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【10】貴婦人らしくない貴婦人
しおりを挟む翌日、私はあるまじき事ではあるが、ここの所顔を出していなかった白百合会のサロンへと顔を出した。久しぶりに行くとなると、正直緊張もする。扉を開けてもらって中へと入ると、下級生や上級生の視線が一気に私に向いた。同級生達はずらりと私の後から並んで入ってくるので顔は見えない。
なお、朝――私は時子様と、いつもの通り、イヤミの応酬をした。すると何故なのか時子様は嬉しそうだったし、公家華族のみんなもホッとした様子で私に声をかけ、加勢してくれた。
「鷹彬侯爵家での音楽会のピアノ、本当に可憐で今でも耳に残っておりますわ」
私が定位置に座ると、続いて真壁伯爵家ご令嬢の、もうすぐ卒業なさってしまう英津子様が隣に座った。英津子様は、私よりも、在学中だった頃のお姉様と仲が宜しかったご令嬢なので、実はそこまでサロン内では話をした事がなかった。姉の取り巻きだったという事である。サロンは公家華族の集まりだが、この内部の取り巻き群には、家格の他に個人の取り巻きというのも存在するのだ。私はこの機微を理解するのに、いつも胃が痛くなっている。
「ありがとうございます」
しかし、ピアノを褒められて嬉しい。そう感じていたら、英津子様がほっそりとした手を頬に添えて、私を見た。私は心の中で、私同様、結婚する気配のない英津子様を見るたびに、いつも実は、『私一人じゃない』と、失礼ながらにも、自分を慰めていた。
「久方ぶりに玲子様ともお話させて頂いたのよ。本当にご自慢の妹だと仰られていたわ。私の妹も愛らしいのですけれど、ピアノの腕前は可哀想なのよ」
冗談めかした英津子様の声に、サロンが明るい空気に変わった。すると私の逆隣に、雛子様が座った。そしてごく小さく、私の耳元に唇を近づけて囁いた。
「最近、あまりお元気でないご様子でしたから、安心いたしました」
私は驚いて、雛子様に視線を向けた。するといつもとは異なる、心なしか苦笑するような笑顔がそこにはあった。狼狽えていた私の手に、そっと雛子様が触れる。このように手を握られたのも、初めての事だった。
心配していてくれたのが、彼女の手の温度から強く伝わって来る。すると逆側からは、英津子様がそっと私の肩に触れた。今度はそちらを見ると、英津子様もまた苦笑していた。
驚いたままサロン全体に視線を向けると、皆、笑顔を浮かべていたり、微苦笑したりしながら、私を見ている。
「ピアノだけではなくて、お琴も本当にお上手ですよね」
「まぁ。ご存知ないの? 咲子様はヴァイオリンも素晴らしいのよ。私、同じ家庭教師の先生に習っておりますの」
「羨ましいですわ。我が家は、西洋の楽器はさっぱりですの」
「せ、西洋の踊りも、素晴らしいんです!」
そこに、震えるような――しかし、しっかりとした芯を感じる声が響いた。見れば、いつもは寡黙な菜子様が声を上げていた。私は昨夜の鹿鳴館での出来事を思い出し胸がいっぱいになる。すると、同意の声が沢山上がった。
「本当に、さすがは花澄院伯爵家のお方。いつも麗しいドレスで羨ましいですわ」
「ええ。しかもそのドレスに、決して負けないお美しさ!」
「あのように洋装が似合うのは、咲子様だけですわね。悔しいですけれど」
不覚にも、私は泣きそうになった。本日は、派閥が違う皆までもが、私に温かい言葉を投げてくれる。無論、淑女たるもの泣いてはならないし、私はこれらの言葉に『当然だ』という顔をすべきだと、よく理解している。だが、本日のみんなの優しさや、元気のなかった私に対する慰めを聞いていたら、涙腺が緩みかけた。
――もしかしたら、私が心を閉ざしていただけで、私には多くの友達がいたのかもしれない。胸が幸せで満ちていく。だから、私は必死で、元気である事を、元気になった事を、伝えるべく言葉を探した。
「当然です、私は花澄院伯爵家の人間ですもの」
本当は、お礼が言いたかったのだけれど、私がきっぱりとそう言ってみせたら、サロンの空気がより一層明るくなった。やはり、私に求められているのは、爵位にふさわしい言動らしい……だが、今日はそれも、嫌ではなかった。私が表面を取り繕っているのと同じように、多分みんなもそうだと思ったからだ。
さて、サロンでの時間を終えて、私は家の俥を待つ事にした。いつもであれば、学院の時間が終わる頃には俥が着ているのに、今日は見当たらない。既にサロンにいた皆は、各々の家の俥や馬車で帰ってしまった。豪奢な校門の前にポツンと立っている私は、暮れ始めた空を見上げる。
目の前に、東京でも本当に珍しい、自動車が停まったのはその時の事だった。
今日も良いものを見かけてしまったと考えながら、私は小さく首を傾げる。
既に授業の時間は終わりであるから、授業の見学にしては遅い――申し込みにいらっしゃったのだろうか? そう考えて、不躾かとは思ったが、後部座席を見ると、静かに窓からこちらを見ているご婦人と目が合った。既視感に首を捻る。
