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【48】候補を見てもらう

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 どちらかというといつもは先生から話しかけてくれるので、ちょっと不思議だったが、私は口を開いた。

「卒論のことでご相談があります! お時間を頂戴できないでしょうか!?」
「……そうだね。俺も沢山君に聞きたいことがあるからね。ちょっと連絡入れてくるから、教授室で待ってて。鍵、これ」

 こうして私は、先に先生の教授室へと向かった。
 入ったのは、二回目である。
 先生もすぐに来た。そして珈琲を淹れてくれ、早々に煙草に火をつけた。

「生きてたんだ」
「え」

 そこでやっと、先生がちょっと不機嫌そうな顔だと、私は悟った。
 そういうことには目ざとい私であるが、卒論で頭がいっぱいだったのである。

「死んでるかと思った」
「そんな、まさかぁ!」
「……卒論の話をした後、次の面談を無断ですっぽかし、翌週のゼミも欠席。連絡無しは両方初めて、ゼミは欠席自体初めて。俺はご家族に電話した」
「あ!」

 そういえば、電話が来たと思い出した。

「そうしたら、卒論を書いているようだと言うから、君のことだから熱中をしていて何日経過してるか忘れているのかなと前向きに考えていた。なのでその週の面談に来なかった時は、連絡しなかった。だけど、次のゼミの日。やっぱり来ない。念のため、ご家族に電話した。その結果、バンコクだったかプーケットだったかに遊びに行っていると言う。まさか君に限って、卒論を放置して遊び呆けることはないと思っていたから次の面談日も連絡しなかった。詳しい日程を聞いていなかったから。だけどさすがに次のゼミには来るかと思ったら、来ない。また日本にあきちゃったのかと心配してご実家に連絡。新潟でお刺身を食べているという。東京に帰ってくる日程を聞き、今度こそ連絡しようとしたら、君を大学で見かけた。煙草が唯一吸える構内の一角で、サークル仲間とニコニコしている。面談時間の一時間前だ。来る気が無いなと判断した俺は、とりあえず無事を喜んだけど――その日、やっぱり来なかった時、まさか人生最後に楽しもうとか思ってるんじゃないだろうかと不安になった。それを押し殺しつつ、ゼミの日。やっぱり来ない。上村先生と話してみたら、君のサークルの心理学科の子、いわく、サークル旅行で今度は国内旅行に行くらしいと聞いた。だから俺はもう、君は俺の所に、来ないと思っていたね。で、死ぬんだろうなぁと思っていたよ。生きていて喜ばしいけど」

 気づけば、最後に先生と話してから、一ヶ月以上経っていて、もう冬休み直前だったのだ。多分、二日後くらいには、冬休みになる時期になっていたのだ。卒論に夢中すぎて、全ての事柄を忘れていた。

「なにか申し開きはある?」
「本当にごめんなさい」

 素直に謝った私を見て、鏡花院先生が溜息をついた。

「まぁここまで全部真実だけど、上村先生と話した時に、気になることを聞いたから、実際には、卒論提出日までには一回くらいは俺のところに来るかなと思っていたんだ」
「気になること?」
「うん。君が、内定をもらった企業からの連絡すらスルーしているため、卒論のために研究旅行で海外に急遽行ったんですって対応していた上村先生がね、俺に教えてくれたんだ。他大二箇所くらいから電話があったこと――君から連絡来たって、うちの大学に連絡があったことを。てっきり俺に相談してから連絡したんだと上村先生は考えていらしてね、というか普通そうするものだから、聞いた俺も唖然とした。しかも両者ともに、心理学には全く関係ない方面の先生方で、非常に高名な先生方。さらにこのお二人の方向性すら違う。詳細は聞いてないけど、なんでも君が心理学科の学生だという点にすら、驚いていたそうだ。俺はさ、とりあえず君は、卒論に関してもなにかアクションを起こしているのだと分かって、とても安心したけど、遊び歩いているようにしか見えないし、一体あの問い合わせ先で何を書くつもりなのかも分からないし、そういう意味でも頭が痛くなった」
「ごめんなさい……」
「それで相談って何?」

