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戦国大名家でのお仕事
小姓というお仕事
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小姓にも色々種類があります。
「御伽小姓」
まだ殿が小さい頃、遊び相手となる小姓です。
松平竹千代は六歳の時、証人(人質)になるために、岡崎城を出立しました。
この時、同じ輿に乗ったのは、同く六歳の阿部徳千代。
この他に同じく六歳の平岩七之助、五歳の松平与一郎、七歳の石川与七郎、十一歳の天野又五郎などが御伽小姓として付き添いました。
「小小姓」
元服前の若い小姓です。元服前の少年たちが小姓というイメージがありますが、殿が同年代ではない限り、戦国期は見習いの身分の感じですね。
おおよそ、小姓として正式に出仕したと残っている年齢は、元服前後の十三から十五あたりまでが多いようです。
「大小姓」
最も身分の高い小姓で、戦国末期から江戸にかけての呼び名です。
戦国当時では、小姓頭、小姓筆頭のことを指します。
安土城の主郭の最も近くに屋敷を頂いていたのは、当初は万見仙千代こと、万見仙千世重元(法隆寺文書)でした。
彼が戦死すると、その屋敷は長谷川竹こと長谷川藤五郎秀一に引き継がれます。
小姓は既に結婚して子供がいても、なぜか幼名で呼ばれ、文書にも幼名で書かれたりすることが多く、長谷川藤五郎秀一も通称の藤五郎を名乗るのは、本能寺の変が起こった後だったりします。
森蘭丸も周囲からは「於乱」「森乱」と呼ばれ、文書に「森乱法師」「森乱」「森乱成利」と書いてあるものが散見されます。
基本的に苗字と諱の間の彦左衛門とかあるいは官名のなんとかの守は、「通称」なんでわかれば良いのではないかという感じなんではないかなと最近思ったりします。
森乱とか「松潤」って感じですよね。
「マツケンサンバ」みたいな。
堀久太郎秀政も秀吉から「キュ~キュ~」とか呼ばれてたらしいですし。
近習では、馬廻の一人であり、側近として活躍をしたその「キュ~キュ~」堀久太郎秀政が小姓の屋敷とは反対の方の一番近い所に屋敷を拝領し、近習をまとめる近習頭となってたことから、万見と長谷川がこの二人が信長公晩年の小姓頭だったのではないかと推察しています。
小姓の仕事はと言いますと
殿の身の回りのこと一般です。
普段の生活においては、朝は殿を起こして、体を拭いたり、着替えをする手伝いをします。
髪を結い直したり、月代を抜いたり、剃ったり、髭を整えたり……爪を切ったり、鼻毛を切ったり。
爪を切った後、貴重品の紙に乗っけて数を数えて殿が呪われないように土に埋めるのも大切なお仕事です。
髪の毛もちゃんと、揃えて埋めないといけません。
お菓子を食べたいと言われれば、それをお侍女に伝えるのも仕事です。
殿の体に一番近く寄って、触ったりできるのは小姓でした。
奥様たちは臥所で触ることはあっても、日常生活で毎日親しく触れ合うことは少なかったようです。
もしあったとしても、小姓の監視下になります。
殿が移動する時には、常に最低でも二人一組でくっついて移動します。そのうちの一人は、常に殿の大事な刀を持って歩き回ります。
それ以外の小姓の人々は、送られてくる様々な書状の処理や、安堵状などの公文書の発給を致します。
送られてきた文を読んで殿に取り次いだり、殿が発行する文書を祐筆が代筆したものにつける、補足や解釈など行き違いがないように添える添状、副状を出したりします。
いわゆる「取次」の仕事です。
取次の項で書きましたが、「小指南」と当時は呼ばれる役職です。
また、命令が滞りなく執行されているか検視役として出かけたり、例えば殿が何か建てる時には奉行人として采配をしたりします。
