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二章
拾い子
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女王カリアは、王都からほど近い東の山でにわかに起きた山火事の被害状況を見ようと、シンの背中に乗って空から現場に急行した。
そして、今まさに炎に包まれた人影を見て息を飲んだ。
その黒い人影から幼子の細い悲鳴が聞こえるのだ。この凄惨な光景にカリアは思わず目を閉じた。
遅かった──
助かるまい。そう思って諦めた次の瞬間、シンがその悲鳴に向かってまっすぐ炎の中に突っ込んで行った。
「シン!」
驚いて引き止めようとしたが、シンは聞く耳を持たない。
そして、全身を炎に焼かれている女は、胸に硬く抱きかかえていた幼子を最期の力でシンに差し出した。
シンがその子を口の中に咥え、再び空に舞い上がった直後、女は安心したように崩れた。
シンが人を救うなど、珍しいこともあるものだと思った。
神龍が民を救う慈愛に満ちた神だと思ったら大間違いだ。むしろその逆で、まるで息をするように人の命を簡単に刈り取ってしまうこともある。
恐ろしく賢く長生きで、色の違う種類ごとに、この世界の「精」を統べるこの得体の知れない古い生き物に、人は『神龍』と名付けて崇め奉っているのだ。
しかし、それでも、長年付き合えば多少慣れるということはあるもので、互いの考えていることがわかることもあれば、気が向けばシンは、カリアのいうことを聞いてくれることもある。乗り物がわりに背中に乗せて、カリアの望むところに連れて行ってくれるのもそうだ。
シンが気まぐれに救った少女は、まだ赤ん坊といってもいいような幼子で、両親を失ったショックで口が利けなくなっていた。シンとカリアの姿が見えなくなると、火が付いたように泣きわめくので、最低限の意思の疎通が測れるようにと字を教えると、たちまち覚えて真っ先に自分の名前を書いた。
「ララ」。
以来ララは、スケッチブックを持ち歩いては様々な人と会話した。
そんなララを、みんな微笑ましい気持ちで見守った。
幼いララは言葉を失っても、人との関わりを捨てたわけではなかったのだ。それは、あの凄惨な体験の中で、空に輝く星のように強く美しい希望だった。
自分の全身が業火に焼かれても、我が子を必死で守ろうとしたあの母の強い愛は、確かにこの幼子の中に息づいている。
大切に育てようと改めて心に誓った。
そして意外だったのは、シンがララの傍を離れなかったことだ。大人を三人ほど楽に乗せられるほど大きな身体を、不思議な力でグッと小さく変化させ、ララを守るようにぴったりと傍にいた。長年付き合っているカリアですら、シンにそんなことができるとは夢にも思わなかった。それがましてや、馬にまで変身したのだから、カリアはある予感に胸が震えた。
それより少しあとに見つけた男児は、実に厄介だった。
その頃のカリアは、今よりうんと精力的に医師として全国各地を回っていた。
シンの神龍色である白は、老婆に化けるのに適していた。
もともと小柄なこともあって、人々は実に都合よく、カリアを白髪の老婆と思い込んだ。
カリアはそれを利用して、まだ若い頃から老婆のくすしとして各国で偽名を使い実績を積んだ。
『アリカ』『イリヤ』『ウルカ』と呼ばれる三人の名医は、実はみんなカリアのことである。
各国を巡り歩いているときに、優秀な若者を召し上げては、積極的に創設したばかりのシンの医療大学に入れた。シンで十分学んだ彼らは、やがて故郷の国へと帰り、各地に医院を構え、そこで地域医療に貢献した。カリアはそんな弟子たちの医院には、地域の様々な情報収集と引き換えに、優先的にシンの貴重な薬を卸した。そこはたちまち評判の治療院になっていった。
つまりそこは、シンの諜報活動の拠点となったということである。女王カリアはなかなかにしたたかだった。
ちなみに、金持ち貴族や王族の診察料だけはやたらと法外なのが特徴だ。
そんな無茶な仕事ができたのも、カリアの移動手段が優れていたからだ。
シンの背中に乗って一気に空を渡れば、行けないところはほぼない。むしろ伝令の方が時間がかかったほどだ。
ある日、そんな旅の途中で、シンがララを救ったときのように唐突に進路を変えて、ゴダール王宮に舞い降りた時は泡を食った。
厳重な警戒が敷かれている大国ゴダールの王宮のど真ん中に、シン国の神龍が女王とともに忽然と降り立ったのだ。
いくらなんでも、重大な侵略行為だと言われて戦争になってもおかしくない。
それに、たまたま警護の臣下に見咎められなかったことも、あとから考えれば奇跡としか言いようがない。