 不機嫌そうなままの先生の前で、困りながらも、私は6つの卒論候補を取り出した。
 それを見ると、先生の顔が奇妙なものに変わった。

「長くなっちゃったんです。あと、どれにすれば良いか分からないんです」
「……ちょっと見せて」

 煙草を持ったままの先生に、私は卒論を全部渡した。
 そして珈琲を勝手に淹れて、煙草を吸いながら、待つことにした。
 会社にお詫びをし、上村先生にもお礼を言わなければならない。

「規定枚数ギリギリの学生が多いから、二つはちょうどいいな。他は、0が一個多い」
「そうなんです!」

 まずは枚数を確認した様子の先生に対して頷くと、タイトルを見ながら先生が言った。

「多い分にはいいんだけどさ……というかさ、短い方、これ何? ゾンビって」
「私も、それはあまり論文として良くないと思うんです」
「自覚できる頭があって良かった。一応読んでみるけど」

 先生が、まずゾンビを読み始めた。
 熟読ではない。さらさら読んでいた。結果。

「いやぁ、俺、君の小説を初めて読んだけど、ゾンビ系コメディって知らないジャンルだった」
「え。コ、コメディ!? た、確かに小説風になっちゃったんですけど、でも、え?」
「シリアスしか書かないんじゃなかったんだね」
「え、え?」
「君、絶対コメディ系の方が向いてる。確信した」

 先生の機嫌がちょっと良くなった。少し笑いながら、先生は、終末論の論文を読みはじめた。すると今度は、講義中みたいな顔になった。

「これはきちんと卒論認定できる。ただし、すごく、つまらない」
「いやぁ面白いと思うんです。だけど、私もそれは論文には向いてないと思うんです。根拠がなんというか」
「十分だよ、その辺は。けど、ありがち。斬新さが無い。ま、残り全部ダメだったらこれを土台に完成させよう。最悪、これで良いや」
「はぁ……」
「ここまでいっさい、連絡があった大学の先生達の専門に関係ないけど、他は出てくるの?」
「はい!」
「そう」

 先生は退屈そうな顔で、まずはプーケットの論文をめくった。

「え」
「なんですか?」
「本当に卒論のためにプーケットに行ってたの!?」
「はい!」
「上村先生の嘘じゃないの!?」
「はい!」
「上村先生には教えてたの!?」
「いいえ!」
「誰かに教えたの!?」
「いいえ!」
「……上村先生、さすがすぎる」

 そんなことを話してから、先生がまずそれを流し読みしてくれた。
 そして複雑そうな顔になり、頬杖をついた。何度かどこかを読み返していた。
 新しい煙草に火をつけている。

「次読んでみる」

 先生は何も言ってくれなかった。プーケットはダメだったのだろうか。
 結構いい出来具合だと思ったんだけどなぁと、残念な気持ちになった。
 スパスパ吸いながら、続いて原子力についての私の論文を先生が読んだ。

「……このさ、ロシアの方っていうのは、ご家族の知りあい?」
「いえ、サークルのお友達の叔母さんで、彼女の親類はそのお母さんです! その叔母さんの方とこの前電話するのに夢中で、面談を忘れちゃったんです! その時にサークル旅行の行き先も決めました!」
「ああ、そう」

 先生は、非常に冷静な顔で読んでいた。
 さらっと全部読んだあと、何箇所か読み返していた。
 そして腕を組み、じっくりと目を伏せた。

「次」

 その後、また感想を述べずに、私に手を差し出した。
 私は江戸時代の論文を渡した。
 これはするすると先生が読んだ。

「はっきり言ってさ」
「は、はい!」

 読み終わった先生の声に、私は緊張した。まだひとつ残ってるけど!