また殿の直轄領、御料所の代官も務めています。
殿がよその家にお出かけになられる時には、先に行って、お出迎えは不要だとか、来るならここにしろなどこちらの都合を伝えます。
またお客様を饗すのも仕事です。
殿の屋敷だけではなく、命令があれば、拝領屋敷を解放して、茶会や歌会、道具のお披露目会などを執り行います。
他国の使者が来たら、拝領屋敷でもてなします。
本城内に入られるお客様の警備もします。
まさに殿の代理人といった感じです。
そして夜になると、殿の着替えをさせて、そのまま一緒にお布団に入るか、健やかに眠るのを見つめるか、お渡りになられたら、ついていって見守るかします。
戦国期の殿の夜のお相手は、手当たり次第ではなく、これはという有能で有力な家臣を指名します。基本的にですが。そのお相手は、小姓と限った話ではなく上位の馬廻であったりしますし、年齢が殿より上だったりしました。
さていざ戦となれば、軍目付け、軍監としてひたっと武将たちを観察して報告します。
あの人がこういう手柄を立てた。
あの人はこんなことしてた。
などなど、後々に響いてくることを報告するのが仕事ですね。
下手な目付けだと、家臣たちから恨まれるので、家臣たちからも信用される平等で、よく気のつく人物でいなければなりません。
殿がご出陣の時には、側で戦い、最後の盾となるのが最大の仕事でした。
以上が大名の小姓です。
前田利家が小姓として出仕した時の給料が50貫だそうで、これが正式な小姓の基本給で、あとボチボチ加増されていくんでしょう。
北条氏の軍役資料に50貫につき、騎馬武者1(本人)、旗持1、鉄砲持1、槍持2、小者は馬の口取り1、鎧櫃持1
合計七人とあります。
戦闘時の騎馬の小姓の周りにこれだけの人がゾロゾロいたんでしょうか。
小姓もたまには1人になりたいなぁ……って思わなかったんですかね?
戦国時代のひとは大変ですね……
因みに近習にも小姓はいます。
キュ~キュ~くんは、丹羽長秀の妹婿、信長公のお気に入りの小姓上がりの馬廻で、偏倚までいただいている大津長昌に小小姓として仕えた後、秀吉の小小姓に上がり、十三歳で信長公の小姓になった方です。
また金沢藩家老村井氏は、藩祖前田利家が初めて養った家臣です。
実家の前田家の家臣の息子である村井長八郎が小姓として出仕した時、長八郎十三歳、利家十七歳の若い主従でした。
献身的に小姓としての使命を果たした村井長八郎は、感謝した又左衛門利家から又左衛門の「又」の字をいただき、通称を又兵衛に改め、村井又兵衛長頼を名乗り、末長く前田家を盛り立てていきます。
さて、彼らはどこに住んでいたでしょうか。
小姓は主君の本城極めて近くに屋敷を拝領するか、それに至らない小姓や、見習いの小小姓たちは主君の居住空間である奥御殿あるいは常御殿の一画に小姓専用の房があり、そこに住んでいます。
小小姓たちは、まだ十歳前後なので、仕事を覚えつつ、学問や武芸も修めているという生活です。
小姓たちの殆どが国衆の息子たちなので、あまり手荒い扱いをすると、お家騒動になったり、長じて主人の側近になった時に酷いしっぺ返しをされる可能性もありますので、贅沢ではありませんが、それなりに大事にされていました。
その反面、森可成の末息子の千丸のようにあまりにやんちゃが過ぎると、一応奥御殿で集団生活ですので、実家に帰されます。
前田利家も相当に暴れん坊だったそうですので、早々に小姓を卒業させたのは、そのせいだったかも知れませんし、例の鶴の汁の逸話は男色ではなくて、一人暮らしできるまで、とりあえず信長公が夜な夜な利家を隔離していた話かも知れませんね。寵愛していた割りには、素早く外に出していますから。