だがその時のカリアは、目の前の扉の向こうで、幼子が若い龍王色の女に今まさに刺し殺されそうになっていることにとっさに反応しただけだった。
これほど歳を重ねていても、若い頃から徹底的に仕込まれた体術は、王宮育ちの高貴な女の手を止めるには十分役立った。
正確な手刀一つで気を失った女は全身血まみれだった。
部屋の奥の寝台には、この女に滅多刺しにされた、やはり黒髪の龍王色の男が絶命してすでに冷たくなっていた。
見たところ女に傷はない。返り血で血濡れているのだ。殺されかけた幼子は、首から血を流しながら気を失っている。この子も龍王色だ。直ちに治療しなければ、失血死してしまうだろう。
とにかく、一刻も早くこの場を離れなければならない。カリアは子供を抱きかかえ、シンとすぐさま王宮を後にした。
この事件が、ゴダール宮廷を揺るがす大事件だと知ったのはだいぶあとになってからのことだ。
とかく貴人のスキャンダルは表に出にくい。
各地の弟子がもたらした情報によると、殺されていたのはゴダールの王で、殺したのは娘のシェリル姫。久しぶりの里帰りで王宮にいる父に、孫を会わせに行った姫の突然の乱心だったという。
とっさに連れ帰ってきてしまった幼いラウル王子を、どうしたものかとカリアは頭を抱えた。
ところが、心を自閉してしまったこの子に、幼いララが実に根気良く子供らしい熱心さで接した。またこの子も、そんな状態なのにララの傍を離れようとしなかった。それが愛らしくて哀れで、意識を閉ざしているうちにゴダールに帰してしまう方がいいとわかっていたのに、結局、一年半もズルズルと先延ばしにしてしまった。
カリアはこの愛らしい二人を見ているのが幸せだったのだ。
だが、黒の龍王色を持つこの子を、シンの王宮で育てるのは無理だ。民間人も多く出入りするこの王宮で、いずれこの子の噂が独り歩きすれば、国交に大きく影響する。
あの状況から言って、カリアの横入はいかにも不自然だ。王を討ったのはカリアだと思われても仕方ない。いや、むしろそう思うのが自然だ。
戦争になる。
断じてそれだけは避けねばならない。ゴダールのような軍事国家を前にすればシンなどひとひねりだ。
ぼんやりとたたずむ黒髪の王子を見て、ふと、いっそ殺してしまおうか――カリアはそう思った。
だが、ララと抱き合って眠る愛らしい二人を見ていて、そんなことができるはずがないと思う。
やがて、ラウルが心を取り戻したのを見て、カリアはやむなくラウルを国に帰すしかなかった。
ララの嘆きは、宮廷に住まう者全員の心を痛ませた。
そして、今まさに炎に包まれた人影を見て息を飲んだ。
その黒い人影から幼子の細い悲鳴が聞こえるのだ。この凄惨な光景にカリアは思わず目を閉じた。
遅かった──
助かるまい。そう思って諦めた次の瞬間、シンがその悲鳴に向かってまっすぐ炎の中に突っ込んで行った。
「シン!」
驚いて引き止めようとしたが、シンは聞く耳を持たない。
そして、全身を炎に焼かれている女は、胸に硬く抱きかかえていた幼子を最期の力でシンに差し出した。
シンがその子を口の中に咥え、再び空に舞い上がった直後、女は安心したように崩れた。
シンが人を救うなど、珍しいこともあるものだと思った。
神龍が民を救う慈愛に満ちた神だと思ったら大間違いだ。むしろその逆で、まるで息をするように人の命を簡単に刈り取ってしまうこともある。
恐ろしく賢く長生きで、色の違う種類ごとに、この世界の「精」を統べるこの得体の知れない古い生き物に、人は『神龍』と名付けて崇め奉っているのだ。
しかし、それでも、長年付き合えば多少慣れるということはあるもので、互いの考えていることがわかることもあれば、気が向けばシンは、カリアのいうことを聞いてくれることもある。乗り物がわりに背中に乗せて、カリアの望むところに連れて行ってくれるのもそうだ。
シンが気まぐれに救った少女は、まだ赤ん坊といってもいいような幼子で、両親を失ったショックで口が利けなくなっていた。シンとカリアの姿が見えなくなると、火が付いたように泣きわめくので、最低限の意思の疎通が測れるようにと字を教えると、たちまち覚えて真っ先に自分の名前を書いた。
「ララ」。
以来ララは、スケッチブックを持ち歩いては様々な人と会話した。
そんなララを、みんな微笑ましい気持ちで見守った。
幼いララは言葉を失っても、人との関わりを捨てたわけではなかったのだ。それは、あの凄惨な体験の中で、空に輝く星のように強く美しい希望だった。
自分の全身が業火に焼かれても、我が子を必死で守ろうとしたあの母の強い愛は、確かにこの幼子の中に息づいている。
大切に育てようと改めて心に誓った。