そこで思い出した。先日、授業の見学にいらっしゃったご婦人だ。そう考えていたら、運転手が降りてきて扉を開け、ご婦人が優雅な仕草で私の前に立つ。彼女はこちらも普段としては珍しい事にドレスを自然と着こなしていて、どこからどう見ても、貴婦人だった。
「花澄院伯爵家の咲子様ね?」
「――ええ。花澄院伯爵家の次女で咲子と申します」
いきなりそのご婦人に声をかけられて、驚愕のあまり仰け反りそうになったが、私は表情筋を鍛え抜いているため、すぐに令嬢の顔をした。そうして挨拶する私の前で、彼女がドレスの端をつまんで挨拶を返してきた。
「私は、糸菱財閥――先日叙爵された糸菱男爵の妻で永里子と申します」
財閥という存在は、私も聞いた事があった。たぐいまれなる潤沢な資産を持っているという。だが、どんなに働いても滅多に勲功華族には認められない事が多いと聞いていた。
糸菱屋という名前も、聞いた事がある。理由は、少し下の学年に、糸菱七穂子様というご令嬢がいるからだ。運動会の時にお話をした事がある。私達の中では、平民扱いの勲功華族のご令嬢となる――が、私には、運動会以外の接点は何もない。
「先日の授業参観を見ていて、是非一度、貴女とお話させて頂きたいと思っていたのです、咲子様」
「まぁ……どうしてですの?」
「本来は先に家同士でお見合いの話を通すのが筋だとは存じておりますが、その前に、貴女という方について、少し知りたいと、我が儘を申し上げた所、糸菱の私の旦那様が、恐れ多くも花澄院伯爵にお会いさせて頂く機会がございましてね。こうしてお帰りの際に、少しだけお時間を頂戴できたのです」
それを聞いて、私は瞠目した。お見合いという言葉に、全神経が反応した。
――来た! 縁談かも知れない!
「無論、勲功により有難くも頂戴したとはいえ、当家は男爵家。由緒正しきお公家様の血を引いていらっしゃる花澄院伯爵家とは分不相応過ぎるのは、存じておりますが――少々、お話させて頂けませんこと?」
「……え、ええ。家の俥が来ないようですので、その間だけでしたら」
大歓迎! という内心を、私はなるべく上品な言葉で言い換えた。すると優雅に笑った永里子様が、手にしていた扇を開き、口元を隠す。鹿鳴館がこの場にあるような錯覚に陥った。指には、大粒の宝石が輝く指輪がはまっている。
男爵家が相手だ。それも勲功華族だ。どう考えても、花澄院とは家柄は釣り合わない――が、決して貧乏ではなく裕福な方に入る我が家とて、このような豪華な宝石をちりばめた指輪は見た事がないし、日常的にドレスを纏うような資産はない……。
私は頭が悪いので、詳しくは知らないのだが、財閥というのは、お金持ちの事だと聞いた事がある。無論、お金の話などするのは、品のない事なので、あまり深く聞いた事はないのだが……立っている永里子様は、宝石が全身の至る所についている。そしてご本人は、その美しさに負けない麗しい容姿をなさっておいでだった。
美人だ、と、率直に思うのだが、病的ではない。華族でいう美人の基準とは違うのだが、同じように違う私から見ても、美人としか言いようがなかった。基準と違っても美しいという場合があるんだなと私は驚いた。どことなく雰囲気が、家の静子……私の本当のお母様に似ているようにも思う。
黙って考えている私を、じっと値踏みするように、永里子様は見ている。
不美人だと思われているに違いない……そう思ったら、顔から火が出そうになって、私は俯いた。すると少しして、小さく吹き出すような気配がした。
「緊張しておいでのようね。噂と違って愛らしいお方ね」
噂……その言葉を聞いて、私は顔が引きつりそうになった。それでも必死に余裕の表情を心がけて顔を上げると、パシンと扇を閉じて、永里子様が豪快に笑った。声を出して笑うなど、貴婦人らしくない。だが、不思議と似合っている。快活な永里子様の表情を、目を丸くして私は見ていた。
「噂は噂ね。貴女もお気になさらないように」
「……」
「これからは、開かれた時代になると私は思うの。糸菱財閥でも、どんどん国際的な事業を手掛けようとしているのよ。その糸菱の家に迎えるのならば、ぜひ貴女のように愛らしく健康的な女性が良いものね」
それを聞いて、私は息を呑んだ。お見合いの兆しが見えてきた。
「改めて、糸菱の主人とも話してみます。もしお話を花澄院伯爵家ご夫妻がご快諾下さった時には、改めて考えて下さいね――ああ、俥が来たようね。では、ごきげんよう」
そう言うと、永里子様が車に乗り込み、運転手が扉を閉めた。その後運転手が前に回り、車が走り出す。夢でも見ていたかのような気分で、私は立ち尽くしたまま、車が遠ざかっていくのを見守っていた。私の家の俥がやってきたのは、その数分後の事である。
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