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127・El Clásico 2 GO! DAI GO!

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 ロイヤル・マドリーのキックオフで試合が始まった。
 センターフォワードの真吾がトップ下のバランにボールを落とし、試合が開始される。
 それをバランは左サイドの大吾へと回した。大吾が監督のフランチェスコリを見ると、親指を突き出して『GO!』とサインを出した。遠慮はいらない、との指示だ。

 エル・ブランコでも14番を付けた男は、突破を開始した。
 今現在では、世界最高のドリブリング技術を持つと言われるその170cmに満たない短躯。
 全盛期を迎える23歳のシーズン。スタミナも芳醇とはいえないが、90分つようになってきた。それを犠牲いけにえにして『ボールの声』を聴いてきたが、それすらも試合中ずっと共鳴出来ているのかもしれない。

 だが、この試合では『ボールの声』を聴ける人数が多すぎる。
 大吾、真吾、バラン、ルカ、ジュニオール。
 だから、大吾は『ボールの声』に逆らうことすら行う。それが彼ら『ファンタジスタ』と呼ばれる相手に対して、どれだけ有効なのかを知っているからだ。
 むろん、それは自分で自分を苦境に追いやることを示してもいる。自分で自分を難しい状況に追い込み、単純にプレーの難易度が上がるのだ。

 それを大吾は楽しんでいる。
チーノ中国人!』とバルサのクレが悲鳴をあげ、指笛を鳴らす。
 それすらも今の大吾は楽しんでいる。



 リバウジーニョ・ジュニオールが、大吾のマークに就こうとする。
 だがジュニオールもジュニオールで得手不得手がある。彼は攻撃特化の選手であって、その守備技術では今の大吾を完全には止められない。

 何度目かのフェイントの応酬。
 それを繰り返し、大吾はブラジルの好敵手を抜いた。

 次にやって来るのは、クロアチアの好敵手。
 ルカ・ボバンが、その巨躯全身を使って大吾を封じ込めようとする。

 大吾が行ったのはメイア・ルア裏街道。『半月』を意味するそのフェイントは、『半々月』もしくは『ナツメグ』と言い換えても良いかもしれない。
 通常、相手の横にボールを通し、自分はその逆を通り抜ける技であるところを、大吾はルカの股を抜いたからだ。

「まだだ!」

 反転したルカは、その暴力的な右足を持って大吾をなぎ倒した。
 通常であれば、ファウルであるはず。
 しかし、ホームタウン・ディシジョンによって審判は笛を鳴らさない。

 倒れた大吾を横にして、ルカは前線左サイドへとボールを蹴りだした。

 そこには、もうジュニオールが走り寄っていて。
 マルコスとのブラジル代表1on1が始まろうとしている。

 ジュニオールは、マルコスを強引に抜き去ろうとする。

 剛と柔。
 勇也は前者に傾き、大吾は後者に寄りかかっている。

 だが、大吾のライバルであるものは、それを両者とも兼ね備えているものが多い。
 ただ、ただ単純にプレースタイルが2倍なのだ。

 ジュニオールが、マルコスをそのパワーで封じ込めたとき。
 ラウール・サリーナスが、そのボールを華麗としか言いようのないスライディングタックルで奪い返した。

――なんという、ポジショニングセンスと、危機察知能力!

 大吾は感嘆せざるを得ない。
 今まで出会った守備者は皆パワーが主体だった。その守備の分野で、ラウールはテクニックでロイヤル・マドリーのレギュラーにまで登り詰めたのだ。

――弟子入りしたいのはこっちの方かも……

 普通、有名選手の二世といえば、お坊ちゃま育ちで泥臭いプレーを嫌う。
 その親は貧困からの脱出のために、どんな手でも使うプレーヤーに成り果てる。だが、その子供は最初から金持ちで成功の手段ではなく、単純にサッカーは親がやっていたということでまず興味を惹かれるという性質のせいだ。
 真吾と大吾もその華麗なプレースタイルからそうであるかもしれないし、リバウジーニョ・ジュニオールに至っては顕著でさえある。
 サッカーに暴力性と国家の統一を求めるルカ・ボバンに言わせると『スマート過ぎる』と吐き捨てられるかもしれない。

