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【6】上流階級

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 私は昨日初めて、上流階級の世界に、より触れたように思う。これまでの間、花澄院がいくら上流階級の伯爵家だと聞いても、生活はそれが自然だったから、あまり実感は無かったのだ。

 ただ、ドレスを見て、はっきりと認識してしまった事がある。
 花澄院伯爵家は、幸い裕福だが、昨夜和装だったのは、専ら公家華族の、白百合会のご令嬢達だった。それは格式が高いから和服を着ているのでは無かった。ドレスはやっぱり値段が張るのだ。

 逆に大名華族や勲功華族のご令嬢は、多くがドレスをまとっていた。他には、政府のご婦人方はドレスが多かった。ただ彼女達の多くは『元玄人』だという。外交のために、夜会へと訪れていたようだった。私はお父様と出かけたのだけれど、夜会は夫婦揃ってであったり、パートナーを同伴するらしい。何故、お母様は昨夜、行かなかったのだろう……? 練習の場だから、私に譲ってくれたのだろうか? 昨夜のお母様は、支度を静子に任せて、私にはお会いになってくれなかった。ご多忙だったのかもしれない。けれどお姉様が初めて鹿鳴館に行った時は、手ずからドレスから装飾品まで選んでおられた記憶がある。

「お母様は、私よりお姉様が好きなのね、やっぱり。私には興味がないのかしら」

 鏡台の前に座り、私はポツリと呟いた。とても寂しいが、思考がそれてしまった。
 ……公家華族は、身分は高いしサロンもある歴史が長い家柄だけれど、やはり貧乏な家が多いように思う。例えば前川伯爵家の時子様のお宅の広さとは、比較すら出来ないほどだ。おそらく食事もだいぶ異なる事だろう。

 その後俥に乗りながら、公家華族の在り方を私は考えた。お琴の練習をしていてばかりでは、裕福にはなれない。せめて、鹿鳴館ではドレスをみんなで身に纏いたい。実は、『公平』という考えが、私は好きだ。華族にはあるまじき事だとは分かるが、もしもみんなが平等だったならば、私が特別扱いされる事も無かっただろうと夢想してしまうのである。

 なお――華族女学院には、大名華族と公家華族の派閥以外に、平民の派閥があるのだが、実はそこにも華族が入っている。それは、勲功華族だ。平民から成り上がったものも多いが、政府の高官で叙爵された方のご令嬢だ。けれど『由緒正しくない』という事で、私達は、平民派閥の一部だと認識している。

 この……上目線。実は私は、これも苦手だ。せっかく同じクラスで学んでいるというのに、どうして差別があるのだろう。それでも華族籍にある者は特別だと言われて育ってきたから、それが自然なのかもしれない……。私は体型も美人ではないが、頭も良くないのだろう。常識と違う事を考えてしまう事があるから、決してそれを悟られないように、口を閉ざしている事も多い。それが私の、氷のような意地悪お嬢様という評判を煽っているのも知っている……。

「今日も遅いご到着ね、花澄院伯爵家は優雅でよろしいわね」

 教室に入ると、今日も時子様のイヤミが飛んできた。確かに私は、いつも髪が整わないせいで、遅刻しそうになる……。

「時子様は教室のお掃除でもなさっているの? お早いご到着ね。まるで中流の女子みたいね」
「なんですって? 身だしなみすら整えられない明るい色のボサボサの髪の咲子様のように、私は不潔ではないだけですわ。毎日、鉢植えに水をあげる私を先生方は褒めてくださいますもの」
「その割に、道具入れの中は乱雑なようね」
「っ、整理と整頓は違うのよ。そんなこともご存知ないの?」

 私達のイヤミの応酬は、本日も予鈴とともに終わった。
 机の上にノートを出しながら、私は俯いて参考書を見ているフリをする。
 本当は、私だって、お花に水をあげたい。けれど、公家華族にとっては、それははしたない行為の一つであり、上流階級のご令嬢が手ずからすべき事ではないとされている。

 公家華族は、箸より重いものを持てないなんて、最近では、実しやかに囁かれているそうだ……そんな公家華族の代表の私が、水差しを持ち上げたら、皆が驚くだろう……。

 それは本来は、大名華族の時子様も同じだ。ただ、時子様は、私達白百合会のメンバーとは異なり、平民や勲功華族ともお話をする。活発な方なのだ。だから一緒にお花を育てていらっしゃる。実際に水をあげているのは、平民だというのも知っているが、ともに愛でられるのが羨ましい。

 そう考えていたら、窓の外で雨が降り出した。今日は美容術の体操はお休みだろう。朝から曇天だった。今は梅雨だ。私は家の庭に咲いていた紫陽花を思い出しながら、この日もぼんやりと授業を受けていた。


 ――本格的に夏が訪れたのは、それからひと月後の事だった。華族女学院から帰宅すると、この日はお姉様とお義兄様が来ていた。お義兄様も政府では外交関係の仕事をしているそうで、お父様と近しいお仕事をしているらしいが……やはり見ていると、お二人は仲睦まじい。まだ結婚したばかりだからだろうか?