そして意外だったのは、シンがララの傍を離れなかったことだ。大人を三人ほど楽に乗せられるほど大きな身体を、不思議な力でグッと小さく変化させ、ララを守るようにぴったりと傍にいた。長年付き合っているカリアですら、シンにそんなことができるとは夢にも思わなかった。それがましてや、馬にまで変身したのだから、カリアはある予感に胸が震えた。
それより少しあとに見つけた男児は、実に厄介だった。
その頃のカリアは、今よりうんと精力的に医師として全国各地を回っていた。
シンの神龍色である白は、老婆に化けるのに適していた。
もともと小柄なこともあって、人々は実に都合よく、カリアを白髪の老婆と思い込んだ。
カリアはそれを利用して、まだ若い頃から老婆のくすしとして各国で偽名を使い実績を積んだ。
『アリカ』『イリヤ』『ウルカ』と呼ばれる三人の名医は、実はみんなカリアのことである。
各国を巡り歩いているときに、優秀な若者を召し上げては、積極的に創設したばかりのシンの医療大学に入れた。シンで十分学んだ彼らは、やがて故郷の国へと帰り、各地に医院を構え、そこで地域医療に貢献した。カリアはそんな弟子たちの医院には、地域の様々な情報収集と引き換えに、優先的にシンの貴重な薬を卸した。そこはたちまち評判の治療院になっていった。
つまりそこは、シンの諜報活動の拠点となったということである。女王カリアはなかなかにしたたかだった。
ちなみに、金持ち貴族や王族の診察料だけはやたらと法外なのが特徴だ。
そんな無茶な仕事ができたのも、カリアの移動手段が優れていたからだ。
シンの背中に乗って一気に空を渡れば、行けないところはほぼない。むしろ伝令の方が時間がかかったほどだ。
ある日、そんな旅の途中で、シンがララを救ったときのように唐突に進路を変えて、ゴダール王宮に舞い降りた時は泡を食った。
厳重な警戒が敷かれている大国ゴダールの王宮のど真ん中に、シン国の神龍が女王とともに忽然と降り立ったのだ。
いくらなんでも、重大な侵略行為だと言われて戦争になってもおかしくない。
それに、たまたま警護の臣下に見咎められなかったことも、あとから考えれば奇跡としか言いようがない。
だがその時のカリアは、目の前の扉の向こうで、幼子が若い龍王色の女に今まさに刺し殺されそうになっていることにとっさに反応しただけだった。
これほど歳を重ねていても、若い頃から徹底的に仕込まれた体術は、王宮育ちの高貴な女の手を止めるには十分役立った。
正確な手刀一つで気を失った女は全身血まみれだった。
部屋の奥の寝台には、この女に滅多刺しにされた、やはり黒髪の龍王色の男が絶命してすでに冷たくなっていた。
見たところ女に傷はない。返り血で血濡れているのだ。殺されかけた幼子は、首から血を流しながら気を失っている。この子も龍王色だ。直ちに治療しなければ、失血死してしまうだろう。
とにかく、一刻も早くこの場を離れなければならない。カリアは子供を抱きかかえ、シンとすぐさま王宮を後にした。
この事件が、ゴダール宮廷を揺るがす大事件だと知ったのはだいぶあとになってからのことだ。
とかく貴人のスキャンダルは表に出にくい。
各地の弟子がもたらした情報によると、殺されていたのはゴダールの王で、殺したのは娘のシェリル姫。久しぶりの里帰りで王宮にいる父に、孫を会わせに行った姫の突然の乱心だったという。
とっさに連れ帰ってきてしまった幼いラウル王子を、どうしたものかとカリアは頭を抱えた。
ところが、心を自閉してしまったこの子に、幼いララが実に根気良く子供らしい熱心さで接した。またこの子も、そんな状態なのにララの傍を離れようとしなかった。それが愛らしくて哀れで、意識を閉ざしているうちにゴダールに帰してしまう方がいいとわかっていたのに、結局、一年半もズルズルと先延ばしにしてしまった。
カリアはこの愛らしい二人を見ているのが幸せだったのだ。
だが、黒の龍王色を持つこの子を、シンの王宮で育てるのは無理だ。民間人も多く出入りするこの王宮で、いずれこの子の噂が独り歩きすれば、国交に大きく影響する。
あの状況から言って、カリアの横入はいかにも不自然だ。王を討ったのはカリアだと思われても仕方ない。いや、むしろそう思うのが自然だ。
戦争になる。
断じてそれだけは避けねばならない。ゴダールのような軍事国家を前にすればシンなどひとひねりだ。
ぼんやりとたたずむ黒髪の王子を見て、ふと、いっそ殺してしまおうか――カリアはそう思った。
だが、ララと抱き合って眠る愛らしい二人を見ていて、そんなことができるはずがないと思う。
やがて、ラウルが心を取り戻したのを見て、カリアはやむなくラウルを国に帰すしかなかった。
ララの嘆きは、宮廷に住まう者全員の心を痛ませた。
応援ありがとうございます!
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