マエストロ師匠、行きますよ!」

 そう言って、ラウールがロングパスを蹴り込んできた。
 だが、それは著しく精度を欠く。

「前言撤回。やっぱりあいつは俺の弟子であるべきだ」

 パスを受けるために数メートル、大吾はポジションを変えずにはいられない。
 その数秒のため、バルセロナの守備陣形は整えられた。

 右サイドバック、クレウスがプレッシャーをかけに大吾へと迫る。
 そして、センターバックのルハンも、そのカバーに入る。

 スペインを代表するディフェンダー相手に、大吾にできることと言えば……

――簡単だ

「全員、ぶち抜けば良いんだろう!?」

 大吾に向けられたクレのブーイングが容赦なく降り注ぐ。


『自分に反発する人間が多いということは、それだけ相手に対して脅威で、影響力を持つという事かもね』

 昨日、凛が大吾にそう言った。
 もともと弱気である大吾を、妻はそう言って操縦している。言い方は悪いが、一種の洗脳かもしれない。
 彼女は断定するような言い方をすることは余りない。
 文脈からいろいろな解釈が出来るように、曖昧な言葉を好んで使っている。
 それは『自分の意見はこうだから、あなたも自分の頭で考えて意見を言ってみて』という彼女の主張だろうと大吾は思っている。
 彼女が『勝て!』と最後に断言したのは、前回の五輪の直前。
 未だ彼女の姓が雨宮だったときと大吾は記憶している。


 大吾は突貫した。
 そのボール捌きは、とても優雅で、とても甘美で、とても魅惑的で。

 ボールが足に吸い付いているとでもいうのであろう。
 繰り出されたフェイントは、ボールが足と一体化しているとしか言いようがない。

 クレウスを躱し、ルハンを躱し、ルカ・ボバンを躱し、ジュニオールを躱し。
 また戻って来たクレウスを躱し。

「ダイゴ、こっちだ!」

 リュカ・バランがそう言って、パスを要求した。

「俺に回せ!」

 真吾がそう言って、バルセロナの最終ラインをかき乱す。

 大吾が選択したのは……

 永遠のドリブリング。

 またルハンを躱し、もうひとりのセンターバックも抜き、ルカがファウルで止めようとする。

 大吾はここでギアを一気に上げた。

 先ほどまでのスピードではない。

 右手で大吾を掴みかけようとしたその場所には、もう彼はいなかった。

 ゴールキーパーが飛び出してくる。

 大吾は上体のボディフェイントで、フィールド上でただひとりだけ手を使えるキーパーすら抜き去ろうと試みる。

 倒れ込んだキーパーの横でまたさらにギアをあげた大吾は、ボールをゴールネットへと優しく送り込む。


 トレードマークとなった長い黒髪。
 それがダイヤを含んだかのように、オリンピック・スタジアム中に光を反射して輝いていた。
 大吾はペロッと舌を出して、口の横を舐めた。
 試合をしているのはホームであるマドリードではなく、沿岸部のバルセロナだからだろうか。
 いつもより、その汗の含む塩分要素が濃いように感じる。


 向島大吾の9人抜きが完成した。

 バルセロナ・オリンピック・スタジアムの6万人は黙り込み、とてつもなく異常なことに、ロイヤル・マドリーの14番に向けて拍手が繰り広げられる。

 政治的敵対者に花を贈ることなどあるだろうか。
 バルセロナの本拠地でそれが確認できるのは、イングランド人ウインガー、ローリー・カニンガムが最後だ。
 それも40年以上前!
 今回の大吾へ向けられた拍手は歴史上の出来事であるはずなのだ。

 歓声を縫うように、指笛も聴こえてくる。

『Bravo!』

 イタリア語が元であるはずのそれは、スペイン語でも発音は同じだ。
 40年ぶりにエル・ブランコの選手が、ブラウ・グラナの本拠地を魅了している。

 カニンガムの生命は33歳で停止した。
 だがこのアジア人はまだ23歳にもなっていない。順調であれば、あと10年はスペインでそのファンタジーを見せつけ続けることであろう。


「なんで、バルサは彼を取らなかったの?」

 親子三代でバルセロナのソシオに入っている孫がそう祖父に問うた。

「残念ながら、バルサにはカネがない」

「リバウジーニョ・ジュニオールは取ったのに? あのブラジル人より、このアジア人の方が見ていて楽しいよ!?」

 祖父は少しだけ言葉を濁して、孫の頭を撫でた。
 周囲の視線が痛い。思ったことをすぐ口に出せるというのは子供の特権だろう。

『一度でも白を纏った選手は要らない』

 それがバルセロナのポリシーでもある。
 しかし、金さえ積めば、あの世界最高の選手はブラウグラナにやって来るのだろうか?
 思えば、バルセロナの黄金期は、いつだって世界最高の助っ人とともにやって来た。
 ヨハン・クライフ、ロナウジーニョ、リオネル・メッシ……そしてダイゴ・ムコウジマ?


 それが、このスタジアムにいるものすべてがわかっているからこそ、観客は騒ぐ言葉を紡ぐことを辞めない。
 彼は白なんて似合わない! 彼は青と臙脂がこの世で一番似合う。
 世界最高のファンタジスタは、バルセロナで活躍すべきなのだ!

 オリンピック・スタジアムが、大吾の全身を包み込み、その肌に粟を引き立たせる。
 彼の伝説が誕生した瞬間であった。
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