馬廻なら、まあ、身分に上下はありますが、城下町の拝領屋敷だか、拝領長屋に住みますので、常御殿の奥で大暴れとは随分違いそうです。
「御伽小姓」
まだ殿が小さい頃、遊び相手となる小姓です。
松平竹千代は六歳の時、証人(人質)になるために、岡崎城を出立しました。
この時、同じ輿に乗ったのは、同く六歳の阿部徳千代。
この他に同じく六歳の平岩七之助、五歳の松平与一郎、七歳の石川与七郎、十一歳の天野又五郎などが御伽小姓として付き添いました。
「小小姓」
元服前の若い小姓です。元服前の少年たちが小姓というイメージがありますが、殿が同年代ではない限り、戦国期は見習いの身分の感じですね。
おおよそ、小姓として正式に出仕したと残っている年齢は、元服前後の十三から十五あたりまでが多いようです。
「大小姓」
最も身分の高い小姓で、戦国末期から江戸にかけての呼び名です。
戦国当時では、小姓頭、小姓筆頭のことを指します。
安土城の主郭の最も近くに屋敷を頂いていたのは、当初は万見仙千代こと、万見仙千世重元(法隆寺文書)でした。
彼が戦死すると、その屋敷は長谷川竹こと長谷川藤五郎秀一に引き継がれます。
小姓は既に結婚して子供がいても、なぜか幼名で呼ばれ、文書にも幼名で書かれたりすることが多く、長谷川藤五郎秀一も通称の藤五郎を名乗るのは、本能寺の変が起こった後だったりします。
森蘭丸も周囲からは「於乱」「森乱」と呼ばれ、文書に「森乱法師」「森乱」「森乱成利」と書いてあるものが散見されます。
基本的に苗字と諱の間の彦左衛門とかあるいは官名のなんとかの守は、「通称」なんでわかれば良いのではないかという感じなんではないかなと最近思ったりします。
森乱とか「松潤」って感じですよね。
「マツケンサンバ」みたいな。
堀久太郎秀政も秀吉から「キュ~キュ~」とか呼ばれてたらしいですし。
近習では、馬廻の一人であり、側近として活躍をしたその「キュ~キュ~」堀久太郎秀政が小姓の屋敷とは反対の方の一番近い所に屋敷を拝領し、近習をまとめる近習頭となってたことから、万見と長谷川がこの二人が信長公晩年の小姓頭だったのではないかと推察しています。
小姓の仕事はと言いますと
殿の身の回りのこと一般です。
普段の生活においては、朝は殿を起こして、体を拭いたり、着替えをする手伝いをします。
髪を結い直したり、月代を抜いたり、剃ったり、髭を整えたり……爪を切ったり、鼻毛を切ったり。
爪を切った後、貴重品の紙に乗っけて数を数えて殿が呪われないように土に埋めるのも大切なお仕事です。
髪の毛もちゃんと、揃えて埋めないといけません。
お菓子を食べたいと言われれば、それをお侍女に伝えるのも仕事です。
殿の体に一番近く寄って、触ったりできるのは小姓でした。
奥様たちは臥所で触ることはあっても、日常生活で毎日親しく触れ合うことは少なかったようです。
もしあったとしても、小姓の監視下になります。
殿が移動する時には、常に最低でも二人一組でくっついて移動します。そのうちの一人は、常に殿の大事な刀を持って歩き回ります。
それ以外の小姓の人々は、送られてくる様々な書状の処理や、安堵状などの公文書の発給を致します。
送られてきた文を読んで殿に取り次いだり、殿が発行する文書を祐筆が代筆したものにつける、補足や解釈など行き違いがないように添える添状、副状を出したりします。
いわゆる「取次」の仕事です。
取次の項で書きましたが、「小指南」と当時は呼ばれる役職です。
また、命令が滞りなく執行されているか検視役として出かけたり、例えば殿が何か建てる時には奉行人として采配をしたりします。
また殿の直轄領、御料所の代官も務めています。
殿がよその家にお出かけになられる時には、先に行って、お出迎えは不要だとか、来るならここにしろなどこちらの都合を伝えます。
