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【16】あきた

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 とても楽しかった。そして帰国して気づいた。私は、日本に向いていない。
 かと言って、他の国に行くあてもない。留学とかもしたいわけじゃない。
 だが、日本、向いてない! 日本では生きられない! それに日本にあきた!

 たまたまそう思った場所が、改装中だった高校の工事の足場だった。
 ――さすがに、飛び降りたら死ぬだろう。
 ふと思いついた。あきたし、死ぬか!

 このようにして、私はひょいと足場を乗り越えた。
 が、全然死ぬことなどなく、体が痛くなっただけだった。
 高さが足りなかったのだろうか。三階くらいの高さだったのに!

 そう思っていたら、目撃していた人が何人かいたようで、走ってきた。
 みんな慌てていた。私も慌てた。

「足を滑らせちゃったの!」

 私の言葉を、全員信じてくれて、みんなで保健室に連れて行ってくれた。
 ただ、足は特に無事で、自分で歩けた。
 けど体中が痛くて、涙が止まらない。痛みによる生理的な涙である。

 しかし、私は痛いことを黙っていた。多分折れてるっぽいと思ったから、このまま放っておいたら、死ぬと思ったのだ。

 痛いと言ったら病院に連れていかれて、治療されてしまう! それではダメである! なので私は「怖かったの! だから涙が止まらないの!」と言っておいた。その場で、真剣に足場の危険性についての議論が始まった気もするが、痛すぎてあんまりよく覚えていない。

 念のため病院に行ったほうが良いという話になったので、伯父に連絡して迎えに来てもらいますと言って、私は学校の外へと出た。早退である。勿論、連絡なんかしていない。学校の先生達は、携帯で連絡したと信じていたが、それは私の大きな嘘である。

 この時点で、多分ちょっと意識が朦朧としていた私は、さらなる飛び降りなどではなく、現在の体を放置する先を探し始めた。放っておけば死ぬと、なぜなのか思っていたのだ。まぁ、放置すれば、実際そうなっていたのだろう。

 ふらふらと歩き、私は通学に使っている駅のトイレへとたどり着いた。
 駅の外にあるトイレで、非常に汚い。
 駅の中に、すごく綺麗なトイレがあるので、ここには誰も来ない。

 それを知っていたので、私は汚いトイレに入った。
 男女兼用である。
 そして、個室に入る前に、座り込んだ。すごく汚いのに!

 ――まぁ、もう限界だったのであろう。

 動ける状態ではなく、頭も働かない。全身が痛い。ああ、死ぬのだなと思った。

「何やってんだよ?」

 すると、声がした。見上げると、広大くんが立っていた。
 私は、なにか答えたのかすら覚えていない。
 次に気づいた時には、総合病院にいて、手術も終わっていた。

 なんでも、複雑骨折していたそうだ。

 頭と足は大丈夫だった。そちらもやっていたら、生命が危なかっただろうと言われた。不幸中の幸いだと言われたが、同時に、むしろそちらだったらすぐに病院に来ただろうにとも言われた。多分、冗談だろうけど。

 伯父達には連絡したつもりだったが、送信できていないと気づかなかったのだと言い訳した。それに大丈夫だと思っていたから、駅まで迎えに来てもらうつもりだったと言った。伯父達の病院で見てもらうつもりだったのだと力説した。全員が、納得してくれた。

 ――わけでもなかった。二人だけ、疑惑を抱いた人間がいた。

 それは学校の先生ではない。先生方は、私の精神状態を、もう既に疑っていなかった。

 一人目は、私を発見し、救急車を呼んでくれた、広大くんである。
 彼は、お見舞いに来てくれた。二人きりの病室で率直に言われた。

「お前、自殺しようと思って飛び降りた?」
「そんなわけないじゃん! 前に弟が言ったの気にしてるの? 無い無い!」
「なんで落ちたんだ?」
「あそこさ、なんか一箇所、外れえたでしょ、網みたいなやつ!」
「ああ、そうだな。だから危ないから、普通近づかないよな。俺には、飛び降りたように見えたけど」
「え? 見えたって……いなかったじゃん? 何を根拠に――」
「生徒会室の真正面。俺しかいなかったけどな、あの日」
「……遠いから、見間違えたんだよ」
「俺が保健室行った時、丁度お前帰る所だったから、何かあったら危ないと思って、お前のところの家の人来るまで見ててやるかっていう俺の優しさ! 感謝してくれ! しかし、しかしである。なんと、迎えに来る気配はなく、お前は歩き続け、駅に到着。どういいうことだよ? あ?」
「ありがとう! 大感謝だよ! いやそのさ、駅で合流しようと――」
「なんでトイレ?」
「もれそうで!」
「すぐそばに綺麗な方あるだろ」
「ま、間に合わなそうで!」
「へぇ。じゃ、さぁ。携帯見せろよ」
「え?」
「連絡した記録、残ってるよな?」
「――病院だから、持ってきてないよ。家に持って帰ってもらったの。ここにあったら、絶対見せる。本当!」

