け流す。この親父、尾風では少しばかり有名な表具師だ。街の中心部に近い船東(せんとう)商店街に、大きな店「太田表具店」を構えている。その店も、玉都に上る俺を見守るため、入学式のある四月三日まで臨時休業にしている。
「親父、店も気がかりだろ。明日尾風に帰りなよ」
「馬鹿いっちゃいかん」
親父は、湯船の湯を肩にバシャっとかけて言う。
「家財道具、明日来るんじゃないか。手際の悪い論理一人で片付けられるものでない」
「やれやれ」
いつまでも俺を子ども扱いして…。俺は苦笑しながら湯船を出た。親父もその後に続く。二人して並んで身体を洗い、俺は親父の背中を流した。今年で六十歳になる親父の背中は、また一回り細くなったように感じられる。歳を取ったな親父…。でも、もう少し俺のためにがんばってもらわなければ。

夜、俺はなかなか寝つけなかった。ベッドの下では、親父が布団にくるまって寝息を立てている。俺も寝ようとするのだが眠れない。新しい部屋での第一夜ということもあるが、それよりも…、駅前でぶつかったあの子のことが頭に張りついて離れない。日本人形のような愛らしい顔立ち、白くて肉感のある肌、優しげで落ち着いた低い声、背中にかわいらしく一筋通ったファスナー、ぱっつんと切り揃えたセミロング、大きく口を開いて「すはああっ」と息を吸い込む姿。ふくらむ胸と肩…。三年ぶりに感じる女の子だった。
そもそも胸式呼吸と背中ファスナーというのがいけない。息を吸い込むことは生命の証だ。女の子が一生懸命生きている様を俺は、その子が吸い込む息の大きさで感じる。その中でも、必死に肩を上げ、頸動脈を浮かび上がらせ、胸と背中を大きく膨らませる胸式呼吸に言い知れぬ魅力を感じる。肩で息をする子にこそ、生命の存在があると言える。そしてその呼吸する背中に走るファスナー。子どもの頃から、背中ファスナー開きの服を着ている子に目が行っていた。姿勢の良い女の子が息を大きく吸い込むと、真っ直ぐ通ったファスナーも一緒に動く。そしてその両脇にできた横じわも息づく。その生命感に俺は惹かれるのだ。
いけない、こんなことを考えてたら下半身に力が入ってならない。絵に描いたような胸式呼吸だったあの子。背中ファスナーも愛らしかった。あの子でオナニーしたい。でも隣に親父がいる。こんなところでするわけにはいかない。俺は、勃起した逸物をさすりながら、やるせなく一晩を過ごした。
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