またお客様を饗すのも仕事です。
殿の屋敷だけではなく、命令があれば、拝領屋敷を解放して、茶会や歌会、道具のお披露目会などを執り行います。
他国の使者が来たら、拝領屋敷でもてなします。
本城内に入られるお客様の警備もします。
まさに殿の代理人といった感じです。
そして夜になると、殿の着替えをさせて、そのまま一緒にお布団に入るか、健やかに眠るのを見つめるか、お渡りになられたら、ついていって見守るかします。
戦国期の殿の夜のお相手は、手当たり次第ではなく、これはという有能で有力な家臣を指名します。基本的にですが。そのお相手は、小姓と限った話ではなく上位の馬廻であったりしますし、年齢が殿より上だったりしました。
さていざ戦となれば、軍目付け、軍監としてひたっと武将たちを観察して報告します。
あの人がこういう手柄を立てた。
あの人はこんなことしてた。
などなど、後々に響いてくることを報告するのが仕事ですね。
下手な目付けだと、家臣たちから恨まれるので、家臣たちからも信用される平等で、よく気のつく人物でいなければなりません。
殿がご出陣の時には、側で戦い、最後の盾となるのが最大の仕事でした。
以上が大名の小姓です。
前田利家が小姓として出仕した時の給料が50貫だそうで、これが正式な小姓の基本給で、あとボチボチ加増されていくんでしょう。
北条氏の軍役資料に50貫につき、騎馬武者1(本人)、旗持1、鉄砲持1、槍持2、小者は馬の口取り1、鎧櫃持1
合計七人とあります。
戦闘時の騎馬の小姓の周りにこれだけの人がゾロゾロいたんでしょうか。
小姓もたまには1人になりたいなぁ……って思わなかったんですかね?
戦国時代のひとは大変ですね……
因みに近習にも小姓はいます。
キュ~キュ~くんは、丹羽長秀の妹婿、信長公のお気に入りの小姓上がりの馬廻で、偏倚までいただいている大津長昌に小小姓として仕えた後、秀吉の小小姓に上がり、十三歳で信長公の小姓になった方です。
また金沢藩家老村井氏は、藩祖前田利家が初めて養った家臣です。
実家の前田家の家臣の息子である村井長八郎が小姓として出仕した時、長八郎十三歳、利家十七歳の若い主従でした。
献身的に小姓としての使命を果たした村井長八郎は、感謝した又左衛門利家から又左衛門の「又」の字をいただき、通称を又兵衛に改め、村井又兵衛長頼を名乗り、末長く前田家を盛り立てていきます。
さて、彼らはどこに住んでいたでしょうか。
小姓は主君の本城極めて近くに屋敷を拝領するか、それに至らない小姓や、見習いの小小姓たちは主君の居住空間である奥御殿あるいは常御殿の一画に小姓専用の房があり、そこに住んでいます。
小小姓たちは、まだ十歳前後なので、仕事を覚えつつ、学問や武芸も修めているという生活です。
小姓たちの殆どが国衆の息子たちなので、あまり手荒い扱いをすると、お家騒動になったり、長じて主人の側近になった時に酷いしっぺ返しをされる可能性もありますので、贅沢ではありませんが、それなりに大事にされていました。
その反面、森可成の末息子の千丸のようにあまりにやんちゃが過ぎると、一応奥御殿で集団生活ですので、実家に帰されます。
前田利家も相当に暴れん坊だったそうですので、早々に小姓を卒業させたのは、そのせいだったかも知れませんし、例の鶴の汁の逸話は男色ではなくて、一人暮らしできるまで、とりあえず信長公が夜な夜な利家を隔離していた話かも知れませんね。寵愛していた割りには、素早く外に出していますから。
馬廻なら、まあ、身分に上下はありますが、城下町の拝領屋敷だか、拝領長屋に住みますので、常御殿の奥で大暴れとは随分違いそうです。
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