 私の言葉に、しばらくの間広大くんは沈黙した。不機嫌そうというか、疑念の目というか、確実に私を信じていないような気がした。

 今のところ、広大くん以外、携帯を確認するなんていう発想をした人はいない。だがもしも彼が、私の家族にそれを提案したら、大変だ。意識が朦朧としていて、メールを打ったつもりだったと言いはろうか。一度嘘をつくと塗り固めるのが大変だ。しかし、バレるわけにはいかない。

 悩んでいた時、広大くんが、いつもの笑顔になった。

「だよな! お前が自殺なんかするわけねぇよな!」
「あたりまえじゃん!」
「なんて俺って優しいんだろ、こんなに心配してあげるなんて! まさに友達のかがみ! 惚れてもいいぞ! 振るけど!」
「彼氏いるもん!」
「ああ、文化祭来てたな。遠恋ってきついよな」

 あちらも遠恋中なので、私達はその後、遠恋について語り合って、その日は終わった。
 さて、もう一人の疑っていた人物。

 それは、奥田先生である。

 今回、精神科への受診予定など全くなかったし、実際受診もしなかった。
 ただ、ある日ふらっと、奥田先生が病室に姿を現したのだ。
 お久しぶりですと私は言ったのだが、奥田先生はそれには何も返さず――急に言った。

「また面倒くさくなっちゃったの?」
「いえ、違います」

 実際に違った。今回は、面倒くさくなったのではない。

「それは、本当――」
「今回は、あきちゃったんです」

 私は、先生の言葉を遮り、素直に答えた。
 なんとなく、この先生には、嘘は通用しない気がしていたのだ。
 この回答に、奥田先生は頷いた。

「なるほどね。面倒くさくなったわけじゃないっていうのは、本当なんだ」
「はい。カルテに書いたり、学校の人とか家族に言っちゃダメですよ!」
「はいはい。言わないよ。書かないし。けど、もうちょっと教えて」
「何にあきたの? 人生?」
「いや、日本に」
「――ん? どういうこと?」
「修学旅行に行ってきたんです。それが、楽しかったんです。だから日本は向いてないと思って、日本はあきたと思って、もうここで生きていくのはあきたから止めようと思ったんです」
「楽しかったのに、それが終わって、死にたくなったの?」
「いや別に死にたくなったわけじゃないです」
「――将来的に海外に行こうとは思わなかったの?」
「英語大嫌いだし、きっと他の国の言葉はもっとわからないし、思わなかったです」
「勉強したら?」
「勉強嫌いだから嫌です。勉強するくらいなら死にます!」
「それ、よく聞くけど、初めてその言葉に真実味を感じたよ」

 奥田先生が吹き出した。やっぱりこの先生、笑いどころが謎である。

「そっかぁ。あきちゃったかぁ。まだ若いんだからこれから楽しいことあるよとか言っても、君は信じないよね、俺の言葉」
「ねぇ先生、世の中には死にたくない人が沢山いるのに、どうして私は、死ぬのに失敗しちゃったんでしょうか?」
「運命とか神様とか、そういうの俺は信じないから何とも言えないけど、なんかこう生きてろってことなんじゃない。少なくとも、俺は君が生きていてほっとしてる」
「私も信じてないです。ま、幸運だったってことですよね。友達のおかげで助かって。私にとっては不幸だっただけで。先生も、ありがとうございます」
「――ところで、今まで何回死にたくなった?」
「死にたくなったことは一回もないです」
「じゃあ、結果的に死につながることは、何回した?」
「薬と今回だけです」
「左腕の傷は何? 本当は前回の時に聞いてみようかとも思ってたんだけど」