「これ、大学に連絡あった時期を考えると、かなり初期に書いてたよな」
「はい! ゾンビと終末論の次に書きました!」
「その段階でこれを見せてくれていれば、これで決まりだった! きちんと対象関係論だしね! なんで俺に見せなかったの!?」
「す、すみません……」
「まぁ良いけど。困ったなぁ。とりあえず最後を貸して」
「はい!」

 こうして先生が、最後の論文を読んでくれた。防災と直後行動だ。
 私は、どうなるのかよくわからなかった。
 どれかは選ばれるのだろうか? 悩んでいると、先生が読み終わった。

「……うーん」

 それから先生が、机の上に、ゾンビ以外を改めて並べた。

「困ったなぁ」
「何について困ってるんですか?」
「なんだと思う?」
「長さです! 少なくとも私はそれに困ってここにきました!」
「長さに関しては、ゾンビを含めて全部一緒にしても合格にできるから問題ない」
「本当ですか!?」
「ああ。要約できない学生って案外多いから。そこじゃないんだよ、分からないの?」
「わらかないです! どこを書き直したら良いですか!?」
「書き直し……うーん。そこなんだよね、うーん。まずさ、これは文献研究が、ひとつもない」
「え」
「全部引用して独自の理論を展開してる。根拠をつけて! 質問紙じゃないけど、数値付きのものである! インタビューも満載! なので、終末論はともかく、他は、分類が変わってくる。江戸時代のだけ、まだ頑張って対象関係論って言えないことはないんだけ、あれも含めてこれは全部、心理学方面から見ると、災害心理学なの!」
「え! 災害心理学は社会心理か行動の方向です! 私はあんまりよく知らないです!」
「そりゃそうだ。この大学でやってないから! 院試にも基本あんまり出ないし!」
「どうしたらいいですか?」
「君が連絡とったお二人に関しては、先方の論文を俺も上村先生も読んでる。しかし他は予想外過ぎた。もう一回全部読んで、上村先生にお願いして、社会心理の先生と社会学科の先生読んでもらって、そっちにもお願いして、会議かけるから、ちょっと待ってて。専門外すぎて判断できない。ちなみに、災害に興味あるなんて聞いたこと無かったけど、なんでこれを?」
「あの……ゾンビ映画とパニック映画を見てて、他にテーマ思いつかないから、これで良っかなぁって」
「は?」
「先生が映画見ろって言ってたから、見てたんです。アルマゲドンを改めて見て感動して泣きました。だから隕石がテーマもいいかと思ったけど、デイアフタートゥモローも見返して、こっちの災害系のほうがいいかなと思って調べ始めた結果、こうなりました! ゾンビは、もっと沢山見ました!」
「デイアフタートゥモローを見て、プーケットに行ったの?」
「結果としては、そうなりますね!」
「気が遠くなりそうだ」
「貧血ですか!?」
「違う、この、バカ! 今後は、国内映画を見るように! なるべく気持ちが穏やかになる奴!」
「え」

 こうしてゾンビ映画と災害映画は禁止され、私は冬休みに入った。

 会社に連絡すると、熱心でいいねと褒められて、最後まで詰めるんだ、すごいね、頑張ってと言われた。頑張りますと答えたが、上村先生はどのように伝えたのだろうか。不思議に思いつつ、上村先生にお礼を言いに行くと、連絡があった大学の先生の専門分野の直後にプーケットだから、スマトラかなんかで行ったんだろうと想像してたんだと言って笑っていた。すごい人だと私も思った。

 冬休み明けに、久方ぶりにゼミに行くと、三分の二が病んでいた。
 みんな冬休みに卒論が書き終わらなかったのだという。
 文字数が到達しないと嘆いていた。私と逆で、みんな短くなっちゃっているらしかった。

 私はといえば、サークルの他、学科友達と、他のもっと親しい子達と、あと三回出かける卒業旅行について考えていた。沖縄と京都・大阪と、あとは何回も行ってるけど最後にもう一回富士急に遊びに行くことにしていたのだ。富士急に行くメンバーは、当初全員でフランスに行こうと言っていたのだが、プーケットに全員一緒に来たので、海外はもういいやって話になったのである。

 その日の帰り、先生に呼び止められた。

「明後日の朝十一時。絶対に遅刻せずに、上村先生の部屋に来て。遅刻したら許さない。いいね。絶対だよ」

 何事だろうかと思いながら、私は頷いた。



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