「ねぇ、咲子。待っていたのよ」
「どうかなさったの? お姉様」
「お父様からも相談があったのだけれど、また鹿鳴館を賑やかす淑女が足りないらしいの。それで私は、旦那様と次の夜会に参加するのだけれど、一緒に行きましょう。お父様も、咲子も呼ぶようにと、朝私に電報を寄越したのよ」

 それを聞いて、小さく息を飲んでから、私は頷いた。ドレスも靴も苦しいが、洋服はいつも着物の私には、やはり新鮮だからだ。外国の貴婦人と体型が近いせいなのか、私はドレスを着ている方が、気が楽になると、最近では気づいてもいた。

「参ります」

 そう答えた三日後、私は再び鹿鳴館へと足を踏み入れた。本日は、大名華族や公家華族のご令嬢は少なく、代わりに勲功華族の皆様の姿が多かった。彼女達は私を見ると、深々と腰を折ったが――皆、ドレス姿だった。私よりも、よっぽど細い方が多いし、顔もお美しいし、ドレスが似合っていたから、私は自分が少し惨めだった……。

 それだけではない。彼女達は、勲功華族のみんなで固まっているから、公家華族の私を遠巻きにするのだ。気を遣っている、それは分かるのだが、私は夜会が始まる前から、孤独感に苛まれて、不安になってしまった。私も時子様のように、もっと仲良く出来ればよかったのになぁ……。

 さて、夜会が始まった結果――またも私は、壁際にいる事になった。本日はレッスンは無く、すぐに曲が始まった。ピアノやヴァイオリンの音を聞いてるだけの私は、美しい音色だと思いつつも、寂寞に胸を支配されていく。

 本日は外交に関する方々と、軍人の方が多いようだった。何人かに話しかけられたのだが、彼らは皆、私が花澄院伯爵家の娘だと知ると、慌てたような顔をして去っていく……。

 身分の高さは、時に弊害にもなるのだ。特に、高官の奥方様は、『玄人』の出自である事が多く、ダンスも華麗で、ドレスを着てもシャンとしている。『素人』の私達は、元の造形で美を級友と競うのだが、『玄人』の『美人』や『綺麗』とは比較してはならないという決まりがあるのだ。それが、良妻賢母の条件らしい。だから花柳界出身の奥方様は、会場でも目を惹くが、勲功華族としか話をしない。私は今日、一人ぼっちだ。

 夫婦でいらしているのもあるのだろうが、私とは異なり、旦那様も高官であるお姉様達は、楽しそうに何度も踊っている。本当に仲睦まじい。

「また壁の花気取りか」

 その時、先日も聞いた声がかかった。慌てて声が聞こえた右手に視線を向けると、小馬鹿にしたような顔で、総一朗様が私を見て、意地悪く右の口角を持ち上げていた。

「いくら賑やかしに来ただけの不細工とはいえ、一曲も踊らないというのは、失礼ではないのか」

 明るい声音だったが、嘲笑されている気分になって、私は俯いた。私だって、先日のように、クルクルと回りたい。足は痛くなるが、私はワルツに合わせたダンスが、実は気に入ってしまったのだ。だけれど、相手がいない。結婚相手がいないのと、全く同じだ。

 そう考えていたら、気安く話せる総一朗様の前だから、思わず涙が出そうになった。淑女として涙すべきではないから、私は天井を見上げて誤魔化す事にした。酷いことをいう総一朗様なんて嫌いだけれど、子供の頃から知っているせいで、素直に感情を出してしまいそうになる。

「お、おい……」

 すると焦ったような総一朗様の声がした。天井を見上げたまま、私は言葉を探す。

「今日は政府の方と軍の方ばかりいらっしゃっているのに、どうしてここにおられるのですか?」
「――将来、貴族院が出来るという話があってな。伯爵家の者は互選となるそうだから、政府の勲功華族との人脈作りで来ている」
「お友達作りですのね。お暇なようで、羨ましいですわ。踊ってらっしゃれば良いのに」

 必死で私は喋ったのだが、少しだけ涙声になってしまった。

「お、おい、だから……そ、その……――泣くな」
「泣いてなんておりませんわ」
「子供の頃から泣き虫なのは、変わっていないらしいな。随分と凛としているように見えるが、お前の中身は雑草だ」
「……っ」
「あ、い、いや――ざ、雑草といっても、儚い白く小さな花の様というか、だ、だから……俺は花の名前など知らないが、決して悪い意味で言ったんじゃない」
「慰めてくれなくて良いのです。不美人なのは、私が一番良く知っておりますもの」

 私はもう涙を堪えられそうになくて、必死に瞬きを我慢した。今瞬きをしたら、涙がこぼれてしまうだろう。

「――来い」
「どこへですの?」
「良いから」

 総一朗様はそう言うと、私の手首を握った。驚いていると、総一朗様が歩き始めたので、私は必死でついていく。周囲に泣き顔がバレないように、今度は俯いた。総一朗様が私を連れて行ったのは、人気のないテラスだった。

「ここなら、存分に泣けるだろう」
「総一朗様のせいです。私が悲しくなったのは」

 そう言いながらも、やっぱり根は優しいと思った。私はこう言う気遣いをされると、胸が温かくなる。

「お前は、不細工で良いんだ。不美人で良いんだ」
「酷い」
「っ、だから……お前はモテなくて良い」
「それではいつまでたっても縁談が来ません」

 私はつい、本音をこぼした。するとテラスの手すりに手をのせて、総一朗様が沈黙した。それでもそばにいてくれたので、私はこれまでの様々な悲しい事を思い出して、ポロポロと泣いてしまった。これでは、お化粧が崩れてしまうだろう……。そうしたら、私はもっともっと不美人になってしまう。だけど、そばにいるのは総一朗様だから、見せても良いかも知れない。

「とりあえず、好きなだけ泣け」
「泣いておりません」

 私は完全なる涙声で強がった。すると総一朗様は溜息を零してから、私に振り返ると、呆れたように苦笑した。

「安心しろ。俺は口が堅い」
「……」

 その後、しばらくの間、私はポロポロと泣いてしまった。淑女失格だ。
 ただ、鹿鳴館の中に、会食で戻る頃には、涙がきちんと乾いていた。
 総一朗様がハンカチーフを貸してくれた事も大きい。

 中に入ると総一朗様は人脈作りに向かった。私は一曲だけ、お義兄様と踊ってから、先に馬車で帰宅した。


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