 その言葉に、ふと無事な左腕を見た。実は、血管に沿って、縦に縫い傷があるのだ。かなり深々と、当時切れてしまった。

「ひかないで聞いてくれます?」
「うん」
「実は、小さい頃に、腕の骨は一本だと思ってたんです。なのに触ると2本あって、ずっと不思議だったんです。それに、血は赤いのに、血管は青いから。私は変だと思ったんです。それで、2本の骨の間にある、青い血管の所を、包丁で切ってみたんです。縦にグサッと。そうしたら、骨は見えなくて、やっぱり2本あるみたいで、だけど血は赤くて、よくわからなかったんです」
「――小さい頃って、具体的に、いつ?」
「小学校の、二年生くらいか、うーん」
「その頃何か、あった?」
「無視されてました。でも、それが原因じゃないです。ただ、不思議だっただけです」
「リストカットなら普通横に切って、死なない程度だから、縦なら本気だし、そこまで深い傷で縫い跡もあるから、自傷行為か判断に迷ったけど――当時、ご両親はなんて?」
「包丁を落としたって言ったら、二度と料理するなって」
「嘘ついたんだ。無視されてたこと、知ってたんでしょ、親」
「知らなかったですよ。言う必要なかったし」
「心配かけるから?」
「いや、なんとなく。本当に言う必要ないかなって」
「イジメはいつ終わったの?」
「小二の終わり……小三のはじめだ! というか、私はイジメだとそれまで思ってなくて」
「でも、辛かったでしょ?」
「そうでもなかったですよ。なんか、こう、嫌われる悪いことしたんだろう的な風に思ってて。それにその後、友達がいっぱい出来たし!」
「本心?」
「ここまで話してるのに、今更嘘をつかないです。先生を信用してます。だって前回、黙っててくれたし」
「信用か。嬉しいな。けど、家族にも真実を言わないんだから、俺が親しくない他人だから話していられるんでしょ。他の誰かにいう可能性が低いというのも前提で」
「当然じゃないですか」
「友達には話してるの?」
「話すわけないじゃないですか。心配されるの、すごい嫌。みんな優しいから」
「――それ、本当に友達だと思ってる?」
「少なくとも、友達だって言ってくれました!」
「そうじゃなくて、君自身が」
「え?」
「君は自分が嫌われていると思ってた。だけど逆に聞くけど、君自身の方から友人だと思った相手とか、君の方から好きだと思った友人はいた?」

 その発想は無かった。私は、考え込んだ。
 相手が私をどう思っているかは気になることが結構あったが、私はどうなのだろう。
 私から友達だと思った相手? 言われてみると、心当たりが無かった。

 だから「親友」とか「友達」と言われるまで、違うと感じていたのは事実だ。

 高校生になってからは、話す相手は友達なのだろうと認識していたが、それもまた、相手が私を嫌いじゃないのだろうと判断した結果だ。自分から友達だと認識したこと――そう考えてみると、よく分からない。

「近しくない他人で口が堅い相手には言える。信用、というよりも、本心が露見する可能性が低いからだと俺は思う。身近に、本当に信用している相手はいる? 好きな相手はいる?」
「……」
「まず一般論として言うけど、君が死んだら悲しいと思う人は沢山いる。短期間診ただけの俺ですら、悲しむ。それは分かるよね」
「……それは、客観的に考えて、確実に、その……」
「分からないみたいだね。だから今回は、事故を装ったんだ。前回は、病気のせいにした。それは根本的に、分かってないからだ。分かってないというか、自分が好かれていないと基本的に感じているからというのが一点、もう一点は、客観的と今言った判断から、他者の悲しみじゃなく、無難な原因を作ることで、世間体を保とうとしたんだろうね。生き残ったのが悲しかったのは、高校の留年可能性とか、結局そう言う社会的な見方を気にしたんだ。今回の方は、確実に世間体のみだ。それも自分じゃなく、周囲の世間体を保つためだね。それ以外は、所詮周囲は君の死を、それほど悲しまないと思ってる。俺にはそんな風に見えるよ」
「先生」
「ん?」
「面倒くさいです」
「死にたくなった?」
「そうじゃなくて、いくら心とかの専門家でも、他人の気持ちを他人が理解するなんて不可能でしょ? 先生の今の言葉は、全部想像じゃないですか。先生の想像を聞くのが面倒くさいってことです」
「普通、精神科医や心理学者は、人の気持ちが分かるって考える人間のほうが多数なんだけど、やっぱり珍しいね」

 先生がまた吹き出した。この人は、本当に変だ。

「じゃあ面白い話をしてあげようか」
「はぁ。なんですか?」
「俺はさ、これは理論とかじゃなくて、個人的に思ってることなんだけど。自分を殺すのと他人を殺すのは、同じことだと思うんだ」

 少し笑いながら言った先生の言葉に、私は確かに興味を惹かれた。



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